主観より客観の方がよく見える。しえるです。
自分のことってわかりにくいけど、他人を通して見るとわかりやすいですよね。
私はつい最近まで、いい人にならなきゃとあがいていた人でした。
今回はYouTubeを見ていて、そんな自分が引き起こしていたのはこういうことだったのかと気づきがあったので書いてみようと思います。
かなり突っ込んだ内容になっていますが、誰のことも責める気はありませんので、ご理解いただきますと幸いです。
いい人が与える不快感の正体とありのままの自分を許したら世界が反転した話。
いい人にならなきゃと思っていた私の体験談
私は10代の多くを陰キャラとして過ごしてきました。
幼い頃はよく笑う子でした。
良く言えば天真爛漫、悪く言えば自己中だったと思います。
でも軽く学級崩壊していた小学校中学年の頃からどんどん陰キャラ化していきました。
クラスは派閥に分かれてぶつかり合っており、ハブられたことも裏切られたこともありましたし、先生のえこひいきや見て見ぬふりに理不尽を感じたこともありました。
中学もあちこちで誰かが攻撃されたり、いじめが起こったりしていたし、よくある学校内カースト制のようなものもあって、それらが突然自分に向けられたりするので何度も嫌な思いをしてきました。
やがて自分の意見や行動に自信がなくなり、自尊心は粉々になって、目立たないように周りに合わせるようになっていきました。
今思うと、思春期で周りの目や行動に意識がいって、自分がどうすればいいかよくわからなくなっていたんでしょう。
大人になるにつれて、私はどうやったら解決できるのかと、ひたすらインプットを続けてきました。
いろんな人と交流していけばいくほどデータベースが増えていくので、人の話を聞くことが好きになりました。
ここで1つの問題が生じます。
私はどちらかというと人畜無害系の見た目で人当たりの良い雰囲気を醸し出しているタイプで、第一印象は良いことが多いです。典型的な道をよく聞かれる人ですね。
天真爛漫と表現したように、感情を表すことに難しさを感じたことはなく、よく笑顔を褒められます。
ただし、私の性格ってその見た目とは真逆なんです。
本来、基本的に自分にしか興味ないマイペースな没入型で、ただ人の話を聞くことは好きなんです。
ここで人の話を聞くことが好きだから「社交的」という勘違いが自他ともに生まれます。
最初その差が分からなくて、個性豊かだった職場で訓練していろんな人との話し方を覚えたから話せるようになったんだと思っていました。
昔は短気でよく人とぶつかっていたけど、いったん立ち止まって考えるアンガーマネジメントなど学んで、余計な摩擦を起こさず、平和に過ごせるようになっていたのも大きかったです。
でも期待に応えようとして社交的にふるまおうとした結果、「相手を傷つけないように」「その場の雰囲気を壊さないように」「自分の意見はいったん飲み込んで」といった優等生パターンに終始することになっており、最終的にはメッキが剥がれてガッカリされたり、嫌な思いをさせてしまうことが出始め、私はまた変われないんだ、ダメなんだと悩んだりしていました。
人当たりの良さから初対面の人と話すのは得意だけど、結局私は自分の中のデータ収集の一環でしかないから、自分が合う人としか交流をし続けることができません。
そもそも感覚や考え方が変わっているし、連絡マメじゃないし、誰かに合わせるとか、うまく立ち回るとかもできません。
たとえば私の中では最後に話した日から何年空いていようと関係性が変わったつもりがなく、久しぶりに会っても前回の続きのような感覚で話せるのですが、多くの人はそれを疎遠になって関係が切れたと感じ、なんだこいつ?となってしまいますよね。
これは先日書いたストレングス・ファインダーの結果にも如実に現れていて、私の中で最も高い資質である「共感性」の裏にあるのは「学習欲」と「収集性」なのです。
「社交性」「調和性」「親密性」といった類ではないのです。
これを次点の「ポジティブ」が挟んでくるわけですから、自他ともに見誤るのも無理ないと思いました。
コロナ禍のお陰で本来のありのままの自分でいることを許可できた
このコロナ禍でよーくわかったのですが、1人で過ごす時間がめちゃくちゃ楽しいし、むしろこうやって自分の内側に潜り込んで内観する時間をずっと何年も求めていたんだなと気づきました。
自分と向き合い、どういう人なのかを1つ1つ受け入れて、常識とか他人の目への意識など自分で縛ってしまっていたものを手放していき、ようやく何もしなくていいんだ、そのままの自分でいいんだと心から思うことができました。
これまで自己中もダメ、自分がないのもダメ、我慢するのもダメ、感情を出しすぎるのもダメ、じゃあどうすればいいんだよって散々悩んできました。
何度も失敗を繰り返し、正直長いこと黒歴史だと思って生きていたし、どうしてこんなに普通のことができないのだろうと、とても辛かったです。
どこまでもゴールが見えなくて苦しい思いでした。
そんな経緯があって、自分を理解することは難しいことだし、何かができるってことはすごいことなんだと思うようになりました。
自分の中だけでこんなに苦しいんだから、他の人に余計な苦しみを上乗せする必要はないし、解決は自分にしかできないし、自分に向き合っていると他に目を向けている余裕なんて皆無だなという体験をもとに、少しでもやさしい世界になったらいいなぁと、このブログで自分の考えを発信しています。
そんな風になって改めて世間というものを眺めてみると、見える景色が全然変わっていて、世界が反転した感覚になりました。
色々フラットに考えることができるようになり、ふとした瞬間にいろんな人の奥にある思いが見えるようになって、以前より気づきを得る機会が倍増したのです。
YouTubeを通して気づいた、外側から見た過去の自分の姿
YouTubeってテレビと比べて、より個性が際立つ場所ですよね。
テレビは創られた世界で、マルチに上手く立ち回れる人が力を発揮するイメージがあります。
しかしYouTubeで没個性は埋もれてしまうので、その人にしか出せない個性が色濃く反映されたチャンネルが伸びている印象があります。
だからカジサックやヒカルがコンサルして話している内容もそういった内容の指摘が多いですし、普段の様子の垂れ流しが1つのコンテンツとして成り立っているのだと思います。
そしてその分、テレビよりも演者の素の部分が見えやすくなっています。
私は以前にも記事を書きましたが、東海オンエアが大好きです。全部は見ていませんが、それなりの量は見ていると思います。
そんな中、彼らのサブチャンネル「東海オンエアの控え室」のとある動画を見て、私はとっても心が痛くなりました。
メインチャンネルの動画内で、としみつとしばゆーが虫さんの言い間違いに反応して正しくツッコミを入れていたのですが、天然なとしみつが聞き間違えて変なことを言いだしたと思われツッコまれたことに対してとしみつが物を言う内容になっています。
この動画は大まかに言えば「1対5」の構図に見える人が多いと思います。
「としみつが1人で怒っている動画」となっていますが、実際は「りょう対他の5人」の動画です。
そしてこの動画を「としみつ対他の5人」と「りょう対他の5人」と見る人に分かれるんだろうなぁと思いながら見ていました。
しかし、ふたを開けてみるとコメント欄を見れば一目瞭然で、圧倒的に「りょうが悪い」「りょうの嫌なところが出てる」「としみつに同情」などと言ったコメントで埋め尽くされています。
コメント欄を見て、この動画で皆が最も共感できるのはとしみつなんだという事実に、自分が思っているより人はきちんと理解してくれるんだという希望を感じました。
私はこの動画が、人が陥りがちな人間関係の縮図のように見えます。
なぜならこれは日常で起きる理不尽そのものだからです。
- 正しいことを言っていても、周りの反応によって事実とは変わってしまう怖さ。
- 普段のキャライメージという謎の存在のせいで、本気度が伝わらない切なさ。
- 常にいい人でい続けることの歪みが与える不快感と、受け流す周りの人の優しさ。
- 人目を気にして、たしかにそこにあるはずの自分の感情を出せなくなってしまうモヤモヤ感。
なんでかは説明できなくても、そういった奥の感情を画面越しに多くの人がくみ取っているのです。
「いいことを言ったやつをいいやつと言うじゃん」と思って、何も言えなくなる状況をこれだけ多くの人が体感しているのだと思います。
ここで、なぜりょうが不快に感じるのか、話を深掘りしていきます。
虫さんとりょうの論破キャラは似て非なるもので、ベクトルがまったく異なります。
てつやの表現した2人の刺し方の違いは言いえて妙でした。
虫さんの論破はあくまでエンターテインメントです。
引き際を心得ていて、踏み込んではいけない領域には達しません。
サクッと傷つかない程度に真正面からわかりやすく、面白おかしく刺してくれるから笑って済ませられます。
りょうの論破は、自分を守るための防衛反応です。
自分を守るために跳ね返した刃が、隣の仲間へ「痛恨の一撃」を与えています。
「見えないところからきて、より痛そう…」は本当に「死角から急所を突かれて痛い」のです。
乙和瓢湖の暗器「六道蠱」に刺されるようなものです。(るろ剣ネタわからなかったらすみません。ただ書きたかった。)
2種類の反射的な「ごめん」
これまでの体感的に、反射的に「ごめん」と謝る人は2種類いると思っています。
1つは他者から必要以上に怒られたり責められたりしてきたことがトラウマとなっていて、反射的に謝ってしまう人。
こういったタイプの「ごめん」は、「何かあなたの機嫌を損ねることをしてしまったでしょうか?申し訳ございませんでした」という怯えの感情が混じります。
今回はそれに当てはまるようには見えません。
もう1つは、何かあったらとりあえず謝っておこうの「ごめん」です。
これは必要以上にネガティブを避けたがる人に現れる傾向があります。
このタイプは問題を直視することを嫌い、問題なんて何も起こってないよ!と見て見ぬふりをして先送りにして、問題を必要以上に大きくしてしまいます。
私のような「いい人でいることを頑張ってしまう人」や「メリットだけを見せてデメリットは隠す会社」などに起こりがちです。
りょうはまさにこの後者であり、この「ごめん」の言い方は、本人にそのつもりがなくても「俺はもう謝った。話は終わりだ。それ以上は怒るお前が悪い」という先制攻撃のための言葉になってしまっています。
キレている人に対してだったら、まず先に謝ってから話を聞くという対応はいいと思います。一度落ち着いて話を聞く態勢になってもらうために有効です。
しかし、話をしようとしている相手の言葉を遮っての「ごめん」は、とりあえずの謝罪であり、相手の話を聞く意志がないことに繋がります。
本来であれば、まずは話を聞いて、それで悪いと思ったら「ごめん」と謝ればいいし、悪くないと思えば「こう思ったんだよ、そう思わせちゃってごめんね」と落ち着いて訂正すればいいと思います。
そしてこの形は、てつやが動画内でよく見せる姿でもあります。
いい人や完璧人間から発される正義の言葉の翻訳
「それだけの話だから」「だからそんなに大きい声出さなくていいよ」
この言葉が与える意味は「もう終わった話でしょ。大した問題じゃないのに何で声を荒げるの?」「そんな反応するお前が悪い=俺は悪くない」という自分を肯定するために生まれた相手への否定です。
「こん中に本当に怒るやつはいないんだから」
「マジで俺ら6人ケンカしたことがないんだから」
「全部食ってかかればいいのかな?逆に」
と正論や架空の解決策を畳みかけることによって問題をなかったことにし、
「こんなんで怒り続けたりしないよね?」
「そんなのを許せないお前どうなの?」
「それともやっぱり僕が悪いのかな?」
とマウントをとって正義のフルボッコ状態へと繋がっていきます。
間髪入れずに相手の行動と感情の否定の言葉を重ねてくるわけですから、それはもちろん嫌な気持ちになります。
無意識の恐ろしさ
ここで1番厄介なのが、りょうに相手を傷つけている意識はまったくないということ。
むしろ傷つける気なんて一切ないでしょう。
おそらくりょうは本当に争いが苦手な平和主義者なのです。
きっとこれまで真面目に頑張ってきて、問題が起こらないように空気を読んで、常にいい人でいようとしてきた人なのだと思います。
ゆるゆるの東海オンエアの中で、時間前行動に徹し、清潔感を持って規則正しく生活し、家業のことも取り組みながら動画に参加したり、常に優等生であろうと努力しています。
ずっと疑問を持つことなく、そうあるべきと思ってきたから、それが当たり前になっていったのでしょう。
一生懸命努力しているのに、非常にもったいない結果となってしまっています。
私は自分本来の性格と違ったからボロが出て崩れたけど、りょうの場合は自分の得意と合致していることで上手くいってしまい、疑問を持つタイミングがなかったのではないでしょうか。
でも正確に言うと、りょうは光属性でいさせてもらっているのです。
視聴者が気づいたように、メンバーももちろん気づいていると思います。
りょうから発された言葉が人を傷つけているとあの手この手で伝えようとしても届かず、もどかしく感じているように見えます。
だからこそ「チームプレー」という言葉が出てきます。としみつは器が小さい男で、てつややしばゆーはだらしないおバカという道化でいることで、皆でりょうという光属性を守り続けています。
「としみつ謝ろう」「我慢しよう」「POISONだよね」「視聴者さんもいいことを言ったやつをいいやつと言うじゃん」「としみつ光属性にしちゃダメだって、光属性が正しいんだから」という会話はりょう以外の5人による励まし合いです。
「人と揉めたことがない」「ケンカもしたことがない」「怒ったことがない」「平和にいこうぜ」
皆、りょうが悪気なく本気で心からそう思っていることがわかっているし、メンバーのことが大好きなのもわかっているし、「ごめん」と謝られているからそれ以上言えなくなっているけど、平和をぶち壊す言葉を投げかけ続けているのは、実はりょう自身なのです。
としみつの「いつかとんでもない失敗を犯して〇ね!」という言葉には、そんな思いがたくさん詰まっているのが伝わってきました。
ネガティブを無視し続けてくると出てくる齟齬
すべての言葉は、たとえ自身がそう思っていなくても「りょうは悪くない」という自分への肯定と「怒るのは悪いこと」という相手の感情の否定を前提に放たれています。
この動画の始まりのとしみつは間違いなく怒っているのです。嫌だと感じているのです。
でもそのとしみつが感じた感情は一切認めてもらえないのです。
そして「そんなことで怒ってるの?」と返されて、自分はなんて器が小さいんだろうという思いを抱えることになるのです。
だから「ごめん」「俺は反省しているよ」「としみつは本当に大丈夫、うまくいってるよ、いいやつだし最高だよお前は」「俺は大好きだから」「小さくないんだよ、としみつは純粋で熱い男なんだって」という本来なら良い言葉たちも、すべてに意味を持たなくなっています。
受けた側からすれば、散々否定された後に「性格いいよ」「あなたの周りの素敵な人たちを否定することになるから、自分が性格悪いって言ったら。だから皆性格いいんだよ」とトドメの美辞麗句を並びたてられるのです。
心をズタズタに切り裂かれた後に、りょうが良いことを言えば言うほど、行き所を失った感情と言葉のむなしさが増していきます。
いい人が与える不快感の正体
これが「いい人間でいようとしている」ことを外から見た光景です。
そして私自身が陥ったものでもあります。いいことをしているつもりだからまったく気がつきません。
私も突然刺してくると言われました。刺す言葉を言ってないのになんで?と理解ができませんでした。
親にかまってもらえなかったり、好きな人に嫌いと言われたり、いじめられてしまったり、人格を否定されてしまったり、世間の目に怯えたり、親の過度な期待に応えようとしたり。
そんな経験から「いい子でいなくちゃいけない」「役に立たなくちゃいけない」「皆から認められるためにできる子にならなきゃ」というような思いを抱えた人が陥りがちです。
そんな完璧な人間はいません。
人間には間違いなくだらしない部分が存在します。
多くの人は「働きたくない」「朝起きたくない」「だらだらしたい」「遊びたい」「楽していい生活を送りたい」などという気持ちを抱えながら、なんとか鼓舞して活動しています。
嫉妬、怒り、悲しみ、恨みといった負の感情も間違いなくあるものです。
一見問題のように思える人間のネガティブな部分ですが、それを認めないでいると、そんな感情を持っていると思う他人を否定することに繋がってしまうのです。
そしてそれはプライドの高い人という印象を他人に与えてしまい、イメージが悪くなっていくのです。
「性格がいいから人が集まる」「美人だから結婚できる」「能力があるから生きる価値がある」と思ってしまうこともあるかもしれませんが、そんなことはないです。
強いて言うとすれば「否定や強要をしてこない人のそばは心地がよい」くらいではないでしょうか。
価値観の強要もまた相手への否定となる
他の動画を見ていても、りょうの言葉の端々には相手への価値観がの強要が見られます。
「時間どおりに行動するのは当たり前だよ」「すごくないよ、俺は全然完璧じゃないし普通だよ」
これらの言葉は「時間どおりに行動できないやつはクズだよ」と翻訳され、「お前がすごくなかったら俺はなんだ、ゴミか?」と受け取ります。
当たり前や普通という言葉はできない人のことを下に見ており、謙遜は相手の言葉を否定し、相手の位置を下げています。
正義を振りかざす言葉も「じゃあお前はできてるのかよ?」というような人に言われたらまだ言い返せますが、りょうみたいに完璧にやっている人に言われるとぐうの音も出なくなってしまいます。逃げ場がないのです。
同じように完璧を目指していると感じる人として、私は「メモの魔力」の前田裕二さんが思い浮かぶのですが、彼の場合は自分のやっていることを「あなたも取り組んでみない?」とお誘いはしても押し付けることはありません。
光の存在を支えるメンバーの愛のこもった言葉が染みる
「人の話をちゃんと聞きなさい」
「人の話を聞いて人の気持ちになって言葉を発しろ。人を傷つけるな、本当の意味で」
としみつの言いたいことは本当によくわかります。
この言葉がまさに「本当の意味で」届かないと分かっていても、それでも愛を持ってりょうに伝えようとしています。
としみつがりょうに丸め込まれてるのを見て、本来なら責められる側役だった虫さんが「いや、よくないよ」ってとしみつのフォローにまわっています。
しばゆーの「俺が賛同したからいけなかったんだよね」「(自分が)賛同しちゃったから、こいつら何言ってんだが高まっちゃった」という自分のキャラクターを理解したうえでのごめんねがなんとも思いやりに溢れています。
そもそもリーダーのてつやは東海オンエアの中でも1番達観していて、相手の意見を否定することがほとんどありません。
「感覚派のバカ3人が味方でいるから大丈夫だよ」というてつやのフォローにホッとします。
としみつやゆめまるの「あんまり言うとダメだ」と言うのも、純粋に綺麗事を言う存在が目の前にいることへの配慮で冗談っぽく終わらせているのではないでしょうか。
ほかの5人はいい意味で力が抜けています。
遅刻も、だらしない生活も、携帯のなくしグセも、酒乱も、病気も、オナラもうんこも、感情も意見もかなりさらけ出しています。
まぁルール上、珍棒は出しちゃいけませんけど。笑
正直りょうは東海オンエアの中だと少数派で、異質な存在のように見えます。
でもきっと、りょうはそんなメンバーに囲まれることで、もっと力を抜いてもいいんだよってことを知るために東海オンエアにいるんじゃないかなと個人的に思います。
東海オンエア、いい奴らすぎてマジで泣けてきます。
人間関係の縮図の意味
りょうは簡単に言えば、世の中にはびこる世論代表であり正義です。
「朝ちゃんと起きなさい」
「部屋は片づけなさい」
「歯を磨きなさい」
「時間は守りなさい」
「勉強しなさい」
「計画を立てて行動しなさい」
「皆と仲良くしなさい」
「怒ってはいけません」
「努力して成長しなさい」
多くの人が、模範的ないい人でありなさいと教えられて育ちます。
そして世間の、お金持ちが勝者、頭が良いのが勝者、運動できるのが勝者、美人が勝者、結婚したら勝者、成功したら勝者、人格者が勝者となって祭り上げられて、できない者に価値なしという空気を否が応にも感じ取ります。
道徳などで「みんな違ってみんないい」と言いながら、学内カーストが低い者は虐げられ、出る杭が打たれる姿を見て怯えます。
世論は正論であり、正義の刃となってあちこちから切りかかってきます。
「こんなことで怒るなんて、自分は心が狭い人間だな」
「表面だけ良い人のふりしてずるいな、裏では悪いことしているのに」
「本当は怒る理由がちゃんとあるんだけど、言っても無駄なんだろうな」
「それくらい我慢しなさい、大人になれって言われちゃうんだろうなぁ」
そうして自分の感情に自信がなくなり、本音を話せなくなり、建前が生まれます。皆が自分の気持ちにフタを閉めてしまい、やがて自分の本当の気持ちを見失っていきます。
でも、本来そうありなさいと言われた姿って、そんなのできないなぁと感じたことが1つもない人って少ないと思います。
ただでさえ、劣る者の価値が低いと感じる社会の中で、圧倒的な正義を前に「できないよ」と言うことは、自分を下げる行為となってしまうのでなかなか難しいと思います。
だからこそ実は大勢が見る前で、遅刻も、だらしない生活も、携帯のなくしグセも、酒乱も、病気も、オナラもうんこも、感情も意見も全部さらけ出すってすごいことだなと心から思います。
私自身もこんな問題作に取られそうな踏み込んだ記事、数か月前の自分なら間違いなく書けていません。ドキドキしながら、それでも必要としている人のもとに届けばいいなと思って書いています。
正論を振りかざしてくる人はたいてい、その人自身がその正論によって苦しんでいます。
心のどこかに「自分がきちんと守っているんだから、あなたたちも従いなさいよ」という気持ちがあるのでしょう。
本当は心のどこかで「楽したい」とか「嫌だなぁ」という感情があるのを隠して見ないフリをして、今日も周りの目を気にしながら、苦しくて大変な1日をスタートさせるのです。
今、この「正義の世論派」と「悪の自由派」がどんどん二極化しているように感じます。
私の考える「悪の自由派」はたとえば、東海オンエアのてつや・しばゆー、千鳥の大悟、千原兄、ヒロミ、とんねるず、レペゼン地球、ヒカル、手越祐也、中田敦彦、朝倉未来、春名風花、ひろゆき、ホリエモン、メンタリストDaiGo、テイラー・スウィフトというような面々です。
これらの人たちは問題や騒ぎを起こして叩かれても、気づけば返り咲いています。
共通しているのは「自分の気持ちに忠実」「自分の欠点を認めている」「誰に対しても平等」「自分の意見は言うけど、他人に強要しない」といったところではないでしょうか。
逆に、正義の世論に従うために優等生でいたベッキーは、不倫という間違いを犯した瞬間、必要以上のバッシングを受けて隠れざるをえませんでした。こじるりも原さんとの熱愛報道で一気にイメージダウンしています。
ジャニーズなどのアイドルや芸人からも一体何人が活動休止したでしょうか。
たとえばこの「正義」と「悪」の母数が逆転した時、超やさしい世界が待っていると思うんです。
ここまで書いてきた内容って、世間の目や他人との比較から来る恐怖がなかったら全部起きないと思いませんか?
どんな自分も叩かれない、誰も責めずに受け入れてくれる世界。
好きな時に目覚めて、おなかが空いたらおいしいごはんを食べて、自分の感覚のままに何にも縛られない生活。
そしてそんな先のやさしい世界にいるであろう「愛の自由派」を体現しているのがローラやhydeあたりかなと思っています。それって超ハッピーな世界じゃないかな。
そんな世界の実現を心から願って、また今後もブログを書き続けていきたいなと思います。