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【脱線なしVer.】2冊の本を読みながら自分の理解力や思考パターンと相性のいい「読みやすい文章」について考えてみました。


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脱線しすぎた。しえるです。

 

昨晩の記事について、個人的には書きたいこと書き殴って満足しているのですが、「読みやすい文章」について書いた文章が脱線しまくって読みにくいかもしれないと反省しました。

今回はイレギュラーですが、自分の矛盾が気になってしまったので、1番書きたかった部分のみに絞って5,000字ほど削った脱線なしVer.を用意してみました。

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私は本を読むことに抵抗はありませんが、スーッと入ってくる文章とそうでない文章というものがあります。

 

今回は最近読んだ、立憲民主党の党首である枝野代表の著書『枝野ビジョン』と、台湾の大臣であるオードリー・タンさんの『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』という2冊を通じて、自分が何を基準に読みやすさを判断しているか考えてみました。

【脱線なしVer.】2冊の本を読みながら自分の理解力や思考パターンと相性のいい「読みやすい文章」について考えてみました。

子供の頃から国語は得意ではありましたが…

私は子供の頃から国語の成績は良い方で、勉強についていけなくなった高校でも現国だけは成績をキープしていました。

おそらくそれは学生時代に漢字が好きで、本を読みまくっていたから乗り越えられたのではないかと思っています。

 

というのも、だいたい国語のテストというのは文章読み解きと漢字の2つがメイン。

ドラえもんの四字熟語の本にハマったのもあり、漢検2級を取得するくらいには漢字を覚えるのが楽しくて、文を読むために必要な基礎単語を覚えていたのは大きいと思います。

(才色兼備のしずかちゃん、八方美人のスネ夫、大変わかりやすかったです。)

 

しかしそれでも私はずっと、文章を読むのが得意だと思ってはいませんでした。

私にとって、スッと入ってくる文章とそうでない文章があり、入ってこない文章はいくら読んでもループしてしまって頭に入ってこず、途中で諦めてしまう傾向があるのです。

 

『シャーロックホームズ』を読んではいたけど、多分ほとんど理解できていなかったし、『指輪物語』は早々に挫折、ライトノベルにハマっていたりしました。

だから今も尚、読む本は偏っているし、本を読み始めちゃえば楽しめるんですけど、手をつけるまでが億劫で時間がかかってしまいます。

むしろイメージ的な想像力がないのも相まって、文字だけの本を読むよりマンガの方が圧倒的に食指が動きます。

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私にとっての読みやすい文章とはなんだろう?自分がわかりにくい部分について考えてみた

先程『シャーロックホームズ』はあまり理解できなかったと書きましたが、浅田次郎さんの『壬生義士伝』は南部弁でだいぶクセが強いにもかかわらず、吉村貫一郎の「おもさげながんす」に泣きながら夜通しで読んでいました。

読み始めはなんじゃこりゃって思ったのに、スラスラと内容が入ってくるのがとても不思議でしたが、当時は特にそれ以上気にすることもありませんでした。

最近ではネットの記事や本を読むのに、冒頭数行で自分にとって読みにくいと感じたら中断するようになりました。

 

自分の理解力をすぐに上げるというのは難しいし、読みにくいものに時間をかけるのがもったいないので、何かを知りたくなったら、私にとって読みやすい文章で書かれているものを探すことに注力するよう変えたのです。

今では個人も企業も発信に注力していて、いろんな方が同じ物事について話されていたりするので、自分の理解できるレベルに分解してくれているものを探しやすくなったという環境変化の恩恵は大きいですね。

 

でもその「読みやすい」「読みにくい」と私が判断するのは、何の差なのだろう?と改めて考えるようになりました。

校正の仕事はしていますが文法に精通しているわけではありません

まず前提となる現在の私の読解力についてですが、基本的に生活で困らない程度にはあると思っています。

適正審査を通過したうえでウェブ記事の校正や編集のお仕事をいただいており、個人的に追加で別の依頼ももらえているので、客観的にも国語力の評価を得られるレベルなのだと思います。

 

ただ読解力がというよりは、ニュースメディアで働いていたことがあるので、単語の意味や文法など少しでも自信がなかったらすぐ調べるのが定着しすぎていて、正確性を重視した慎重さが特に評価されているのかな?という気もします。

 

私自身の感覚としては、ただそれなりに文字を読む機会をこなしてきただけで、どういうニュアンスかを感覚でしか掴めてなく、文法的に説明することは難しいと感じます。

品詞とか自動詞他動詞などといった文法を正確にはよくわかっておらず、いつも「なんか変!」と違和感があったら「こちらの方が自然ではないですか?」と提示しているだけにすぎません。

 

たとえば「ドアが開く」と「ドアを開ける」の状況の違いはわかるけど、友人が「ここに自動詞が続くのはおかしいよね」と自然に話すのを聞いて自分は感覚的だなぁと思ったし、自分の国語力にいつまでも自信が持てない要因だとも感じました。

歴史の流れや現代との相違点など知識がないと読めないのは苦手

明治文学や古典にはその自分の感覚が通用せず、一気に何もできなくなるので、古典のテストはいつも散々でした。

 

学校の授業であれば、内容を教えてくれるので明治文学でも理解できましたが、個人で読むとなると本当に苦戦してしまいます。特に宮沢賢治

これは明治時代だけでなく、シェイクスピアなど外国作品も含めた近代文学全般に言えることで、まず現代文とやや違う文体に戸惑ってしまって、なかなか頭に入ってきません。

さらには時代背景を知っていないと理解しきれず、上っ面しか入ってこないので全然読めた気がしないです。

 

今は「現代文を理解できるのが1番強いや」と思っているので別に気にしなくなりましたが、昔は本好き芸人が近代文学を紹介しているのを見たりすると、コンプレックスに感じていました。

 

そう考えると『シャーロックホームズ』は時代や国の文化がわからなくて入ってこなかった部分はあるとも言えますね。

今でこそ漫画『黒執事』のおかげでイギリス文化も随分覚えましたが、当時は「マントルピースって何だろう?」とかちょくちょく止まって調べながら読んでいたのを思い出しました。

「これ何だろう?」と立ち止まる回数が重なるとやはりストレスに感じるものです。

また、たとえば新しい考え方を得たいと思って読んだ本が、概念や思考ベースで書かれている文章であれば意味を理解することはできるかと思います。

 

しかし、知識ベースの難しい言葉が並ぶ「19世紀にマルクス資本論プロレタリアート…」みたいなマルクスを知らないと理解できないような文章は一気にキャパオーバーになってしまいます。

簡単にでいいから「マルクス資本論がどういうものなのか要約を書いて!」と感じるのです。

そのスタイルで読めるのは、自分がすでに知っている分野でないと成り立ちませんが、長文は学びのために読むことが多いのでつらいものがあります。

歴史を体感していると知識の重みが違うと感じます

親など年上世代の話を聞きながら常々感じてきたのですが、歴史を体感しているのって1つの強みだなぁと思います。

後から昔の歴史を勉強することはできますが、リアルタイムで時間の経過を共にし、実際に目にして自分が何を感じたのかという経験の重みには届かないし、ただの史実ではなく自分ごととして捉えている記憶定着の差を感じることもあります。

自分の中の何かと結びつけると覚えやすいと感じますが、実体験に勝るものはないですね。

 

たとえば私は、自由党日本民主党があわさって自民党になったのだとか、日本社会党社民党になったとか、そういった土台となる政治の歴史をほとんど知りません。

 

認識した時にはもう自民党民主党って感じだったし、『枝野ビジョン』で「55年体制」というワードが当たり前のように出てくると、前提知識が違うと感じます。

ちなみに「55年体制」は戦後、1955年から38年続いた自由民主党日本社会党の二大政党政治のことなのだそうですが、30代以下にとっては昔の話でしかなく、実感ってあまりないと思うんです。

もしかしたら自分が知らないと思っているだけで、これまでにどこかで聞いたことはあるのかもしれませんけど、実感がないし興味も薄いから右から左に抜けていってしまうんですよね。

先に概念を理解したい

ただ『枝野ビジョン』では、私がいまいちよくわからないなと思っていたものがどういうものなのかわかりやすく書かれていて、スッと入ってくる部分もありました。

 

たとえば「保守」「リベラル」「フェミ」といった思想イデオロギーを表す言葉。

私はあまり興味がなかったし、人によって話の内容が全然違うのでずっとよくわからずにいて、これまでスルーしてきていました。

 

しかし今回、なんで自分がイデオロギーについてわかりにくいと思ったのか少しわかった気がします。

 

というのも本を読んでいる中で、自分が物事を認識していく順序というものに気がついたのです。

 

私は最初に「概念」を理解することで、自分の中の認識が具体的にできあがり、そして人々の考え方の違いを捉えられるようになるのではないかと感じています。

そしてその名前を知るというのは、私の中で最も重要度が低かったのです。

枝野党首視点の「保守」

『枝野ビジョン』の中で、立憲民主党は「保守であり、リベラルである」と主張しています。

『「保守」と「リベラル」は対立概念とされてきているが、その常識に異を唱えるのが立憲民主党であり、「自民党保守政党、立憲民主は左派で反権的」とされているが実態は違う』という考えのうえで、「保守」とは何か?という話に繋がっていきます。

一般に「保守」主義とは、歴史や伝統などを大事にして、急激な改革を否定するという精神や運動であるとされる。

この意味での「保守」という考え方は、フランス革命を契機に生まれた。フランス革命は、ブルボン王朝の旧体制を倒して共和制を敷いたが、その後の急進的で過激な改革が、恐怖政治を生み出したことへの批判から、近代「保守」という政治思想が生まれたと言われる。

私にとって、これがまず「概念」の説明にあたります。

これは政治における「保守」が何を指し、何をきっかけに生まれたのかが端的に表されていて、とてもわかりやすかったです。

通常、多くの記事では「保守」がどういうものなのか、説明は省略されてしまいます。

政治における「保守」とは何なのか?とネットで調べようとすると、付随する要素も羅列されるから知らない単語がいっぱいで引いてしまうし、詳しく紹介しようとしてボリュームが増えるから結局「それが何なのか」を理解するのに手間がかかると感じて、これまでは諦めてしまっていました。

このような「保守」思想の土台になっているのは、「人間は誰もが不完全なものだ」という謙虚な人間観である。

世の中には100%の聖人君子はいないし、完璧な洞察力を持った人間もいない。
すべての人間が何らかの欠陥を抱え、不完全な部分を持っている。

従って、その人間が作り上げている社会も、常に不完全なものだ。
「理想の社会」は過去にも現在にも、そして未来にもあり得ない。

あり得ない「理想の社会」を目指すのでなく、先人たちが試行錯誤しながら積み重ねてきた歴史を大事に生かしながら、そこから得てきた経験知を踏まえ、世の中を少しずつ良くしていく。
過去にも「理想の社会」はなかったのだから、安易に「昔は良かった」などと回顧主義に走ることもない。

これが本来の「保守」の考え方である。

そして続くのは枝野さんが考える「保守観」になるかと思いますが、この時点で「保守」という言葉に対する価値観の差が生まれていそうだなと客観的に感じます。

枝野さんの弁は、考え方としてはフラットで現実的あり、私にとって違和感はありませんでした。

しかし世の中には、完璧を求める人や自分の考えが正しいと思う人、昔はよかったと思う人や変わることを嫌う人など、さまざまな考え方があることを知っているし、それらが皆、自分を「保守」だという可能性があるのも想像がつきます。

こうやって「概念」と1つの「保守観」がわかったことで、人々の「保守」に対する認識の差というものが見えてきました。

 

また、枝野さんは「保守すべき歴史や伝統とは何か」が問題だと説きます。

日本において、歴史が文字で記され残っているのは、5世紀からとされている。

聖徳太子の十七条憲法が7世紀初頭の604年だから、日本の歴史は、およそ1500年に及んでいる。

本来「保守」すべき「日本の歴史や伝統」とは、少なくともこの1500年に及ぶ歴史を踏まえたものであるはずだ。

しかし安倍晋三前総理や自民党議員の多くをはじめ、現在「保守」と称する勢力の中は、「保守」すべき日本の歴史と伝統を、「明治維新に始まる150年間」と考えている人が少なくないように見える。
2018年に安倍政権を挙げて展開された「明治150年」祝賀行事に、それが端的に現れている。

言うまでもなく、明治維新によって近代化がスタートしてからわずか150年ほどの期間が、日本の歴史全てではない。

人によって何を「保守」するべきか、考えが異なるのも理解できます。

上記はあくまで枝野さんの推測にすぎず、実際誰がどう思っているかは知るよしがありませんが、正直なところ、私も明治150年を押し出しすぎている様子には違和感がありました。

外務省が明治150年:日本の基本的価値観の源流という動画を作っていたりしますが、「源流(物事の起こり)」という言葉のチョイスには疑問しかなく、価値観がそれだけで形成されるわけないし、文化が変わっていく中で見聞きしたり体験したりすることでアップデートされた一環にすぎないと思っています。

福岡市博物館で「日本の歴史すごい!」と感じていのたで、枝野さんが「日本の長い歴史全体のわずか1割程度に過ぎない」と指摘するのもごもっともだと感じます。

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オードリー・タンさん視点の「保守」

オードリー・タンさんの本でもまた、「保守」について触れられていました。

こちらではご自身が日本のメディアに「保守的な無政府主義者」と表現されることについて、次のように話しています。

英語のアナーキスト(anarchist)を直訳して「無政府主義者」としているのかもしれませんが、私は無政府主義者ではありません。

 

無政府主義アナーキズムは、同じではありません。
私が考える「アナーキスト」とは、決して政府の存在そのものに反対しているのではないのです。
政府が脅迫や暴力といった方法を用いて人々を命令に従わせようとする仕組みに反対する。
つまり、「権力に縛られない」という立場です。 

日本語だけでも多種多様な捉え方をされてしまうのに、英語など他国語が混ざってくるとさらに、翻訳次第でいくらでも意味が変わってしまいます。

常に翻訳した人が発言者の真意を理解しているとは限らず、ニュアンスを汲み取れずに「似て非なる言葉」で伝えられていることは、おそらくこれだけじゃなく多々起こることだと考えられるでしょう。

 

そしてここでは、「保守」という言葉に当てはまる部分と当てはまらない部分という話になっていきます。

一方、「保守的」ということについて言えば、私の立場は、日本語の「保守」というより中国語の「持守」に近いと思います。
「持守」には「自分の意志を堅持する、貫く」といった意味があります。

たとえば、ベジタリアンになると宣言した人が、山海の珍味を目にしても見向きもしないのであれば、その人は自分のこだわりを貫き通したということです。
また、修行者であれば戒律を守り、やってはいけないことは意志を貫き通してやらないというのが「持守」です。
私もそういう「持守」という態度を大事にしています。

 

「保守」という言葉にはいろいろな解釈があります。
「堅持するのに値する何かを守る」と解釈するのであれば、私を保守派と呼ぶのは正しいと言えます。

しかし、「保守」は時に攻撃的な意味を持ちます。
その意味で「他の人が新しい物事を試すことを許さない」と解釈するのであれば、私は保守派ではありません。

私が「持守」という言葉を使うのは、そこに攻撃的な意味合いが含まれていないからです。
たとえばベジタリアンは、肉を食べている人を見ても「許せない」などとは思いません。
ましてや「私は戒律を守っているのだから、みんなも肉を食べてはいけない」と、上から目線で命令するわけではありません。 

「保守」は、旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとするのにどうするかまでは意味が含まれておらず、だからこそ人によって解釈が異なってしまうことが伝わってきます。

 

オードリー・タンさんの考え方は、「意志を貫く」と言っても決して「強硬(自分の立場・主張を強い態度であくまでも押し通そうとする)」ではありません。
「気骨(自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気)」もちょっと違う気がします。
「志操堅固(志や考え・主義などを堅く守り、何があっても変えないさま)」はもしかしたら近いのかもしれませんが、言葉の認知度がちょっと落ちそうです。

 

なのでまさに「持守」が最も近く、日本にはそれを表すメジャーな単語が見当たらないと言えます。

言葉で表す目的は自分の考えや物事を伝えるため

あくまで言葉というのは、どんなものであるかを表現する一手段にすぎません。

複数の意味を持っていて別の当てはまらない意味も有していたり、自分が表したいものにピッタリな単語がわからなかったり、そもそも自分の国には存在しなかったりすることがあります。

でもだからといって言葉で表現したい対象の内容(ここで言えばオードリー・タンさんの思想)は、ピッタリな単語があるかどうかによって左右されるものではありません。

であればただ、今ある単語を使って自分の思想を表現していくしかないですね。

目的と手段を見失わないということ

だからこそ私は、相手が何を言わんとしているのか「概念」を先に理解すること(目的)へ力を注ぎたいと考えますし、言葉はそれを手助けるもの(手段)でしかないと考えます。

 

ですが、世の中には「○○はこういうものだ」という、言葉のイメージが先行した考え方や文章というのは多いように感じます。

 

枝野さんやオードリー・タンさんの文章は概念ベースで書かれているので、どういう考えを持っているのかという1人の思考経路が見えてきます。

しかし「保守派だから〇〇」というように言葉が先行してしまうと、考え方を組み立てる順序が逆になり、中身が言葉に引っ張られて後付けで埋められた内容になってしまうのではないでしょうか。

これは結論ありきで都合のよい実験結果のエビデンスを添えていくのに似ていると感じます。

そして自分の中の言葉の解釈を前提に話が進むので、私はよくわからないまま置いてけぼりになってしまうのだと思いました。

 

これは無意識に陥りやすい思考パターンなのではないかと考えています。

先日、長年好きなものは「今現在の好きの熱量」を正しく見るのが難しいという内容を書きましたが、ずっと「自分は〇〇ファン」と思っていると、やがて「自分は〇〇ファンだからこう思う」にシフトしてしまって、今をフラットに考えられなくなる危険性を自分自身で感じました。

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稲田朋美さんの例

www.fnn.jp

自民党の稲田議員はいわゆる「保守派(右翼)」と認識されていながら、LGBT問題に積極的に取り組んでいることが「リベラル(左翼)だ」とされ、違和感と捉えられているようです。

これはまさに言葉が先行している例だと感じます。

日本では「LGBTは伝統的家族を壊す」と、右か左かというイデオロギーの話になります。

しかし私は、LGBT問題は基本的人権の問題だとずっと捉えてきたので、こうしたことに違和感を覚えていました。
当事者も思想的には右から左まで様々なわけで、思想や歴史感は全く関係ないです。

だから右か左かというのは物事の本質からずれているし、この問題に取り組んだら左翼だ、リベラルだというのは違うと思いますね。

そもそも稲田さんは、話の土俵が思想イデオロギーだと考えていません。
自分の息子にLGBTの友人がいたことから、1人の身近な人間の人権問題として取り組まれているようです。

私も自分で思いますが、まず安全保障や歴史観憲法改正はすごく右ですよね。

ところが女性やLGBT問題については人権重視、人権派です。財政については財政再建派ですね。

自分では統一が取れていて説明がつくのですが、他人から見ると「分裂している」「変節した」と思われるのです(笑)。

この稲田さんの考え方はとても自然な流れだと感じました。

私は物事1つ1つに対して自分の考え方があると思っているし、その考え方も環境や起こった出来事によって日々変わっていくものだと感じています。

むしろそうでない方が無思考の条件反射な反応で怖いとすら思います。

 

でも言葉先行で考える人からすると、その単語の認識から外れた途端に、異端となってしまうのでしょう。

ラベリングが難解すぎる

言葉の先行で特にごちゃついてわかりにくいと感じるのが「ジャンル」「カテゴリ」「科目」「ポジション」などといったラベリングです。

先程例に挙げた思想イデオロギーもそうですが、ラベリングというのは、まずその分野をよく知らないと認識が難しいし、認識の範囲が人によって異なりやすいと感じます。

 

たとえば、学生の頃から「英語」「算数」「国語」「理科」「社会」といった科目まではわかるけど、高校生以降のそれ以上に細分化された科目は「いきなりリーダー・グラマー・オーラルコミュニケーションとか、数A・数Iとか増えたけど何それ?」って思っていました。

ちなみに最近の英語はさらに「コンポジション」が増えているそうですが、「reader=読本」「grammar=文法」「oral communication=口頭伝達」「composition=作文」と単語を覚えれば、英語の科目の意味はまだわかります。

でも「数I」「数A」とかは、一応「解析I+幾何」など歴史があるそうですが、マジで意味がわからなさすぎます。

 

音楽でも「ロック」「ジャズ」「クラシック」など大まかなものであればまだイメージができますが、「ハウス」「ラウンジ」「パンク」「グランジ」「メロコア」って何?と思ったし、ゲームの『ポップンミュージック』をプレイしながら違いがよくわかんないな~となっていました。

この音楽については、昔から大好きな植松伸夫さんやラルクが幅広い曲をつくるのもあり、ジャンルに当てはめる必要性を感じなかったのも大きかったかもしれません。

「人によって解釈が分かれている時点でもはや無理じゃん、なんで論争したがるの?」とよく思ったものです。

 

ほかにも本屋や図書館のジャンル別分類とかも探すのが苦手なので検索機必須ですし、芸術の「抽象派」「印象派」「未来派」「写実主義」「自然主義」みたいなのもなかなか覚えられずにいます。

 

何においてもこういった分類があるものですが、大まかな大分類から細分化された中分類・小分類が相当数あることが多く、歴史背景を知らないとどう派生していったかがわかりません。

各分野ごとにそれらを覚えることに労力をかけるくらいなら他のことに割きたいと思ってしまいます。

いろいろ実例を知ったあとに単語を知って「あれのことか」と結びつける方が覚えやすいですしね。

知れば知るほど森羅万象は連鎖して繋がっていると痛感する

分類をあまり気にしないというのは、気乗りしないからただなんとなくそうしてきただけですが、結果それでよかったかなと今では思っています。

いろんな物事を知れば知るほど、別分野との繋がりが多数あって複雑に絡み合っていることに気がつきます。

であれば私がわからないのも当然で、自分が概念ベースや体感ベースで物事を捉えるようになったのも必然だったのではないかと感じます。

 

オードリー・タンさんが理系分野について述べていたのもまた、それぞれの分野の相互関係を表すものだと思います。

性質が完全に異なるといえば、化学における反応は物理における基礎で、化学における分子式もまた物理の法則に基づいています。
仮に物理と化学がまったく関係ないのであれば、物理の法則を化学者が使うことはできず、化学者の発明したものを物理学者が研究すべきではないということになってしまいます。
しかし、理論物理学は実験物理学から派生したものであり、実験物理学は化学的な方式を用いて物理の理論の検証を行うものです。

つまり、生命科学の分野でも、薬やワクチン、マスクそれぞれに物理や化学の知識が必要なのです。
それらの知識があってはじめて、どの方式を使って開発するかということが考えられるのです。
このように、物理と化学は性質こそ異なっていますが、相互に関係し合っているのです。

正直何言ってるかなんてこれっぽっちもわかっていないけど、要は分野が違うからといって関係がないなんてことはなく、ある一分野に特化していたとしても、ほかの分野の知識を使うことだってあるし、複数の分野の集合知でものをつくりあげているというのはわかります。

ピッタリの例が思い浮かばないのでちょっとズレるかもしれませんが、たとえば和食料理人がメレンゲを使うことだってあるし、フランス料理であればソース担当、前菜担当、魚担当、肉担当、切り分け担当、お菓子担当などたくさんのシェフによって1つのコース料理がつくられているようなものかなと想像します。

別に和食料理人がプリン作ったっていいし、アメリカでカリフォルニアロールが作られて逆輸入なんてこともありますね。

それでいてレストランを立ち上げるとなると、不動産を借りて、インフラや調度品を調えて、値決めや原価管理など管理会計をして、お店を知ってもらうための広報活動をする…と料理以外の分野にも取り組んでいかないとなりません。

 

こうやって何かを知れば知るほど、知らない何かが芋づる式で大量に出てきて、隣り合う分野にも同じような途方もない未知の世界が広がっていて、それらがたった1分野にしかすぎない…と自分の無知さがえげつないことに気づいていくものなのではないでしょうか。

だから道を究めたり、いろいろな業界を渡り歩いている人ほど他者へのリスペクトがあるし、謙虚な方が多いのかなって思います。

「実れば頭垂れる稲穂かな」とはよく言ったものですね。

圏論」という考え方

オードリー・タンさんが紹介していた「圏論(けんろん)」という数学の理論は初めて聞くものでしたが、感覚としてはどこかなじみのあるものでした。

圏論」という、とくに私が興味を持っている数学の理論があります。
これは、一見違うように見えても同じように相互作用しているものについての学問です。

「あるものの相互作用の仕方を、他の相互作用の仕方に自然と変換するにはどうしたらいいのか」を考えるのが、「圏論」の特徴です。

繰り返しになってしまいますが、多くの物事は要素同士が密接して連鎖しており、「風が吹けば桶屋が儲かる」というようにどこかで影響し合っているもので、何にも影響を及ぼさないことって実はなかったりすると思います。

たとえば、「社会的企業」という名称は、これまで「社会的」が形容詞であり、「企業」は「社会」という単語によって修飾される名詞であると考えられてきました。

しかし、「その考え方は違う」と主張する人たちがいます。
社会的企業とは、社会問題を解決することが本来の姿であり、社会こそが主体なのだ」という論理です。

そこで私は、社会と企業の間に「・」を入れて「社会・企業」という名称を考えました。
この「・」は、「社会は社会に帰属し、企業は企業に帰属する」という意味で加えたものです。

今、私たちが行っている仕事は、まさにこの中間点が表す「連結(・)」です。
社会が企業とつながるこの「・」こそが、イノベーションであるというわけです。 

簡潔にまとめれば「社会と企業のどちらが主体なのか」を「・」によって解決したという話です。

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私は以前、言葉は何でもよいけど「共通のゴールを見据えて協力する」方向へシフトした方がいいのでは?と思った話を書きました。

これも大枠で見れば「圏論」の一環なのでは?と本を読んでいて思ったのです。

 

社会が主体だろうと、企業が主体だろうと、「社会問題を解決する」という目的は共通しています。

名前先行で考えた結果の主張だと思いますが、概念自体は同じものです。

「みんなどこも同じ問題抱えているんだから、手を取りあう必要があるのでは?」までは書きましたが、「・」で解決するという考え方は発想がありませんでした。

 

私はずっと「概念>名前」の感覚で来てしまったので、概念の名前なんて些末なものという気持ちが自分の中に少なからずありました。

文を読むのに必要な単語は覚えるけど、概念に対する名前になった途端に扱いが雑になるのです。

だからラベリングをスルーしまくってきたし、自分のブログのカテゴリ分けも下手だなぁと思いながらやっています。

そのせいで自分が「物を知らない」と思う場面はよくありましたが、でもよくよく聞いていると、このように「名前を知らないだけ」だったりするのです。

今回これを書きながら、概念を理解する方がよっぽど大事だなぁと感じたので、ラベリング無知にますます拍車がかかってしまいそうです。

私にとって読みやすい文章と感じる3つのポイント

どんな文章を書くかは個人の自由ですし、どんな文章を読むかもまた個人の自由。

であればあくまで個人的な好みですが、私は次のような文章を読みたいのだと気がつきました。

  • 違和感のない自然な日本語で書かれている
  • 概念ベース・思考ベースで書かれている
  • 知識がなくても読めるよう工夫されている

違和感のない自然な日本語で書かれている

大前提としてやはり、違和感なくスラスラ入ってくるキレイな文章を読みたいものです。

校正をやっていると正直、日本語がめちゃくちゃなライターが一定数いるものだと感じます。

誤字脱字というレベルを超えていて、基本の「てにをは」を理解しておらず、本来言いたい内容とは別の内容になっているであろう文章が出てきて「うわぁマジか…」と直しています。

たとえば「紐をフックにかける」はランドセルにつける巾着袋などになりますが、「フックを紐にかける」だとそれはもう屋台のヨーヨーつりですよね。まぁ違いますよね…。

 

そういった文章を見た後はドッと疲れてしまうので、プライベートでは避けたいところです。

概念ベース・思考ベースで書かれている

著者の思考の概念ベースであり、言葉先行になっていないのも重要です。

 

言葉には複数の意味を持つものがたくさん存在しています。

概念ベースであれば、思考の過程がわかることによって、その言葉をどう捉えているのかを把握し、自分や他者の考えとどこが違うのかという差異にも気がつきやすくなります。

 

これは解釈のブレを減らすことにも繋がります。

 

パソコンでドラッグと言えば、マウスの左ボタンやタッチパッドを押したままアイコンなどを引きずって動かすことを指します。

私はこれ以外が思い浮かばないし、あとは知っているかどうかの差です。

これなら知っている人に向けては、「ドラッグ」の一言を使えばいいだけの話になります。

 

しかし、先述で例に挙げた「保守」は人によって解釈が異なる可能性が高く、自分の「保守観」を書くことで、認識の食い違いによる論点のズレを減らし、どこに差があって、どちらがより良いと思うのかという比較の材料にすることができます。

 

掃除の仕方であっても「上から下へホコリを落としていって床に溜めてから片づける」と書かなければ、最初に掃除機をかけてから棚の上のホコリを払う人がいるかもしれません。

 

自分の当たり前は、他人の当たり前ではないのですから、いろいろ解釈ができてしまうものはやはり、概念の説明が必要だと思うのです。

 

そして私はその概念ベースの考え方が身についていたおかげで、ラベリングに縛られずフラットに見ることができるようになったとも捉えています。

 

ラベリングや名前っていうのは、概念となる事象が先にあって、皆がわかりやすいようにカテゴリを分けたり、共通認識できるよう名づけられたりしているはず。

しかし、名前が先行してしまうと、ラベリングに当てはめようとしたり、内実が違っていてもラベリングを見て判断してしまったりということが起こっているように見えます。

やはり言葉先行の考え方は危険だと感じます。

知識がなくても読めるよう工夫されている

これを書いていて「歴史」という言葉を何回も使ったなぁと感じたのですが、つまるところは読み手の知識の負担があるかどうかということなのではないかと思い至りました。

 

いつどこで生まれたか、何に興味を持って勉強してきたか、どんな仕事をしてきたかによって、人の持つ知識というものは異なってきます。

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読みやすい文章を書く人というのは、自分が知らないものであっても何かしらの形でわかるように工夫がされていると感じるし、概念をベースに書くのもそのひとつと言えます。

 

漫画だと『ブルーピリオド(絵画)』『ヒカルの碁囲碁)』『アイシールド21(アメフト)』『ラジエーションハウス(放射線科)』『Shrink シュリンク-精神科医ヨワイ-(精神科)』など、身近なテーマでなくてもわかりやすく描かれていたり、なんとなく楽しめるものが多いですよね。

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でも文章や会話になった途端、説明が疎かになることって本当によくあることだと感じます。

自分の感覚を前提とし、自分が知っていることは書き飛ばしてしまうので、一気に「あれだよ、あれ」レベルになってしまうんですよね。

たまに校正を手伝う広報紙で本の紹介コーナーがあるのですが、「その本を読んだことないから何言ってるのかマジでわからん」と思うことはしょっちゅうです。

気づかず自分がやってる可能性はありますし、たまに過去の記事を振り返ってはちまちま直すこともしています。

自分が「普通」だと思ってることは案外「その人らしさ」だったりするのよ
でも自分にとっての「普通」はみんなにとっても「普通」だと思っちゃうから一人でソレに気づけないのよ

『ブルーピリオド』

そう考えると、先に書いた『壬生義士伝』は改めて本当にすごいですね。

主人公の吉村貫一郎が、自分がまったく知らない東北・岩手の南部弁で話しているのに、気づけば物語の内容が入ってきて感情移入しちゃうのです。

「おもさげながんす」は「申し訳ないことでございます」という意味なのですが、それだけ書かれていたら、まぁわからないと思います。笑

でもこのレベルの訛り言葉が自然と入ってきて、泣くほど物語にのめり込ませてしまうのがプロの作家さんの力というものなのでしょう。

 

個人的な所感ですが、この3拍子がそろった文章を書く人というのは、自分の考えをしっかり持って思考の整理もされているので、論点がズレたり、変な情報に踊らされたりしている確率がグッと下がる気がします。

 

私自身もこんな文章を書けるように努めていきたいものです。

参考文献


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