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久しぶりに読んだ漫画『重版出来!』はグサグサ刺さるものがありました。


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2016年放送の漫画編集者を題材にした『重版出来!(じゅうはんしゅったい)』というドラマが好きでした。しえるです。

 

黒木華(はる)ちゃんの元気いっぱいな小熊ちゃんやオダジョーさんの演じるカッコイイ五百旗頭(いおきべ)副編集長など、皆ハマり役で毎週楽しみにしていたものです。

 

ただ、漫画の方は3巻までしか読んでいなくて、続き読みたいな~と思いながらも放置してきていたのですが、今アプリ『サンデーうぇぶり』で明日15日まで1~4巻が無料で読めることにギリギリで気づいて、駆け込みで読んできました。

サンデーうぇぶり
サンデーうぇぶり
開発元:SHOGAKUKAN INC.
無料
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そしたら漫画内のセリフが随所で染みたり刺さったりしてしまいまして。

今読んだからこその響き具合なんだろうなぁ、当時じゃここまで響かなかっただろうなぁと感じつつ、読んで思ったことを書いてみます。

久しぶりに読んだ漫画『重版出来!』はグサグサ刺さるものがありました。

転職迷走時代の自分を思い出す

私は自分で地道に努力することを、成長することを、拒んだんだ――
黒沢さん、あんなに一生懸命やってくれてたのに…
先を急いで周りが見えなくなって…
私は――信じてくれている人の…離してはいけない人の手を、離してしまったんだ。

私が無茶苦茶な転職をぶっ込んだ理由って、まさにこれだなって思いました。

当時は環境的にはすごく恵まれた職場だったけど、ずっと好きになれない自分の自己啓発にハマり、その結果「このままじゃダメだ」って思いが日に日に増していくような状態でした。

それまで私は一歩ずつ自分で地道に努力を重ねていたのに、「このままの自分じゃダメ」という呪縛から早く逃れたい一心で、「なりたい自分」になるために「自分に足りないもの」を補うための転職をしていたのです。

 

結果としては、たった3年で自分の知らなかったことを山ほど知ることができ、ずいぶんとたくましくなったので、その経験は財産となりましたし、自分の不足を見ようとするから辛いのであって、「このままの自分でいいよ」って許可してあげるだけでいいんだと気がつくこともできました。

が、その真っ只中では心身ともにたいへん苦しくて、涙が勝手にボロボロ出てくるような日々だったので、社会の荒波に揉まれる東江さんの姿は、いろいろな苦さを思い出すものがあります。

いや…前からこうだったんだ。

私の目に入らなかったんだ…自分の都合のいいところしか目に入らなかったんだ。

ネットに悪い評判があったことに気づくものの、以前はよい評判しか目を通していなかったというのも、まったく同じ経験をしました。

今考えれば口コミだけでなく、明らかに怪しい部分はあちこちであったんですよね。

たとえば面接が4時間かかって、トイレには行けないし、お茶がなくなって喉はカラカラだしで、どう考えても度を超えているんですけど、当時は社会を知らなさすぎて「熱心な会社なんだな」の一言で済ませていました。

入社してから、会議が1日がかりだったり、ガチで数時間説教タイムが発生していたりなど、人の時間を奪うことに無頓着な体質なんだとわかりましたが、人って都合よく受け取ってしまうものですね。

混乱してはだめよ、絹。
あなたがキライなのは漫画じゃない、今描いてる作品…仕事のスタイルよ。

映画コミカライズの初仕事で芸能事務所の圧力から度重なる内容の変更があり、原作や自分の絵の味から遠ざかっていくことに悩む東江さんに対し、東江さんが所属する黒百合まんが部の部長による励ましの言葉は、見誤ってはならない大事な視点だと思いました。

 

私はなぜか飲食店を切り盛りすることになったりしましたが、私が好きなことはあくまで「おいしいものを食べて回ること」であり、提供する側ではありませんでした。

最初こそ、未知の世界を知る楽しさや我が子(店)を育てるような感覚はありましたが、元々は一切興味がないわけですから、無理は長くは続きません。

 

好きなものであっても、その言葉の内容はたいてい多岐にわたるものです。

その中で自分が具体的に「どんなジャンルや雰囲気のものが好き」で「どう付き合っていきたい」かというものを明確にして沿っていかないと、好きなものを扱っていても苦しむことになります。

 

今その店は順調に出世していってるらしく、ふと名前を目にすることもありますが、未練は一切残っていません。

ただただ、スタイルが合わなかったのだと思うばかりです。

環境の変化というもの

「FLOW」が廃刊するって聞いた時、悔しくて情けなくて。上への怒りが収まらなくて……
でも会社を辞めてわかったんです。ボクは努力が足りなかった。
あんなに単行本を売りたいと思っていたのに、一度だって営業や宣伝担当に相談に行かなかった。
ただ部内で文句を言ってただけだ。
「一生懸命」のポーズに酔ってたんです。

ボクは「FLOW」を守れなかった。

でも今度から全力で守ろうと決めたんです。

自分のできることは全部やる。自分の頭で考えて、動く。

やるなら必死で、産業構造を変えるくらいの気迫で。

自分が動かないと何も変わらないって気づいたんです。

フリーになった編集者さんの言葉には、自戒も込めて共感しかありませんでした。

 

私は転職を重ねるごとに勤め先がどんどん小規模になっていたのですが、規模が小さくなればなるほど、1人の負担というものは大きくなることを身をもって学びました。

それに伴って、文句を言う側から文句を言われる側の立場というのも経験するようになって、この気持ちすごくよくわかるなぁと思うようになったのです。

 

特に一人暮らし、家庭の築き、起業開業、フリーランスといったような、1から自力で何かしらの環境をつくりあげる経験というのはそれぞれ、人の視野を大きく変えるものだと思います。

できあがった仕組みの中でこなすこと、すでにあるものを変えること、何もないところから形作っていくことはそれぞれ意識がもはや別物ですし、そのエネルギーの重みを経験していないと、どこか浮ついたところがあったりします。

だからこそ、この編集者さんはフリーになって自分が「できあがった仕組みの中でこなすことに一生懸命だった」ことに気がつき、猛省したのでしょう。

 

イヤなものはイヤなので、文句は言ってもいいと思うけど、それと同時に+αの行動をすることこそが肝心だし、そうでないと環境というものは、自分の望みに向けて変えられないのだと痛感しています。

グチばっかり言ってなぐさめてほしくて…
でも、もしかしたら――グチは自慢の一種なのかもしれない。
ましてや持ってない人にとっては……

私が転職した頃、仕事の重みに耐えられなくてあちこちで愚痴を言っていました。

同じような状況で苦しむ友人と励まし合ったり、すでに乗り越えた人たちにアドバイスをもらったりする中で、一部の友人とは疎遠になっていきました。

 

しかしその中にはフリーターの子とかもいたので、それまでずっと世間知らずの雇われでゆるくやっていた私が、自分と違う世界に飛び込んでいることにそういった印象を与えた可能性も、もしかしたらあるのかもしれません。

 

結婚生活の愚痴が独身者からは自慢に聞こえてしまったり、逆に独身者のノビノビとした生活が既婚者には自慢に聞こえてしまったり。

自分がどう思っていようと、今いる環境が相手の望むものである可能性があることは忘れないようにしたいところです。

今日ね久しぶりに英君に会ったら、「バイブス」を訴えようって言われちゃった。

下請法ってゆうの?そんな話の前に労わってくれよってカンジだよ。
なんであんなリアクションなの?わかってないよ。

 

いい奴じゃん、お前が辛そうだから何かしてやりたかったんだよ。
お前にいいトコ見せたいんだよ。
焦ってんだよ、お前だけどんどん先に行くから。
お前こそわかってやれよ。

編集の無理難題に振り回される新人漫画家の東江さんに、見兼ねた彼氏の英君が「あきらかにおかしい、訴えようぜ」と提案します。

しかし、東江さんは「…英君は一度でも、自分の好きなことに真剣に向き合ったことあるの?本気になったことない人に、社会に出て苦しんだことのない人に、何も言われたくない!!」と言い返してしまいます。

家に帰ってからも英君に対して文句を垂れる東江さんに、お兄さんがこうフォローするのです。

 

これも、あれ…もしかして…?と思い当たることがありました。

相手は店を経営する個人事業主で、以前は「誰かを雇うつもりはない」と話していたし、店の経営維持の大変さを諭されたこともあったのですが、久しぶりに顔を見せた時、仕事を辞めた私に「うちで働く?」と声をかけてくれました。

その時は「在宅で生計を立てられるようになりたい」という、これからの自分のことで頭がいっぱいで「在宅フリーランスで考えているから」と受け流していましたが、今考えると、傍から見ればただの無職だし、相手と似た境遇の経験を経たうえで、相手の知らない世界の話をする年下の私を見て、何か思うところがあったのかもしれません。

そんな優しさにまるで気づいておらず、まさに自分に言われたかのような言葉にドキッとしてしまいました。

それは誰のもの?

これは先生の原稿、きっちりパース*1取って。
好き勝手は自分の原稿でやって。

大御所漫画家・三蔵山さんのもとでアシスタントをしながら連載を目指す伯くんは、自分の感覚で仕上げたコマについて同僚のアシスタントに「自分の原稿じゃないんだから」と指摘されます。

 

これ、校正やっていてめちゃくちゃ感じるんです。

 

校正のお仕事って、自分には想像のつかないトンデモ日本語がいっぱい出てくるので、「はぁ?」とはなりながらも「そんな使い方をしてくるのか!」というのが面白かったりします。

ただ、言葉の正誤以外のところで、あまりにもガイドラインや固有名詞の正しい表記をガン無視する人が多く、「なぜ?あなたはどういう立場で書いているか理解しているのか?」と感じることもしょっちゅう。

 

書いているのが自分のブログなどであれば、そりゃあ何でも好きなように書けばいいでしょう。実際に私もそうしていますし。

しかし、企業のメディアの名を冠したライターとして雇われているのであれば、やはり「誰のものなのか」は意識した方がいいと思うのです。

 

伯くんが描いているコマが三蔵山さんの作品の一部であるように、ライターが書いているその記事は、あくまで相手企業のものです。

 

たとえば、企業名や商品名などといった固有名詞を正しく書かないというのは、そのメディアと相手の企業同士の信用問題に関わってきます。

自分がそう思っていなかったとしても、ライター個人ではなく「この企業が自分の所の名前を間違えて書いている」という話になるのです。

 

またメディアというのは、どんな人がつくってもクオリティを統一できるように、表記のルールがマニュアル、ガイドライン、レギュレーションといった形で決められています。

具体的には、文字を漢字で書くか、ひらがなで書くか、カタカナで書くか、英字を使うか、半角か全角か、大文字か小文字か…、数字は区切るのか、万などの単位を使うのか、絵であれば色の指定や余白の大きさ、背景色や縁取りなどの細かな設定ですね。

これらはその企業が読みやすいだろうと判断したり、こだわりがあったりして、独自ルールとして定められているわけです。

 

その中では、「妻」「ママ」「主婦」「嫁」「奥さん」「女房」「家内」どの呼び方を使うかや、「しょうがい」という言葉を「障害」「障がい」「障碍」どの漢字を採用するかなど、時代に合わせて該当する方々へどう言葉の配慮をするかなども社内で検討されていたりします。

 

環境依存文字を使わないというのもそうですね。

日常的になんとなく使っている字でも、Windowsだけの文字、Macだけの文字というような機種限定の文字というものが存在します。

①②③の丸付き数字、♡ハート、㎝センチなど、Windowsで変換すると横に[環境依存]と書かれているものですね。

今でこそパソコンで絵文字すら表示できることも増えてきましたが、それでもいろんな環境からネットに繋げられているわけですから、メディアというのは通常であれば、誰にでも同じものが見られるようにという配慮をしています。

 

そしてこういったものは細かい差はあれど、ちゃんとしたメディアなら定められているはずの共通認識と言っても過言ではないかと思います。

 

いろいろ書きましたが結局のところ、このぼやきは校正が直す仕事と言われてしまえばそれまでです。

雇用した会社側がそれでよしとするのであれば、仕方ありません。

ただ、それがあまりにひどい人はこちらも受けたくないので、避けるようになるだけの話ではあります。

 

私自身はメディアで働いたことがあるので、この基本的な感覚が染みついています。

たとえ自分が気にしなくても、世の中には気にする人はいるもので、「あぁ、本当にクレームって来るんだ」と話を聞いて思ったものです。

しかしクラウドソーシングが浸透した昨今では、その感覚を知らないままいきなり個人契約を結ぶので、同僚が教えてくれるような環境はなく、こういった基礎がなおざりにされてしまうのかなぁと感じるこの頃です。

だから漫画は読みやすいのだ

お前以外は全員、初めて読むんだよ。
感性も感覚もそれぞれ違う不特定多数の読者に対して、わかってもらえる作品に調整するのが、お前の仕事。
そのネームがきっちりできたうえでの連載なんだ。
作品と作者に思い入れがあっても、そこは客観的に、厳しく指導する力をつけないと。

熱意だけじゃだめなんだ。
作者も作品も、不幸になるぞ。

連載を目指す伯くんの漫画は独特の世界観で目を引くものがあるが、独特すぎて置いてけぼりにしてしまう側面も持っている、といったニュアンスで評されています。

 

「親からたまに犬の首輪をつけられていた」をジョークとして言ってしまうくらい、特殊な出自で育った伯くんは、思考に偏ったクセがあり、同じアシスタント同士の間でも変わり者扱いされて引かれる場面が描かれています。

その感覚の差が漫画にも表れていて、五百旗頭副編集長から「エピソードの重複、クライシスシーンに入る流れの不自然さ。セリフのリズム感も厳しいかな。つながりの弱い人間関係。ドラマパートの客観性のなさ」といった指摘を受けるのもやはり、偏重思考によるものなのでしょう。

 

そんな引かれてしまうような伝わりづらい伯君の個性を、一般的な人が受け入れられるように調整するのが編集の仕事だという言葉に、なるほど!となりました。

漫画だと『ブルーピリオド(絵画)』『ヒカルの碁囲碁)』『アイシールド21(アメフト)』『ラジエーションハウス(放射線科)』『Shrink シュリンク-精神科医ヨワイ-(精神科)』など、身近なテーマでなくてもわかりやすく描かれていたり、なんとなく楽しめるものが多いですよね。

先日、読みやすい文章の記事で、説明が足りない文章の対比として漫画をわかりやすい例に出しましたが、そこには漫画家さんだけでなく、編集者さんの努力もあったんですね。

ciel-myworld.hatenablog.com

自分と向き合うのって怖いですよね

アイツは「本当のこと」しか口にしない。
自分のことも、他人のことも、絶対にごまかさない。
まっすぐですべてを振り切って、周りのことなどおかまいなしで。
残酷で自由で、漫画の神様に愛されるのはこういう奴かと打ちのめされて。

三蔵山さんのもとでアシスタントとして長年働く沼田さんは、連載に一心な伯くんのまっすぐな言葉で自分が見ないふりしてきたものを突き付けられ、エゴやプライドが反応して心が揺れます。

ただ――こんなに醜い自分の感情に耐えられない――

誰かに対して嫉妬や羨望、苛立ちなどを感じることってありますが、本当は相手のせいではないですし、どこか心の奥底でそれをわかってる自分がいたりするんですよね。

ただただ自分の中にある感情なのですが、そんなどす黒い感情が自分のものだと認められなくって、誰かのせいと押しつけてしまいたくなりますし、見て見ぬふりし続けるほどにそれは大きくなってしまい、時に抑えきれなくて爆発してしまうこともあります。

アイツに会って、ハッキリわかった。
俺はプロになるのが怖かったんだ――
厳しい競争をくぐり抜けなくたって、デビューしなくたって、三蔵山先生のところにさえいれば…漫研のみんなにはほめられて期待されて。
地元の友達にも羨ましがられて励まされて、
「夢があっていいよなぁ」「頑張れよ!」、
アシスタントさえしていれば――他の連中とは違う。
「夢を持った特別な人」でいられたんだ。
プロアシになる勇気もなく、地元に帰る勇気もなく、自分の気持ちを正面から見つめる勇気もなく…

その苦しさの中には現実の直視だったり、結果が出てしまうことへの恐怖や不安だったり、未知なる自分への足踏みといったものがない交ぜになっているように感じます。

 

そして、何かしらの結果を残す人というのはだいてい、こういった葛藤を乗り越えて取り組んでいたりするものですが、中にはその葛藤を知らずにすぐに物事と向き合い始めて結果を出す、いわゆる早熟な人というのもいたりします。

世間一般で「天才」と言われがちなのは、そういった早熟な人たちのことかと思いますが、ただ天然で「やらずにはいられない」人たちだったんだろうなぁと推察しますので、その人たちからしたら「やらない理由がわからない」という風になってしまうのでしょう。

俺の分も頑張ってくれ!

無理です。僕は僕です。
他人にはなれません。

沼田さんの声かけに、伯くんは淡々と「無理」と返す場面。

そりゃそうだと思いつつ、でもふわっとかけられがちな言葉であるとも感じます。

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つまり、「察してもらう」ことで楽をしていた分のコミュニケーションコストって、丸々相手の心理的安全性を食いつぶす形でまかなっていた、ってことだったんですよね。

先日はこちらの記事を読んで、私もふだんから言葉で伝えていくのが大事と考えていたので共感していたのですが、「察してもらうというのは、相手の負担を削って自分が楽をするコミュニケーションだ」と感じたできごとを話されていたんですね。

 

先程の「俺の分も頑張ってくれ」も相手の負担に乗っかるコミュニケーションの一種と言える気がしますし、そういったものって思いのほか多いのではないかと感じます。

 

たとえば、誰かから応援してもらうのはとても嬉しいことですし、心強かったりします。

 

ただ、好きな気持ちは純粋であっても、それが時に相手を縛る言動をし始めることがあります。

「こんなん〇〇じゃない」とか「ああしたほうがいいよ」「こうしてほしい」とか。

子どもに自分の叶えられなかったことをやらせようとする親御さんもいたりしますよね。

私も応援していた選手が出られなくなっているのに、モンストしてるとつぶやいていて、モンストしている場合か?と思ったことがあります。今考えると、余計なお世話ですが。

 

今は、1番考えるべきは自分のことだと思っているし、そうしていると他人のことをそこまで気にしている時間はなくなりました。

合わなければ離れていけばいいだけの話です。

そうなってくると、相手のスキルをすごいと思うことはあっても、どんな人も対等だなと感じるように変わっていきました。

 

そんな自分が昔を思い返すと、自分を直視しないために、相手の言動に意識を割きまくってていたんだなぁと感じます。

 

結局、どうにかできるのは自分だけだし、他人がどうしようと関係ないことを学んだしえるでした。

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*1:遠近感を表すための図法


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