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【揺れる真善美】正しいかどうかは気にしなくていいと思えた話と、たまには自分の足跡を振り返って実感するのもいいと思う話。


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何事も過程がある。しえるです。

 

結論から書くとわかりやすいと好まれる傾向にありますが、それで結論だけ抜き取って変に捉えられてしまうくらいなら、多くに読まれなくてもいいから「過程」を伝える文章があってもいいですよね。

 

今日は私が自分にとっての精神的安定に役立った2つの考え方について書いてみようと思います。

【揺れる真善美】正しいかどうかは気にしなくていいと思えた話と、たまには自分の足跡を振り返って実感するのもいいと思う話。

揺れる真善美

人間の理想とする価値観として「真善美(しんぜんび)」という言葉があります。

「真」…認識上の真
「善」…倫理上の善
「美」…審美上の美

行動規範として使われやすい言葉で、ユニクロ柳井正会長もよく使うそうですが、人はこの「真善美」をもとに物事を判断する場面も多々あります。

年々厳しくなっていく基準の類も、少しでも問題と感じると発生するクレームも、陰謀に立ち向かう正義もその一例と言っていいのではないでしょうか。

 

私はとある先生からこの言葉を教わったのですが、同時にこれはあくまで「正しいか、正しくないか、というただの判断」にすぎないことも教えてくれました。

ブレてもいい

この時の私は、自分軸というものがないと思い悩んでいる時でした。

自分本位は上手くいかない、でも自分がなさすぎてもダメ。
あっちを立てれば、こっちが立たず。
どの意見ももっともに見えてしまってノーと言えない自分。

それまでに出会った人や本などで見聞きしてきた、たくさんの価値観の中で溺れて、何が正しいかがよくわからなくなってしまっていて、日々揺れる自分の心が手に負えなくなっていたのですが、先生はそんな私に「自分を見つめることができている証拠だよ。むしろそこまで内観している人は少ないし、バランスよく揺れることができている」というようなことを言ってくれました。

 

それでも半信半疑な私は「ブレブレで不安定な自分がイヤ」と伝えたのですが、先生は「むしろ固定してしまうと折れてしまう」と言います。

 

「柔よく剛を制す」「柳に雪折れなし」「堅い木は折れる」といった言葉もあるように、しなやかであれば柔軟に対応できるものも、力づくで抵抗するだけでは自分が折れてしまうと言いますが、これは物理的な話だけでなく考え方も同じとのこと。

揺れてバランスをとりながら、少しずつ波の振れ幅を小さくしていくことで安定していけるものが、頑なに押し通そうとすれば不都合なことから目を背けてしまったり、以前と整合性を合わせるためなどに無理が生じたりしてしまいます。

答えを出さなくてもいい

「解決されなくてもいい。答えが見つからなくてもいい。」

そして自分軸という答えを求めていた私にとって、この先生の言葉は完全に視野外で、思いもよらなかったものであり、衝撃を受けたものでした。

 

日本にいると、何かと白黒をつけたがると言いますか、良いか悪いかなど両極化しがちだと感じます。

 

しかし、そもそも人によって何を「良し」とするかの価値観は違いますし、自分自身も日々生きる中で、経験によって考え方が揺れたり、変わったりすることがあります。

というのも「世界には知らないことが多すぎる」ことを、何かを知れば知るほど認知していくからです。

「知っていることが増えると知らないことが増える」感覚が怖かったんだけど、ある考え方でとても腑に落ちた「(これが)無知の知」 - Togetter

gendai.ismedia.jp

私はここ最近でも『はじめてのエシカル』『売り渡される食の安全』『14歳からのプラスチックと環境問題』『プラスチック「革命」』『国家の罠』『デタラメ健康科学』『超加速経済アフリカ』などの本を読んで、物事の見え方があちこちでガラッと変わり続けています。

 

今までの世界線に疑問を感じた時、これまでとは違うことを考える時、不安に感じるのは正常であり、逆に「不安に感じないほうが危機管理力が少なくて危険だ」(痛覚があるから危険を冒さなくなることに近い)ということもあわせて教えてもらってからは、未知の世界に躊躇したり、知らなかったことに落ち込みはしても「そこから知っていけばいいんだ」と考えられるようになり、それだけ知らないことが多い世界なんだから「答えなんて出せやしない」という感覚になりました。

 

そんな変遷を経て、現在の私は「あくまで現時点における自分なりの真善美」が自分軸と言われるものではないかと考えています。

できることは「その時、自分が思う最善を尽くすこと」であり、全方向の視点を網羅するなんて無理だから「なんか違うと気づいた時に軌道修正すればいい」のだと思います。

そして日々変わっていく移ろいやすいものですから、誰かに考えを強要する必要は一切ないし、むしろ誰かが押し付けてくるようなことがあればそれはたいていの場合、気にかける必要もないと思っています。

その行為があることで、私がこういった考えに辿り着いた以前の視座による情報にすぎないと感じてしまいますし、情報なんて自分から取りに行けばいい話ですからね。

私がよく情報を参考にする「あくまで提示」という手段をとっている方々は、私と似たような思考経路を経ているのではないかと推察しています。

自分の成長を振り返る

先日「自分を数値化する」という記事を見かけて、なんとなく自分を当てはめて考えてみたら、子どもの頃から今の自分までにとてつもない進歩を遂げているのかもしれないと思うことができました。

0→無 -100〜-81
1→絶望・発狂の世界 -80〜-61
2→閉塞感の世界 生きてはいるが、壁に囲まれてる。-60〜-41
3→逃避の世界 少しの自覚 -40〜-21
4→停滞の世界・小さな光 -20〜0
5→ダイヤモンドの世界への突入 0〜20
6→ダイヤモンドを日々濃くしていく世界 21〜40
7→自己実現の世界。 41〜60
8→願望達成の世界。 61〜80
9→解放の世界。 81〜100

【D6】自分を数値化する | ナリ心理学オフィシャルブログ「Nali Psychology」

ちなみにダイヤモンドというのは、この方が提唱する心の在り方の定義で「自分が存在していいと思えてるかどうかの違いです。」とのこと。

要約してしまえば、「自分がダイヤか、非ダイヤか」と二極化した話の中では変われない自分に落ちこんでしまうかもしれないけど「変化幅が大事」だといった内容でした。

(私はナリくんの「ショック状態」という考え方で影響を受けたので、ダイヤモンドの部分はあまり読んでおらず、よくは知りません…)

ciel-myworld.hatenablog.com

私にとって10代はずっと「1」の世界でした。
ただただ絶望していたから、現実を生きている感覚はありません。
現実を生きていないから空っぽでふわふわしていたし、やけくそでした。

でも今の私は自己実現のために動いているので「7」です。
どんなに少なく見積もっても100の前進をしています。

前に進んでいるかと思いきやつまずく感覚で、苦しかったことは数えきれないほどあったけど、この物差しでいえば6段階も進んでるなんて自分すごいじゃん!って思いました。笑

 

生きていればレベルアップしたと思っても次の難題がやってくるもので、自家発電できるタイプであれば「乗り越えてやらあ」って勝手に燃えて突っ込んでいきますが、次々くる壁に辟易してしまったり、ちょっと疲れてしまうことだって十分あります。

そういった時はあえて、誰かの物差しに当てはめて、来た道のりを一から振り返ってみることで、自分の進歩度合いを客観的に見られることもあるんだなぁと思ったできごとでした。

他人の物差しも使い方しだい

それで言えば、ブログやYouTubeの登録者数もその一種かもしれないですね。
自分以外の誰かと比べれば落ち込んでしまうかもしれませんが、最初は0人だった過去の自分と比べるのであれば、成長の嬉しさや見てもらえるありがたみなどを感じるばかりです。

 

「他人の物差しからの脱却」なんて話もよくあったりしますが、それよりも「他人の物差しの使い方しだい」なのかもしれません。

他者がいるからこそ自分の個性や感情に気づけるのと同じように、自分だけだと「自分がどのくらい進んできたのか」がわかりにくいものが、「他人の物差し」があることで、自分が歩いてきた道のりを見える化」できるものなのかなと思いました。

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