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「ベロニカは死ぬことにした」を読み終えて感じた認識の差と生きる意味【正常とは何か?】


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2020-10-27_19-22-52_282

読書の秋、真っただ中。しえるです。

 

今年『アルケミスト』という小説を読んで、雷に打たれたかのような衝撃の感銘を受けました。

 

新たに人生のバイブルの仲間入りした『アルケミスト』についての記事もめちゃくちゃ書きたいんですけど、まだ上手くまとめられないので寝かせつつ、ブラジル人作者のパウロ・コエーリョ氏の本を読み漁っています。

 

ある人にとっては、

何言ってるんだコイツという感じであり、

ある人にとっては、

自身の心の琴線に触れ、時に生々しすぎて嫌悪感すら感じる。

ある人にとっては、

希望を与えてくれる道徳的作品ととり、

ある人にとっては、

共感の嵐となる。

彼の本の感想などを見ていると、読む人によって見える景色がまったく異なってくるのだと感じます。

 

今日は彼の著書の中から『ベロニカは死ぬことにした』について、引用を用いながら取り上げてみようと思います。

(繊細な話題も含まれていますので、ご注意ください。)

「ベロニカは死ぬことにした」を読み終えて感じた認識の差と生きる意味【正常とは何か?】

あらすじ(Amazonより引用)

ベロニカは全てを手にしていた。若さと美しさ、素敵なボーイフレンドたち、堅実な仕事、そして愛情溢れる家族。でも彼女は幸せではなかった。何かが欠けていた。ある朝、ベロニカは死ぬことに決め、睡眠薬を大量に飲んだ。だが目覚めると、そこは精神病院の中だった。自殺未遂の後遺症で残り数日となった人生を、狂人たちと過ごすことになってしまったベロニカ。しかし、そんな彼女の中で何かが変わり、人生の秘密が姿を現そうとしていた―。

正常とは何だろうか?

この本では、主人公でスロベニア人女性のベロニカが冒頭で自殺未遂をし、生死をさまよったのちの精神病院での生活が描かれています。

人は狂気の世界の自由に慣れてしまい、それが中毒になってしまう。

責任なんてものを取る必要も、日々の生活費を稼ぐことも、反復的な日常のつまらない仕事に煩わされる必要もなかった。絵を見たり、バカな落書きを描いたりして何時間でも過ごせてしまう。

そして彼女自身も見てきたが、ほとんどの患者たちの体調は入院した途端に向上した。彼らは病気を隠す必要もなかったし、"家族的"な環境によって、自分の神経症や精神病が受け入れやすくなった。

全人口の結構な数がパニックに襲われて苦しんでいるのに、苦しんでいる人のほとんどは、狂ってると思われるのが怖くて、その症状を隠そうとしていることを、調査が明らかにしていた。

本の中では、日常生活のしがらみから離れて、病院で過ごすうちにほとんどの患者の症状が消えています。

何をしても咎められることがほとんどないからです。

パニック症状による発作が見られた時は薬で眠らされるか、電気ショックで短期記憶をなくす処置が施されます。

 

作中には大まかに分けて4つの人種が登場します。 

  • 精神病院の中で自由に健やかに暮らす「狂人」たち
  • 社会で苦しみや不安を抱えながら過ごす「普通」の人たち
  • 精神病院で患者の反応に対して反射的に処置を施す看護師たち
  • 論文を仕上げるため精神病院の患者の様子を観察する医師

 

 おそらくメンタル的な病気を受け入れられなかったり、精神科にかかることに抵抗を覚えたりする方は多いのではないかと推測します。

(行きづらい病院の検索でトップに表示されてくるように、きっと泌尿器科産婦人科・精神科が3トップではないでしょうか?)

でもこの本を読むと、どちらが正常なのか?について考えさせられます。

 

いったい何が正常なのでしょうか?

正常とは何をもって定義されるのでしょうか?

ベロニカの抱える葛藤

ベロニカは大体のことをそつなくこなし、特段不自由のない生活を送る24歳「自称普通」の女性です。

ある日ふわっと過量服薬し、自殺を図ります。

この先同じような毎日を繰り返すのを見なくて済むことを喜んですらいます。

 

生死をさまよって目覚めたベロニカは、生還を果たすも医師から先が長くないと告げられます。

「だから泣いてたのよ」とベロニカは言った。

「クスリを飲んだ時、わたしは嫌いな人を殺そうと思ったの。自分の中に別のベロニカが存在してるなんて知らなかったの。わたしにも愛せるベロニカが」
「どうして自分を嫌いになんかなれるの?」
「臆病だからかしら。それとも間違いを犯すことや、人が期待してる通りにできないことへの永遠の不安のせいかも」

現代は、自分を嫌いだと思う方が多いと思います。ベロニカも私もその1人でした。

しかし、病院生活を送るうちに、好きだと思える自分を発見したことにより、ベロニカはパニックになってしまいます。 

彼女はもう怖さを抑えきれなくなっていた。
「自分を抑えなければ。わたしは、自分の決めたことに従い、最後までちゃんとやり遂げる人だったじゃない」
彼女が、自分の人生の中でたくさんのことを、その最後の結末まで見届けてきたことは本当だった。

でも、それはあまり重要でないことばかりだった。謝ればすぐ解決できる言い争いを引き延ばしたことや、単にもううまく行きそうにないという理由から愛していた人に電話しなかったこととか。
彼女は簡単なことには頑固だった。まるで自分がどれだけ強く、無関心でいられるかを自分に証明しようとしていたみたいに。

本当は、優秀な学生だったことも、学校のスポーツで秀でたこともなく、家庭で争い事なしに過ごしたこともない、ただの傷つきやすい女だったくせに。
彼女は、小さな欠点は克服したが、本当に大切なことでは打ち負かされていた。完全に自立しているように見せてきたけど、実は、人と一緒にいることを必要としていた。

死を控える彼女は、「一度自殺を成し遂げようとしたでしょう、これまで何事も成し遂げてきたでしょう」と自分に言い聞かせます。

でも実は自分は何も成し遂げていなかったことに気づきます。

それまで特段不自由なく生きてきたけど、特別のめり込む何かもなかったのです。

何も成し遂げていない自分を認めるのって勇気がいりますね。

 

余談ですが、ここで私はふと友達の話を思い出しました。

スパっと禁煙に成功したのに「お前はそんなんだから何事も続かないんだ」と怒られたという話です。 

何をもって成し遂げるとするかを考えさせられましたし、他人の意見主張の不毛さを感じました。

誰かのために虚像を作り上げることによる代償

彼女は友だちのみんなに、人も羨むような女性という印象を与えたが、自分で作り上げた虚像に合わせて行動することにエネルギーの大半を費やすようになっていた。
そのため、彼女には自分らしく生きるための十分なエネルギーが残っていなかった。

彼女は自省に、仮面に、適切な振る舞いに、飽き飽きしていた。
彼女は精神病院にいたので、ただ愛し、受け入れ、問題を回避する道を探し、衝突を避けるよう育てられてきた人々が、ふだんは隠している感情を感じることが許された。

ベロニカは全てが嫌いだったが、主に自分の今までの生き方が大嫌いだった。

自分の中の、おもしろく、異常で、好奇心旺盛で、勇敢で、毅然としている、何百というベロニカを一度も見つけ出そうとしなかったからだ。

他人の目を気にして、一般的によいと言われるものを取り入れ続けると、人生は虚像でいっぱいになります。

何も成し遂げていないのを知っているのに褒められても虚しさはつのるばかりです。

ベロニカが嫌いな自分の中は、虚しい他人でいっぱいに埋め尽くされていました。

 

でもベロニカは自分の中に「わたしにも愛せるベロニカ」を見いだしました。

それは本来の自分の気持ちです。

実はたくさんあるのに、見えづらくなってしまっているものです。

 

自分が何をしたかったのかを思い出し、自分が喜ぶことをしてあげると、それはどんどん増えていき、自分が満たされていきます。

 

先日のテレビ番組『ジャンクSPORTS』でも、ローラが

「オーガニックなご飯を食べたり、運動すると体や心が喜ぶ。

3年前は心が落ち込んで人と会いたくないと思ったり、外にも出られない状態で、それを克服できたのは自分を大切にすることだった。

『ツラい』と思っている人がいたら、『大丈夫だよ』と言いたい。

自分を見つめて大切にしたら明るくなってくる。

感謝の気持ちが生まれるから頑張ってねって言いたい」

と同様のことを話していたのを思い出します。 

www.fnn.jp

他人はよくも悪くも影響を与える

「誰もピアノでなんか食べていけないのよ」
「でも、レッスンを受けるように言ったのはお母さんでしょ?」

他人は何かのきっかけを与えてくれることもありますが、芽を摘んでくることもあります。

人は自身の常識を当然と思っていて、自分の視野の外は想像するのが難しいからです。

 

でもその人生を歩んだ結果が返ってくるのは自分です。誰も責任を負ってくれません。

人の意見を受け入れるかどうかは自分次第です。

いつの間にか課したり課せられたりしている枷(かせ)

見返りを何も期待しない愛情は、彼女を罪悪感と相手の期待に応えたいという欲求で満たした。そのために自分が夢見てきたことを全て諦めることになったとしても。

それは、世の中に存在する困難や堕落から、彼女を庇おうとするような愛だった。いつか、彼女がそれらのことに直面し、その時には全く身を守れなくなるだろうということを無視して。 

最近だとテレビドラマ「35歳の少女」の母親も似たような光景が描かれていますね。

 

私自身両親に守られ、甘やかされて育った感覚があります。

何でも手伝ったりやったりしてくれて、何をしても本当の意味で止められることは少なく比較的自由に育てられ、人間の闇の部分をなるべく見せないように隠してくれていました。

でも何も知らず、何もできない自分に苛まれて、親に当たってしまったことがありました。

それを乗り越えて今の自分がありますが、恩をあだで返した自分という確かな証拠をもって、あまりいい結果を生まないなという認識を持っています。

 

父が家族のために色々手放して、一生懸命働いてくれていたことも今は知っています。

両親自身も親との問題を抱え、大変な思いをしていることも知っています。

だからこそ、自分に優しく、自分のために過ごし、少しでも笑顔でいてほしいなぁと思いますが、何を選択するかは両親次第なので、少しもどかしい気持ちはあります。

 

これはおそらく男女関係や友人関係、会社や部活などの上下関係といったあらゆる場所で起こりやすいものかと思います。

尽くす女性とヒモ男の関係とか、女性に貢いでしまう男性とか、嫌われるのを恐れて反論できずに従うばかりの関係とか。

こちらもひととおり大体の立場に覚えがありますが…どおりで上手くいかなかったはずだと思います。

自身がその関係を強いられていたトラウマがある場合を除けば、相手は元々はたいていそんなの求めていないんですから。 

感情を感じ切ると手放せる 

あまりの憎悪を心から感じていたために、心にはもう何の憎しみも残っていなかった。彼女はやっと否定的な感情をおもてに出すことができた。もう何年も自分の中に抑えつけてきた感情を。実際に感じてみて、彼女はもうそれを必要としなくなった。もう捨ててもよくなった。

ベロニカは狂人に囲まれたことによって、自分が狂うことを許し、これまで抑えてきたものをすべて爆発させていました。

 

これ、実はまさに私が退職&外出自粛の始まったのをきっかけに実践していたことです。

どうせ誰も見ていないので、好きなだけダラダラして、好きなだけ歌い、好きなだけ罵り、好きなだけ泣きました。

何か感情が沸き上がる度にそのまま溢れさせて垂れ流し、やりたいことが出てきたら全部やりました。

そうやって得られたのは過去の手放しと、将来こうありたいというビジョンと、今への集中でした。

 

ぶっちゃけ現在もそのような生活を続けていますが、過去最高に自己肯定感が高く、毎日が幸せだなぁと感じています。

そして見える世界がかなり一変しました。

他人の目という大きな壁 

防御壁で自分を囲い、全てがどうでもいいかのように振る舞った。
誰か人生によりオープンな人が登場すると、彼らはすぐに拒絶するか、自分より劣るものと見なしてその人を苦しめた。"無邪気だ"とけなして。

あくまで推測であり、それだけじゃないと思いますが、先ほど話に出したローラも、これに苦しめられたのではないのでしょうか?

私自身「世間を知らない無邪気な子供」とよく揶揄(やゆ)されました。 

 

相手の方がよっぽど狭い視野で話していても、いかに私が世間知らずで自己中の知慮不足であるかを滔々と説いてきます。実際に経験したことないにもかかわらず。

そういう人ほど、何か月も前に私がしてた話をまるで自分の話かのようにどや顔でぶつけてきたり、実際に体験して私と同じ状況に陥った時にパニクって爆発したりしています。

 

そこで一度、まわりの雑音から離れ、自分に集中したことで色々なものを取り戻すことができました。

博士に"話す"のは、彼らがほとんど何も"した"試しがないからだ。
彼は未だに、どうして彼らが人と違うことをそこまで怖がるのかを疑問に思っていた。
その理由を聞いた時の、最も一般的な答えは、妻の場合、「夫はきっと、わたしが娼婦のようだと思うわ」で、夫の場合には、「妻にはちゃんと敬意を払うべきだから」だった。

自身に集中したことで、改めて自分の気持ちに忠実になろうと思い立っても、次の難関が待ち受けます。

相手があることによる再びの葛藤です。

人は行動する前が1番怖くて動けなくなります。

自分が動いたとしても、動けない気持ちも知っているから相手の反応の想像も容易です。

(最初から動ける人は除きます。)

狂ったままでいながら、普通の人のように振る舞うのです。人とは違う存在のことであることの危険を冒しながら、注意を惹かずにそうすることを覚えなさい。

現代社会では処世術として、誰にどこまで出すかというさじ加減を覚えていた方が過ごしやすいかもしれません。

全ての人の指紋が違うように、誰もが人とは違う性的な顔を持っているものだから、と言っても無駄で、誰も信じようとはしなかった。ベッドで自由に振る舞うことは、とても危険なことだった。相手がまだ先入観の奴隷と化しているのではないかという不安が常にあった。

性に限らず、どんな些細なことでも自分の頭によぎったことが突拍子もない場合、自分で打ち消してしまうことが多いかと思います。

でも最近、いわゆる少女漫画を読んでいて思ったのですが、正直に思いを告げていればこんなややこしくて苦しいことにはならなかったのにということばかりで、少しうんざりしてしまいました。

そんなこと言ったらストーリーにならないわけですが、実際の現実でも同じことが言えるかと思います。

もちろん無駄に面倒に巻き込まれたくもないので、私自身どこまで出すか相手によるという感覚がありますし、それだけ自身の中で不安が残っているということなのでしょう。 

本当の理想は誰を相手にしても同じことを言えることかもしれませんが、せめて全部を出さないとしても、自分の気持ちに嘘をつかないだけでも大きく違うのではないでしょうか。

まわりくどい正義が多い理由 

隣の人の邪魔になるとか考えるのはやめなさい。

もし気に入らなければ、彼らは文句を言えるんだもの。

それでもし文句を言う勇気がなければ、それはその人たちの問題よ

本来なら何かあれば「迷惑です」と伝えて「ごめんなさい」で済むはずのものが、まわり道をして余計な感情を乗せ、必要以上に話が膨らんだものに発展することは普段からある話です。

 

人はよく、誰かのために我慢して「なぜあなたは我慢しないの」と押し付けてきます。

だからこそ誰かの不倫に自分のことかのように反応したり、「自粛警察」のような自主的に取り締まりをするような人たちが現れます。

私はきちんと守っているんだから、あなたも守りなさいよ!という怒りが原動です。

 

こういった方たちは、他人の目のために行動しています。

自分のために自粛をしたり、ルールを守ったりしていると、他人が守っているかどうかはあまり気になりません。

予防策をとることはあっても、直接的な迷惑を被りそうな時に初めて、制止すればいいからです。

だからムカッとする時があっても、いったん距離を置くことを覚えましたし、このことを意識して、逆になんでイラついたのか?と深掘りするよう心掛けています。

 

また別の話として、「自転車は左側の車道を走りなさい」という交通ルールがあります。

しかしそれを取り締まるのは警察であって、一般人である必要はありません。

注意で終わるならまだしも、ルールを守らないのが悪いと言わんばかりにわざとぶつかってにらみつけている人などもいます。

もはや本末転倒で、逆に傷害罪でしかありません。 

これはおそらく自分が仮そめの正義となり、他人の問題に目を向けることで、自分の問題から目を背けているのでしょう。 

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自分の身は自分で守る

尊厳って何なの?

人によく思われたいってことでしょ。行儀よくて、隣人への愛に溢れる人みたいに。

少しは自然に敬意を払いなさいよ。動物の映画かなんか観て、自分のスペースのために戦ってる姿を見てみなさいよ。

自分の心身の危険が脅かされていても、自分に自信がないと相手の意見が正しいと思ってしまい、できない自分が悪いのだと受け入れてしまいがちです。

でもなぜ、相手が自分を脅かすのはOKで、自分が相手に防衛してはいけないのでしょう? 

 

脅かされたら守るのは正当防衛です。

本当に世の中の全員が行儀よくて、隣人への愛に溢れていたら、こんなつらい気持ちを抱えていないし、悲しいニュースもなくて、世界はもっと平和なはずです。 

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ものに対する認識の違いの差 

これはネクタイだ!

でも、狂人は、わたしの首の周りにあるものが、とても複雑に結ばれている、バカげた、何の意味もない色のついた布で、肺に空気を送り込んだり、首を回すのに邪魔になるものだと言うだろう。
もし狂人が、このタイがなんのためにあるのかと聞けば、わたしとしては、べつに何の意味もない、と答えざるを得ないんだ。

純粋に装飾的でもないし、今では、隷属、権力、スノッブさのシンボルになってしまった。

タイの本当に役立つ唯一の機能は、家に帰ってそれを外す時の安堵感だ。

でもその安堵感は、ネクタイの存在を肯定するだろうか?

いいや。それでも、狂った人と、普通の人に、これが何であるか聞いたら、正気の人は、これがネクタイだというだろう。

問題は、どっちが正解なのかということではなく、どっちが正しいかということなんだ

私にとっては、ただのネクタイでしかない存在。

しかし、ある人によっては社畜の象徴となります。

そして存在意義について問われると、まるで意味がないことに気づきます。

 

当たり前の存在だけど、何のためにしてるんだろう?

由来をたどってみると、元々は古代ローマ帝国の兵士が防寒と無事を願うお守りとして首に布を巻く習慣があり、その後17世紀になって、ルイ14世が兵士の首巻を見て取り入れたのが起源とされているそうです。

ということは、ただのオシャレでしかなく、意味は特にないことになります。

 

でも、意味がないけどマストアイテムとしてお金をかけて大量生産されたものを購入し、首に巻き、ちょっと息苦しくなることが「普通」となっていて、これに疑問を持ったり、抵抗することは「狂ったこと」とされるのが現状です。

何をもって、何が正しいと言えるのでしょうか?

 

もちろんネクタイをファッションの一環として楽しむのはアリだと思います。

これは自分のテンションを上げるための行動として成り立っています。

個人的にはネクタイってカッコイイと思っていて、チョイスに個性や遊び心が含まれていると「お!」となりますし、つけ外しの仕草も素敵です。

 

正直「これは横暴だ!」って主張をわめき散らしたり、誰かに主張を強要する必要もないと思ってはいますが、妄信的に当たり前に従うのではなく、自分の意思で要不要を見極めて選択していくのは大切かなと感じます。

現に、ネクタイをしなくても大丈夫な職場はいくらでもあります。

 

最近だと、昨今のコロナ禍にあたり、マスクの賛否について声をあげる姿を見受けます。

私からすれば、ウイルスを防ぐための万が一に備えた対策の一環でしかありません。

しかし、頑なに新型コロナウイルスは存在しないと声をあげるためにマスクをつけない人、マスクは重病人の象徴として嫌悪感を示す人、効果を認めない人、さまざまな方がいらっしゃいます。

 

最近マスクの効果に対するニュースが出ており、一定の抑制効果は認められていましたが、マスクの性能やつけ方によって差があると伝えられていました。

www3.nhk.or.jp

自身の対応が現状、どこまでの効果を生んでるのか正直把握していません。

それでも今後、玉石混交の中から情報を取捨選択し、お財布と相談しながら効果のある製品を選んでいきたいですし、自分の意思で自分のためにマスクをつけるという選択をすることに意味があると思います。

 

後遺症も怖いので、自身の健康のためにこれからも喜んで密を避け、基本引きこもりで生活が成り立つように組み立てていきたいです。

自己責任で自分を生ききる

わたしはもう一度、太陽も、山も、人生の問題でさえも、楽しめるようになってきたの。

人生の無意味さが、自分の責任以外の何ものでもないことを受け入れ始めたところなの。

もう一度リャブリャーナの中央広場が見たくて、憎悪も、愛も、絶望も、退屈も、人生を成すそんな簡単で取るに足らないながらも自分の存在に喜びを与えてくれるものを、感じてみたかったの。

毎日同じことの繰り返しだと思っていたベロニカは、それが自分の選択によるものだったと気づきました。

自分の見方次第で世界の見え方が全然違うと知り、すべての物事を新鮮に感じています。 

生まれてからずっと、政府は、人生のスピリチュアルな意味を探すことの唯一の目的は、人に本当の問題を忘れさせるためだと教えてきたのよ。それなら、教えてちょうだい。人生を理解することこそが本当の問題だとは思わない? 

スピリチュアルという言葉は、怪しく感じる方は多いと思います。

しかしこれはどちらかというと地に足をつけて、自分の目の前に広がる物事を正しく理解しようとする、何よりも人生に真摯で、現実的な考え方のように感じます。 

「本当の"わたし"って何ですか?」
もしかしてそこにいるみんなは知ってるのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。彼女は他の人の気に障るかどうか心配するのをやめなければならないのだから。
「あなたがどんな人なのか、人が考えていることではなく、まず自分が何であるのかということです」

 知ったかぶりをせず、わからないものを追究していく。

 それが1番の近道なのではないでしょうか。

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現代社会は、無から一つ一つ積み重ねで形成されてきた歴史の集大成なだけ 

マリーから見れば、その難しさは混沌でも無秩序でも無政府主義からでもなく、過剰な秩序からきていた。社会にはますますルールが増え、そのルールに矛盾する法律と、さらに、その法律に矛盾するルールができていった。人は、そんな生活の規範となる見えない規則の外に一歩でも出るのを怖がった。

法は問題を解決するために作られたのではなく、争い事を無期限に引き延ばすためにあった。

法の違反(それがどれだけ非論理的で不条理だろうと)
裁判(経験のある方が、純粋な方に勝ってしまう)

ベテラン弁護士だった女性が話す法の認識もとても印象深かったです。

政府の指示が常に正しいとは限らず、規則が人々のためだとは限りません。

 

現代のルールは、これまでの時代時代で、戦争の勝者であったり、富や権力を持つ者が、自分に都合いいルールを設定してきた積み重ねで成り立っています。

国連(United Nations)だってもとをたどれば、ただの第二次世界大戦戦勝国です。

稀にキングダムの嬴政(えいせい)の中華統一のように、大ナタが振るわれることもありますが、通常は、何か問題にぶつかった時に修正し、都度解決を図るものだから、大枠で見るとつぎはぎだらけで、矛盾や遠回りがあちこちに生まれたりします。

そして過去の人達が先送りにした環境破壊や人口減少、空き家・土地相続などといった問題が今、降りかかっています。

すぐに話を難しくしがち

もしそこにいる人たちが、ヴィレットの外にいる人も含めて、ただ自分の人生を生きて、他の人にもただそれを許したなら、神は全ての瞬間に、マスタードの一粒にも、生まれては消えゆく雲のどの部分にも、存在することになる。

神はそこにいるのに、それでも人はまだ探し続けなければならないと信じていた。

人生はただ信じることだということを受け入れるのでは、あまりに簡単すぎてしまうから。

現代は、意味のないことが敬遠されがちです。

何にでも意味を持たせたがって、名前をつけたがって、無駄を省こうとして、逆に複雑になって本質から離れていきます。

その意味を持たせる作業こそ、特に意味もなく難解にするだけの無駄作業となってしまっているかもしれません。

よくも悪くも、アイデアというものは、誰かが実践して初めて存在し得るものだという事実を永遠に受け入れることもなく。

劇場版 踊る大捜査線で「事件は会議室で起きてるんじゃない」なんて有名なセリフがありましたが、井戸端会議や飲み会もまた然り。

どんな場所でも、当事者にも本人にも影響のない会議、雑談で盛り上がるだけの会は存在しがちです。

しかし実際にやってみて初めて、物事が繋がっていき、姿が見えてくるものではないでしょうか。

 

ただ、今あることに集中し、複雑な構造にしているものを取り除いてシンプルにしていくこと。

一つ一つクリアにしていくと、次の景色を見る余裕が出てきます。

そうやって視界を広げていくと、目の前すぎて目に入らなかったものに気づけるのではないかと感じます。

両極を知るということ

彼はルールを設定してから、罰というものを発明するためだけに、誰かにそれを破らせる方法を見つけたのだ。

『創世記』アダムとイブの禁断の果実についての捉え方の一節。

元はといえば、神から「知恵の木の果実だけは食べてはいけない」とされていながら、アダムの肋骨から生まれたイブが蛇にそそのかされて摘み取り、2人で食べてエデンから追放されるという話。

 

でも、そもそも本当にダメなことなら、なぜ神は知恵の木に何がなんでも近づけないようにしなかったのか?と問いかけます。

 

苦しみを知るから幸せが理解できます。

嫌いな存在があるから好きな存在がわかります。

間違いに気づくことで正しい道を選び直せます。

 

何かが生まれれば、もう一方で別の対極の何かが生まれます。

先日書いた「中庸」にも通ずる話な気がします。

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自分自身の人生を生きる意味を見いだす一握りの人達

長いこと忘れていた問題に苦しむことになるわ。

未払いの請求書、近所の人たちとのトラブル、わたしを理解できない人たちの皮肉っぽい目、孤独、わたしを咎める子供たちとか。でもその全てが人生の一部だと思うの。

それに、そんな小さな問題に対処するために支払う代償は、それが自分のものであることを認めない代償よりも、ずっと小さいものなの。

また生きたいって思い始めてるのよ、エドアード。

勇気がなくて犯せなかった過ちを犯してみたいのよ、またやってくるかもしれないパニックに立ち向かいながら。

その存在はたんにわたしを落ち込ませるだけで、そのために、死んだり、失神したりしないのは分かってるから。

新しい友だちを作って、賢く生きるために、どう狂えばいいのかだって教えてあげられる。

きちんとした行動のマニュアルに従うのでなく、自分の人生、欲望、冒険を発見して、"生きろ"って教えてやるの 

そうする勇気もなかった仕事もあった瞬間に、魂を人質に残してしまったの。
わたしの魂は過去にいたの。でも今はここにいるわ。もう一度自分の身体の中で、興奮に震えているのを感じるの。でもどうしていいか分からないの。

人生が、わたしを行きたくない方向へ押していってたことを理解するまでに三年もかかってしまったことしか

「でも私には今しかなくて、それもとても短いようなの」
「みんな同じよ。いつでも短いものよ」 

ベロニカの一連の騒動は、病院にいた一部の人達の心に波紋を起こします。

そしてさらにほんの一握りの人達には行動するきっかけを与え、3~4人は実際に行動を始めます。

 

今まで一体何をしていたのだろう?どれだけ時間を無駄にしてしまったのだろうと感じ、いてもたってもいられなくなります。

でもいつだって今が1番、最短です。

誰を狂人と見るか?(=正常とは何か?)

憂鬱による中毒の一番大きな問題は、嫌悪、愛、絶望、興奮、好奇心といった情熱が、自己主張しなくなることだ。しばらくすると、憂鬱になった人は全く欲望を感じなくなる。彼らは生きる意志にも死ぬ意志にも欠けていて、それが問題だった。
英雄も狂人も、危険を顧みず、人の言うことも聞かずに前へ突き進む。狂人は自殺し、英雄はある使命のために身を捧げるが、双方とも死んでしまうわけで、憂鬱に毒された人たちはたくさんの夜と昼を、不条理さと栄光について話すことになる。

もしいつか、ここから出られたら、本当に狂うことにするわ。実際、誰もが狂っていて、一番狂ってる類の人たちこそ自分が狂ってることに気づいていなくて、他人に言われたことを何度も繰り返すような人たちなのよ。

この本を読んで、誰を狂人と思うかは読む人によって変わってくると思います。

ベロニカなのか、精神病院の患者すべてなのか、精神病院そのものなのか、それとも日常に生きる普通の人達なのか、はたまた医師なのか。 

どれであっても、それが今のその人にとっての答えなのでしょう。

正解は誰にもわかりません。というか正解というのはきっと存在しないのでしょう。

人と違ってみんな…

「人と違ってみんないい」「人と違ってみんな悪い」

どう取るかはそれぞれですが、人は皆それぞれ違うというのは事実だと思います。

単にそれを認めない人がいるだけで、実際面白いくらい見た目も考え方もスキルもバラバラなわけですから。

人が自分の本質に逆らうのは、人と違ってもいいという勇気に欠けてるからで、そうしたら、器官はヴィトリオル、というか、その毒としてよりよく知られる、憂鬱を生み出すんだ

そして違うことをよしとしない考え方が長かったことから、人と違うことを悪とされやすく、勇気が必要なこととなってしまいました。

きみは人と違うのに、同じようになりたいんだ。

それは、わたしから見れば、とても深刻な病気だけどね

もし無理して自分を人と同じようにしようとするならね。それが神経症、精神病、パラノイアを引き起こすんだ。それは自然の歪みで、神の法に逆らうものだ。

私は超マイペースなのに、人に合わせようとして苦しみました。

自分は自分という考え方が安定してできるようになってきて、だいぶ楽になりました。 

ciel-myworld.hatenablog.com

※10/29追記 落合陽一さんの「みんな違ってみんなどうでもいい」もいいですね!

自分の代わりは誰にもできない

基本的に、わたしたちの人生で起きている全てのことが自分たちのせいで、誰のものでもないの。

たくさんの人が同じ困難を体験していて、みんな全く違う反応をするの。

似た悩みを抱えている方は多いと思います。

でもその解決の仕方や、解決した先は皆バラバラです。

解決しないままなことだってあります。

自分で、自分だけの答えを探っていくしかありません。

ゼドカは、ほんの少し、起こっていることを全て彼女に話そうかとも考えたが、すぐにやめた。人は教わって学ぶことなどほとんどない。ただ自分で見つけるしかないのだ。

余白って大事だなと思います。自分で考えてたどり着く部分ですね。

というか自分でしかたどり着けない部分ともいえます。

自分が本当は何を思っているのかを理解できるのは自分だけです。

それに、たとえ答えがすべて書いてあったとしても、自分に受け入れる態勢ができていないと見えません。

まずは知らないと、認識できませんから。 

ciel-myworld.hatenablog.com

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