ブログは私の清書したメモ帳。しえるです。
前に同じ話を目にしてメモしてあっても、その時が理解できる時や受け入れられる時じゃなければ、腑に落ちてないから定着しないし、環境に左右されて忘れてしまうこともあるし、そもそも気持ちって揺らぐものだから、何度でも思い出せるようにこうやってブログに残してます。
長年、自分と向き合い続けてきてしょっちゅう行き着くのは「責めているのは自分」ということ。
特に「自己肯定感が低い」と思って、上げることに躍起になっていたときの私は、自己肯定の意味をはき違えていたなぁと思います。
今日は自分で自分を責めないよう「自己受容」をテーマに試行錯誤してきた中で、気づいたことを記します。
「自己肯定」にこだわると陥りやすいと感じる2つの罠と最近の心の支えになった言葉
自己否定の否定は自己否定
最近は「自己肯定感」なんて言葉もよく見聞きするようになりましたが、自分を否定する気持ちを否定したら、それは「自己否定」になってしまいます。
自己肯定をしたいなら、ネガティブな感情や自己否定すらも肯定してこそでしょう。
メンタルがやられたことがあると、似たようなネガティブ思考に陥った時など、この状態はまずい傾向だ……と過去の状況を思い出して、そうならないようにと焦ってしまうこともあります。
でも「こう捉えたほうがいい」「こう立ち回ったほうがいい」という知識によってポジティブな考え方に持っていくために、苦しい、つらい、イライラする、モヤモヤするといった気持ちを無理やり押し込めようとすると、より苦しくなってしまいます。
それはポジティブであろうとするために、自分のネガティブな気持ちを認めず、すなわち「自己否定」をしてしまっているからなのでしょう。
自己否定も肯定してこその自己肯定だと痛感するこの頃です。
だからそういう気持ちが生まれたときは、泣きたかったら泣き、わめきたかったらわめき、苦しい!つらい!イライラする!頭痛い!モヤモヤする!しえる最低だな!嫌い!死にたい!とどこまでも一緒に乗っかってみることにしています。
どこか出す言葉に気をつけたいという気持ちがあったのですが、詰まらせないで、出せば出すだけ消化できるのだと考えれば、言霊などの考えに縛られる必要もなく、気が楽ですね。
自己否定じゃなくても「また後回しにしちゃったなぁ…」とか「やりたくないけど手をつけないとなぁ…」というような焦りや恐怖も覚えたりするんですけど、それすらも「焦るよね~」「でもやりたくないんだよね」「本当にこれでいいのかな~」「いつまで続くんだろ……」「怖いなぁ~」とひたすら同調します。
そうやっていると、少しでもモヤッとした気持ちが生まれるとすぐに、「今モヤッとしてたけどどうしたの~」「なんかイヤなんだね~」と迎えに行ったりして、積極的にネガティブな気分に付き合うようになってきた自分がいます。
必要であれば、信頼してる身内に頼ることもしてます。
別に全部を1人で抱える必要はなくて、泣くときに胸を貸して話を聞いてくれる人がいることを今は知っています。
当時はもちろんすべて辛かったけど、今思うとどんな時も誰かしら手を差し伸べてくれる人がいたなぁと思います。気づけていなかっただけで。
自分には誰もいない…と思っていた時もありましたが、実はいつだって誰かいるのに、私が見ようとしていなかっただけだったなと今は思っています。
世界には80億人もいますし、誰とも関わらずに生きていくのはおそらく至難の業でしょう。
個人の居酒屋とかバーとか行ったりすると、意外と話を聞いてくれるところもあります。
この調子で、「言いすぎちゃったなぁ~」「うまくできなかったな~」とか「比べて落ち込んじゃう」というような時も、何かをうざいと思ったり、怒ったり、否定したくなる時でも、悔んだり落ち込んだり、反発したりするのをよしとして、受け入れられない自分を受け入れられるように、とことん自分に付き合ってみようと取り組んでいます。
不安を覚えやすいのも、力不足に落ち込むのも、真善美のジャッジをしてしまうのも、言いたいことが言えないのも、受け入れられないものがあることも、全部自分の一部分ですからね。
自己肯定の理由づけは正当化
「自己肯定」するために理由を並べ立て始めると、今度は「正当化」になってきます。
たとえば何かが達成できなかったとき、ただ「できなかった」だけでいいのに、「○○だったから」と理由を並べ始めると、それは言い訳となり始め、なんだか苦しくなってきてしまいます。
理由は今後の改善に使えば有効活用できますが、そうじゃなければ、その出来事の負荷や心の重しが増えるだけなので、できなかったことに対して追及する必要はなさそうです。
また、理由は条件につながり、その条件を満たさないとできない自己肯定は、満たせない時により苦しいものとなってきます。
私は自己啓発にハマったこともありましたが、成長を感じて楽しい時期もあったけど、だんだんどれだけ乗り越えても許されない感覚や、所詮付け焼刃でメッキが剥がれていく恐怖が無理すぎて手放すしかありませんでした。
正解と思うものに当てはめなくていい
最近、特に私の心の支えになったのは「わからないことがわかった」と思えばいいのだということ。
それまで「どうすればいいかわからなくてつらい」「理解できないのが苦しい」と思うことがあったのですが、「今はわからない」と受け入れていったん手放し、ほかのことに移ればいいんだと思い始められるようになってきました。
前に「答えを出さなくてもいい」という考え方に衝撃を受けたことはありましたが、それはつまり「わからなくていい」「今答えを出せないことがわかった」ってことなのだということまでは理解できてなかったようです。
まず、そもそも人生において正解というものはないのだろうと思います。
人間万事塞翁が馬、良し悪しなんて簡単にひっくり返るし、いつ何時、何が起こるかわからないからです。
そして何ごとも自分で試してみないと、自分に合うものがわかりません。
好み、得意不得意、興味の度合い、身体機能、価値観、思想、感性、それぞれ皆バラバラだからです。
でも、すべてを意図して出会って気づけるわけでもなく、流れで始めただけだったけど自分に合っていたとか、むしろ自分の得意が当たり前になりすぎていたり、周りと比べたりなどで自分の個性を見落としたりとかもするし、常識とか価値観、性格・キャラなど、いろんな「こういうもの」という思い込みに囚われもするし、自分軸がない、自分がわからないと見失うことだってあります。
正解はわからないけど好きなものに生かされてきました
そもそも私は子どもの頃からずっと、生まれたくて生まれてきたつもりじゃないと思ってるのに、生まれてきただけで社会に放り込まれて、勝手に社会の義務とか押しつけられて意味がわからないと思っている自分がどこかずっといるんですね。
そんなですから『ベロニカは死ぬことにした』にシンパシーを感じたくらいで、今でこそ別に社会適合者が正解・不正解だとかは思ってないけど、人生経験が少ない頃は「普通になれない」と感じて、まぁ長らく苦しい気持ちを抱えてきていて、死ぬ気はないけど生きたいという気持ちもあまりなかったのですが、それでも私が今生きているのは、好きなものがあったからなんですよね。
小学生くらいから人生に絶望していて、社会的にやりたいことなんて全くなかったけど、それでも私は自分の好きなものに対するセンサーだけは昔からよく働いていていたように、今は思います。
アイコンでもある飼っていたボタンインコは小学~高校生という多感な年ごろの相棒だったし、今1番趣味を共にする友達は中学からの付き合いだし、ラルク、ポケモン、FF、音楽、ドラマ、マンガ、ネット、小説、アート、映画、モンハン、ライブ、サッカー、旅行、カフェ、カラオケ、謎解き、YouTube、釈迦さん、ゲーム配信などと好きなもの、続きを知りたいものに夢中になり続けて、なんだかんだ今も生きてるという感じなんです。
今でこそ推し活やオタクはずいぶん一般的になってきていますが、私が子どもの頃はそうじゃなかったし、どうせそのうちすぐ死ぬと思っていたからこそ、社会に無気力で、好きなものにフルスロットルだったわけですが、好きなものに生かされて、その間に出会った人や物事によって、どうやら自分次第でもう少し生きやすくすることができるらしいとわかってきて、いろいろ試行錯誤してきたことや救われたもの、癒やされたものたちをこのブログに残しています。
自分にとっての正解探し
でもあくまで私がそう感じてきたものというだけで、他の人に合うとは限らず、一人一人違うからこそ、自分に合うものを見つけられるのは自分だけなんですよね。
そうなると唯一正解と言えるものがあるとしたら、それを見つけるために自分の気持ちをジャッジせず、素直になることなのではないかと思います。
人が皆、前向きに生きたいと思っているとは限らないし、推しに生かされてきたからこそ、世の中には幸せな気持ちになれる居心地のいい場所があることを知っているし、好きなものの力も身をもって知っています。
前に「人生を快適に過ごすために、自分に集中して、自分の理解に徹する」という話を書いたことがありますが、どちらかというと私は自分の気持ちを問うのが苦手で、今は自分を理解できなくていいから、ただ自分の気持ちに抵抗せずにいこうという考えに変わってきました。
自分の好きなもの、苦手なことなど、自分にとっての正解の感覚を見つけられるほど生きやすさが増してきた実感はあるので、自分の感覚というのは重要な指針なのだと思います。
私が私の逃げ場となり、安心できる場所になるために。
今はネットの利用者が増え、いろんな人がアウトプットをし、こうしたらいい、ああしたらいいというライフハックや情報にあふれていますが、それらはこのブログ含めてすべて、その人にとって今、正解だと思ってることにすぎません。
当人の中でだって半年前、半年後、1年前、1年後とその時々で考えが変わるのも全然ありえます。
自分の中で答えを見つけたと思っていても、年月や経験などを経て考えが変わったりするので、またその時々の気持ちの変化に戸惑ったり、新しい自分の気持ちを知ろうとしたり、気持ちはもう変わってるのに無視したまま昔の感覚で突き進もうとしてモヤモヤしたりなどが起こることもわかってきました。
ネットは自分が知らないことに出会ういい機会ではあると思うので、合うものは取り入れて、合わないものはポイっと捨て置くにはいいけど、おなかいっぱいな時に見る必要はないし、自分の感覚を受け取りづらくするノイズになってしまうこともあるので、使い方次第ではありますね。
近ごろの私は世で正解と思わされるものは一旦置いといていますが、世で正解とされてるものに従ってもいいし、SNSを見る手が止まらなくてもいいし、ふてくされてゲームしたっていいし、現状に不満を覚えていいし、みんなと仲良くしなくていいし、怒りたかったら怒ればいいし、反論したかったら反論すればいいし、スルーしてもいいし、なんだっていいと思うんですね。
ただ、相手がいるとき、それを相手が受け入れるかはまた別問題で、嫌がられたり、やり返されたり、捕まったり、出るところに出られたりするので、それは遅かれ早かれ受け入れるしかなくて、皆がそういう痛みを味わいながら何かを学んだり、感じたりしていってるのだと思います。
世の中持ちつ持たれつだし、だからといって全部に付き合わなくていいし、相手は選んでいいし、誠実さは見失わないようにしたいところです。
「全員や、この世界に対する責任を背負っていくことを、一回やめてみる。今、みんながバラバラになってしまうのもしょうがない。その動きを、私ひとりの力で止めていくこともできない。だからまず、一回、全責任のパワーを脇にどかして、私が単体で楽しんでいくことから始めたい。私が認める人だけ、仲間として選んでいって。よーし、私も好き勝手やるぞー! 」
なのです。不思議と吹っ切れていくことができているのです。
最初からみんなを受け止めるのではなく、まず、自分の周りから、最小単位の「文化共同体」を作っていくような感覚ですね。
すごく乱暴な言い方をすると、もうけっこう、「みんながバラバラ」になるのはしょうがない。だからこそ、また0から、そして、1から、新しく「仲間」との関係を作り直して、新しい環境や文化を作っていく。全員で同じ答えや合意を持っていくことは無理になってしまったからこそ、「価値観が違っても一緒にいられる相手」を再びちゃんと選んでいく。人のことを「好き」や「嫌い」だけで選んでいくのではなくて、「この人のことは信用できるか」の基準で選んでいく。
これを書いた後、ふとしいたけ占いを振り返ったらこんなことが書いてあって、まさにそのとおりすぎて笑ってしまいました。