私の中ではこの3日間で3部作。しえるです。
先日漫画『ここは今から倫理です。』について記事を書きましたが、そのときは、漫画の中で1番自分の中で考えさせられた回については触れませんでした。
善と悪とは?「あなたはいつかいじめっこをいじめてしまうかもしれませんよ」というパワーワードに考えさせられた話。
『ここは今から倫理です。』で最も考えさせられた回【理想の先生】
この回では、元いじめられっこの男の子に焦点が当てられます。
この男の子の将来の目標は学校の先生。
それも助けられる先生、いじめられっこに寄り添える先生になること。
「いい先生」をめざし、お手本になるような先生を探していて出会ったのが、倫理の高柳先生でした。
そんな気持ちを打ち明けて相談しようと会いに行った高柳先生はタバコを吸っていました。
男の子はタバコにトラウマがあり、一気に幻滅してしまいます。
高柳先生は喫煙が唯一許可された社会準備室でタバコを吸っていたのですが、嫌煙家である社会科の先生が戻ってきて、文句を言われて追い出されてしまいます。
私は不当に部屋を追い出されたいじめられっこですか
強制的に毒を吸わせたいじめっこですか…?
もし後者だったなら――
私は貴方に救っては貰えないのですか…?
私はとてもドキッとしました。
…善も悪もいつだって曖昧です
まあ私は自分が悪いと思っていますのでおとなしく追い出されますが
でもタバコはやめません 法律で禁止になるまで…
タバコは違法ではないですけど、現代では非喫煙が正義の社会になってきていますよね。
タバコの是非と倫理観
私からすれば、タバコというデメリットしかない存在をやめられない気持ちはまったく理解できません。
健康に悪いし、お金もかかるし、くさいですし。
でも吸っている方にとっては、癒しのひとときであり、ストレス発散であり、コミュニケーションタイムの一環ですよね。
最近は吸う場所が追いやられていて、肩身が狭いという声もよく聞きます。
仲のよかった同僚が「体に悪いとわかったうえで、私は吸い続ける!」と言い切っていたのは、いっそ清々しかったです。
個人的にはマナーを守ってすみ分けしてもらえれば…
私自身も非喫煙者で、とにかく毛嫌いして、いっつも怒ってた時期がありました。
それはもう社会科の先生と同じように「なんで知らない他人に副流煙で健康を害されなきゃいけないの!?」と本気で思っていましたね。
ほんの数年前までは禁止されながらも、そこら辺の路上で歩きタバコをしている人は少なくありませんでしたので、タバコの煙によって咳や涙が止まらなくなって、身体へのダメージがひどいから、こちらも必死です。
当時は仕事中、当然のように「タバコ~」って休憩に行って長いこと帰ってこないのも、飲み会で当たり前のように吸うのも、家に帰ってきた時にくさいにおいが服についてしまうのも、すべてにムカついていたものです。
でも今はマナーさえ守ってくれれば…とも思います。
タバコを吸う人は存在しているので、私が「タバコを吸う人と一緒にいない」「タバコを吸っていいですか?にOKを出さない」という選択をすればいいし、喫煙所で吸っているだけなら、自分がそこを避ければいいだけの話であり、そういった喫煙者のいる環境から抜け出した最近では、ほぼタバコに無縁の生活を送れているので快適です。
ちなみに先日、Candy FoxxのDJふぉいくんがインスタで話していて、初めて知って驚いたんですけど、マルタでは屋内は一切喫煙禁止ですが、屋外は自由に吸っていいのだそうです。
日本とは逆なんですね。正直、日本がそうなったら私は嫌だなと思ってしまいますが…。
何かを悪とした瞬間、たとえ正義のためでも構図は逆転する
世の中には理不尽と感じることもたくさんあります。
でもたとえ何かの被害を受けたとしても、何かを悪として、誰かを変えようとしたとき、その瞬間に被害者側は相手を責める側となっており、自分も加害者側となってしまいます。
ゲロ口てめェむかつくんだよ!!理屈ばっかたれやがって!!
ほ…本当の事じゃないか!!暴力に頼るなんてヒキョウだぞ!!
…谷口くんを殴った子たちはもちろん悪いんだけど…
よくよく聞いたらあなたの言い方も良くなかったんじゃないかと思うわ
あなたもちょっとは言葉の選び方を考えないと…
なんで被害者の僕が怒られなきゃならないんだ!
100%悪という状況ってなかなかないと思います。
暴力を受けたかもしれませんが、自分も言葉の暴力をふるっていたかもしれません。
自分も傷ついたかもしれませんが、無意識に相手のことを傷つけていたかもしれません。
自分を落とさないために、相手を貶めていた部分があったかもしれません。
厳しい話ではありますが、自分だけが悪いってこともないけど、自分がまったく悪くないってこともないのではないでしょうか。
いじめる方にもいじめられる方にも原因があるって言うんなら
どうすればいいんですか 誰を助ければいいんですか!?
男の子の問いに、漫画内の高柳先生はこう答えます。
”善なるものは吾これを善とし
不善なるものも吾またこれを善とす
徳は善なればなり”
――老子
善人も悪人もみな善人だということです
人間の徳性は元来みな等しく善だからと
個人的に性善説の考え方はあまり共感できないのですが…そこはのちにまた触れたいと思います。
あなたはいつかいじめっこをいじめてしまうかもしれませんよ
…いじめっこも善人と思えっていうんですか…?
そうです そうしなければ
あなたはいつか
いじめっこをいじめてしまうかもしれませんよ
私は最後のこの言葉がかなり深く刺さりました。
「いじめるな」
「マナーを守れ」
「ハラスメントを許すな」
学校や会社など社会のあるべき姿としてよく掲げられる言葉です。
まぁまず、ほぼほぼ悪気があって使う言葉ではないと思います。
しかし、弱者を守るための正義を突きつけたとき、それは相手がたとえどんなに悪と感じていても、いじめる側に回ってしまいます。
誰かをいじめている子どもは、実は親からネグレクトをされているかもしれません。
その親もまた親から虐待を受けていたかもしれません。
マスクをせずに歩いている子が実は、マスクをするとパニックに陥ってしまう症状を抱えているかもしれません。
時代錯誤とバッサリ切ってしまうことは、その方の時代の変遷についていけない感覚を否定してしまうことになります。
パワハラを受けたかもしれないけど、自分と会社の相性が悪いことに気づいていても転職という行動を起こさなかったかもしれません。(私のことです)
たしかに問題はあるかもしれないけど、いろんな理由や状況が絡まり合っていたりして、もっともっと根本的な問題を解決していかないと繰り返してしまう可能性は高いと感じます。
小木さんのClubhouse騒ぎの件
少し前には、Clubhouse内で女性の権利向上活動家の方たちと、芸人コンビおぎやはぎの小木さんが対立したことが話題になっていました。
それに対し、途中参加したたかまつななさんがフェミニストたちの表現の仕方について言及していて、そのときの会話を聞いていないから深くは突っ込めませんが、このnoteを読んで、論点そこなのかな??と違和感がありました。
自分の中に合った違和感はこちらの記事を読んだときに、これだ!と思いました。
これまで事実に基づかない情報を発信されてもなすすべがなく、事実じゃないから大丈夫…と思っていたら何年十年と表に立てない状況に追い込まれた方々も少なからずいらっしゃいます。
しかし今は個人メディアを使って事実無根の話を否定することができるようになりました。
Clubhouseの件も、おそらく小木さんの対応は風評被害から家族を守るために表に出てきたにすぎません。
でもガードはしても、カウンターを繰り出した瞬間に攻撃した側となってしまうので、あくまで手を出さないというのがカギになります。
女性の弱い立場を改善しようとする活動に救われる方はいると思いますが、その活動の一環によって誰かを責めた場合、加害者はどちらか?という隙を与えてしまいます。
ここで言う責めるというのは、「相手の意見を聞かず自分の主張を押しつける」と定義するとしましょう。
自分の話を聞いてほしかったら、相手の話も聞く必要があります。
相手の話を聞かない人は、自分の話を聞いてもらえません。
丁寧な言葉を使っても、乱暴な言葉でも、相手の話を聞かず一方的であれば、それはただ責めています。
相手には相手の考えがあるので、考え方を強制することはできません。
対話も討論も、双方向にお互いの話を聞くことは欠かせません。
そしてたかまつさんにいたっては、まったく違う土俵で、違う論点について1人声をあげており、根拠のないことを言いふらして名誉を傷つける「中傷」をしているように見えてしまいます…。
ちなみにこの内容について、こうやって漫画や実際の事案を例に挙げて、私が感じたことを書いていますが、決して誰かを特定して非難しているつもりはないのであしからず…倫理観って本当に繊細でむずかしいですね…。
背景を聞いても同じことが言えるのか?
似たような状況というのはあっても、まったくおなじ状況というものは存在しません。
それぞれの人間関係、どういう言葉を使ってきたか、どういう態度でいたか、どういう行動をしてたのか、背景が皆違います。
その状況をどう思うかって1人1人違っていて、1番大事なのって当人の気持ちじゃないでしょうか?
彼女は一人で生き始めた
あの男と同じ様な闇の世界で…
学校という”正しい”世界ではあんなに死にたがっていたのに…
漫画の中で、違法な世界で自立できるようになった元生徒の話が出てきます。
学校という正しいとされる世界で死を選ぶのと、違法な闇の世界で生きるのと、どちらがよいなんて、当人以外の誰に判断できるのでしょうか?
そもそも小木さんの娘さん自身が幸せかどうかを他人が気にしたところで、あくまで自分の視野内の推測にしかすぎず、周りがとやかく言うことじゃないと思うんですよね。
もちろんこれまで世論を変えるために活動する開拓者たちがいたお陰で、歴史はどんどん変わってきたのはあると思います。
でもそこには血が流れたり、誰かにとっての悲劇があったりもしていて、その歴史から血を流したり、誰かが悲しんだりすることなくシフトできるよう、もっと根本的な部分に目を向けたいというのが自分の考えです。
何をもって善と悪とし、それをどう扱うのか問題
自分の大切なものが脅かされたとき、守る必要はあるでしょう。
でも守るのに手を出してしまったら、自分が加害者側となってしまいます。
それでも命の危険があるほど脅かされたときなど、手を出してでも守らないといけない状況もあるでしょう。
現代の社会はただの歴史の積み重ねでしかなく、完成された社会ではありません。
だから人の命や権利を脅かすものを守る動きは必要だと思いますし、変えるには誰かが動かないとなりません。
たとえば現在進行形の話で、現行の刑法では同意のない性行為を犯罪と認められないケースがあるため、法改正を進める動きが世界各国で高まっています。
これは泣き寝入りの状況改善のために必要なものではないかと思いながら調べています。
1面だけを見て判断するのは短絡的では?
どんな物事もいろんな側面があり、長所短所を抱えています。
サイコロは1~6面があり、書き換えることはできても「5面なんてない!」なんて主張するのは不毛です。
オナラは臭かったり恥ずかしかったりしますが、出さずに我慢したら健康に良くないです。
私は多面的に物事を考えられるようになりたいので、定期的に意識するようにしています。
1人1人の細かい善悪の基準は違うのでは?
”悪”は憎むべきだけれど彼女はその”悪”のおかげで今も生きている…
でも貴方がもし”悪”に触れ「怖い」と思い…
今学校という”正しい”場所を不快と思っていないなら
2度とこんな事しないで下さい
ちゃんと考えなさい
自分にとって何が”善”か”悪”かくらい!!
何を善と思い、何を悪と思うかは人それぞれであり、それはいろんな経験をして自分の中で築いていくものなのではないでしょうか。
個人的にはすべてを善悪に分けなくていいと思っています
先程、性善説に共感しきれないと言ったのには、いくつか理由があります。
何を善、何を悪と思うかって、自分との相性による部分って大きいのかなって思うんです。
最初、良いことだと思っていたら底辺にたたきつけられたり、逆に悪いことだと思っていたことが結果良いことに繋がったりして、長い目で見るとわからないもので、いちいち善悪で捉えなくてもいいんじゃないかなぁと感じるこの頃。
そしてそれが物だろうが感情だろうが、自分とどれだけ違いがあろうが、この世に存在している以上、それはあるものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
感覚の違いに驚くことはいっぱいありますけどね。
ただ、自分が接して気持ちのよいものに囲まれていれば幸せで、逆に不快に感じるものであれば合わないので遠ざけたいです。
また、個人的な考えで相手を変えようとすることは、相手の否定に繋がります。
「変えられるとすれば自分だけ」という考えが根底にあるので「誰かに強要しない」「何かを変えたければ自分で考えて行動する」というのが私の中で自然になっています。
所詮自他ともに通ってきた範囲内の視野でしか物事を考えられないわけで、世界はもっともっと奥深いです。
そんなちっぽけな視野で、誰かのために自分の本心を曲げるのはもうまっぴらですし、誰かが我慢することで回る世界なんて遅かれ早かれ、いつか崩壊してしまうと感じています。
今回もこうやって色々書いていますが、この記事自体もあくまで現時点でのちっぽけな私の個人的考えにすぎません。
この先、考え方に変化が表れる可能性だってあるし、自分の考えを誰かに押しつける気もなく、ただなるほどな…そういう考え方もあるんだねという一石を投じ続けるのみに徹するでしょう。
でもこの考えを否定されたとしても、私が今こう考えている事実は変えられません。
これまで何度も何度も考え方をアップデートしてきましたが、根本的な意識の変化があった大型アップデートは「ただの事実や意見の提示」から発生しているイメージがあり、「否定された経験」からは自分の快・不快の傾向を学ぶことが多いです。
自分から能動的に見聞きした体験や対話によって、なるほどと思うことがあったとき、考え方はアップデートされて、より洗練されたものになっていくのではないでしょうか。
うっせぇわの件
私は『うっせぇわ』という曲が大好きです。
つい口ずさんでしまうほどキャッチーだし、曲の盛り上がり方とかメリハリが素晴らしくて、テンションが上がります。
最近は教育に悪いなんて声も上がっているようですが、その状況って多分作曲作詞者のsyudouくんは見越して書いている気がするんですよね。
正しさとは愚かさとは
それが何か見せつけてやる
この冒頭の歌詞、まさに物議をかもすこの状況のことを指していて、狙いどおりの状況になっているのではないでしょうか?
DJ社長のインスタライブ配信で、とある深夜にsyudouくん本人が登場したことがあったんです。
提供曲だからこの曲のことについては話せなかったんですけど、あっけらかんとした朗らかで面白い方で、すぐにそのキャラに惹かれてしまいました。
うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ
syudouくんは「キャバクラ行ってあの曲俺つくったって言ってモテたいのに、コロナで行けないのが悲しい」なんて、あまりにも本気で楽しそうに話すものですから清々しさに笑ってしまいました。
一見傍から見たらしょうもないかもしれないし、 不純だとかなんだとかいくらでも言われそうな話ですけど、「大概だけどどうだっていい」って話ですよね。笑
あくまで想像ですが、いちいちそんな些細なことに目くじらを立てているより、自分はよっぽど健康的な精神状態だよと笑っているような気がしてなりません。
syudouくんがどんな人か知りたい方はぜひこちらのラジオを聞いてみてください。
超愛されキャラだと思うんですけど、いかがでしょう?
第2回も楽しすぎてオススメです。
むしろ親が子どもの失敗を恐れすぎて「あれダメ!これダメ!」ってやり過ぎると「親に言ってもダメって言われるから隠れてやるか…」となるだけなので、規制で縛り付ける上下関係を築くより、プライベートについて何でも話し合える対等な親子関係を築いた方が楽しいし、将来的によっぽど得だと思うなぁ
— 松丸 亮吾 🍥 (@ryogomatsumaru) 2021年2月24日
松丸亮吾くんのツイートもまたそのとおりだと思います。
そして大事なのは、あくまで「思うなぁ」と自分の意見に留めており、誰かに押しつけていないという点もかなり重要です。
人によって捉え方が変わる本『石を積むひと』
『石を積むひと』っていう本は善と悪について考えさせられる本としてオススメの1つです。
この本は何に目を向けるかによって捉え方がかなり分かれるでしょう。
多分人によっては、ただの救いのない本です。
でも世界ってこうやって歴史を紡いできたのではないかということだと思うのです。
昔はわたしも『タフガイ』を気取ってたもんだよ。ほんとうはちがうのにな。男は人に弱みをみせたらいかん、そう父親に言われて育った。だから、長いこと他人に自分の気持ちをみせなかった
それが結局、仇になった。わたしはいつもいらいら怒っていたんだが、それがなぜなのか、あとになってわかった。自分が吐き出したいことをいっさい表に出さず、心の内側に閉じこめていたからなんだ
いい人の正体の記事でも触れましたが、自分が我慢しているからこそ、不満が漏れてしまいます。
この縛りを解放することは、1つのカギなのではないかと本気で考えています。
ありのままの自分を好きになる秘訣をまなんだんだ。自分の弱さも強さも、全部ひっくるめて良しとする。見栄をはらない。良いところも悪いところも、全部ひっくるめて自分には価値があるって思いこむんだよ
昨年、私は「ありのままの自分を受け入れる」ということに専念していました。
これがすっごく難しいことで、何度も気持ちが揺れたんですけど、おかげで最近は自分が好きになったし、幸せな時間が増えました。
「そんなの難しすぎる。ぼくにはいいとこなんてみつからない」
「それはまわりがいけないんだ。きみのいいところを口に出して言ってやらなかったからさ」
昔の自分は、まさに「私にはいいとこなんてみつからない」と思っていました。
そういう心境のとき、どんなに褒めてもらっていても「私なんて…」って言って受け取らなかったりしちゃって、相手の良いと思って伝えてくれた気持ちを否定してしまったりします。
自分で自分を見下してどうする。そうでなくたって、気の滅入ることは外からどんどんやってくるんだ。
世の中、嫌なこともつらいことも面倒で理不尽なこともいっぱいありますけど、トドメを自分で刺す必要はありません。
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