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【おま環】生まれ育った環境の違いに改めて驚いた話と自分とは違う環境を知って考えるのに面白い本4選


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自分と違う環境を無から想像するのは中々に困難だ。しえるです。

ネットスラングで「おま環」という言葉があります。
「それお前の環境だけの話な」って意味なのですが、ほとんどの常識や価値観って「おま環」なんだなと思うこの頃です。

私の根底にあるのはその「おま環」精神で、ふだんから不知の自覚は意識しているところなのですが、それでも親戚と話していたりなどで、生まれ育った環境が違うとこんなに変わるものなんだと改めて驚かされることがありました。

ciel-myworld.hatenablog.com

【おま環】生まれ育った環境の違いに改めて驚いた話と自分とは違う環境を知って考えるのに面白い本4選

車が当たり前じゃなかった私

私はずっと南関東で生まれ育ち、生まれてからしばらくは公共の交通機関だけで過ごしてきました。

それなりに私が大きくなってから親が免許を取り、最初から家に車があった家庭とは違って車に乗る機会は限られたもので、車に興味も湧かなかったので、車に関する知識が全然なく、長いこと車は主に、親戚を訪ねた時に乗るレアな乗り物という感覚でした。

私は転職に必要で仕方なく免許を取った形で、免許を一生取らない気でいたわりには思ってたより運転は自然にできて楽しかったけど、やはり車には興味が薄く、コロナ禍もあってすっかりペーパー街道まっしぐらで、今はまた運転が怖くなってきています。苦笑

そんな私にとって、コンビニまで車でという感覚はすごく遠いところにありますね。

乗る人によって車の使い方が全然違うことを知った

大人になっていろんな人の車に乗る機会が増えて初めて、人によるシートベルトの感覚、洗車の頻度の差、車内のキレイさが全然違うことを知りました。
車に乗ると態度が変わる人も本当にいるんですね…w

私の親や親戚は皆、車をキレイに使う人たちだったので、まるで自分が車に住んでいるかのように使っていて、そこらにゴミや食べかすが落ちていたり、物がいっぱいで倉庫のようになっている普通車があることを見知ったのは結構、衝撃的なことでした。

車が身近かどうかで常識が違う

少し前、軽自動車に軽油の話題が上がった時、釈迦さんの配信で「軽自動車に軽油を入れちゃいけないのは常識だ」という話になっていましたが、私にとっても「軽自動車に軽油を入れる」という発想は浮かばなかったけど、常識だとはまったく思いませんでした。

それはやっぱり物心がついて社会を学んでいた子どもの期間に、家族の中で車に乗る人がいなくてガソリンスタンドとほぼ無縁だったからだと思いますし、身近にいなければ知る機会ないよとコメントしたら理解を示してくれました。

大人になってから車に乗る機会は増えたけど、免許を取る気がなかったから依然興味がないままでしたし、事前知識がないと、教習所の経験だけだと実際のドライブでわからないことも多くて、車種によってスイッチやレバーの形や位置が全然違うから毎回謎解きでしたし、ガソリンスタンドでどうすればいいかもわからず、親や会社の先輩に教えてもらうことばかりでした。

教習中はカギを挿し込んでエンジンをかけるタイプだったので、初めて営業車に乗ったとき、スタートボタンに驚いていたら「これが普通だよ」と笑われたものですし、車種が変わるたびに操作が変わることには本当にビックリして、なんで皆受け入れられてるんだ?って感じます。
ライトと方向指示器が左右入れ替わるとかトラップすぎるだろって思うし、1番イヤなのは給油口の開け方で、それがわからなすぎてガソリンスタンドに行きたくなかったくらいですw車種名がわからないから自力で調べるの困難すぎるんですよね…。
教習所自体はいいところだったと思いますが、今ちまたで見かけないような車で練習させられるの何なん?とはいまだに思いますw

しかも教習所で習ったことなのに「そんなんやられたらムカつくわ」と煽りだと受け取る人がいれば、「ありがとう」の意味を込めてハザードボタンを押すなどのローカルルールが出てきたりなど、教習所で覚えたことと実際が乖離していると感じることが少なくなく、車に乗る人たちの当たり前な感覚というものの横暴さを怖く感じるところもあります。
周りに運転する人がまったくいなくて、車にも興味なくて、ネットで調べたら教習所で習ってない感覚の話ばかり出てくるとしたら、なかなかエグい状況ではないでしょうか。

でも車を運転する側から見た、チャリや歩行者などの怖さというものもまたわかるようになりました。

教習所で勉強して初めて知ったことって多くて、横断歩道は歩行者優先とか知らなかったし、免許の勉強で習う内容がなんで社会の必修項目じゃないんだ?とも思います。

交通公共機関が当たり前な私

私は自分で切符を買ったこともあるけど、学生の頃から交通系ICを定期券として使っていて、交通系ICでの電車移動が基本でした。

定期を使わなくなっても、交通系ICのほうが切符より安いことのほうが多いし、いちいち切符を買うのはめんどくさいので、やはり変わらず交通系ICは利用しています。

でも親戚は車移動が基本で、大人になって初めてICアプリを入れたけど、パスワードを忘れてログアウト状態でも支障ないくらいにはほとんど使わないという話にビックリしてしまいました。

まぁそれはもちろん車という手段があるからで、私は車を調達するところからという話ではあるのですが、それだけ私にとっては交通系ICがない状態なんて考えられない話で、今も新幹線やローカル線の切符を買うくらいはあるけど、もし出かける時に忘れちゃったら焦りと戸惑いを覚えてしまうだろうなぁと思います。

何移動がメインかで違う頭の中の地図

私は免許を取った今も公共交通機関での移動が主なので、移動する時にどこの駅で何線に乗るかなどを考えます。つまり、電車の路線図を思い浮かべるということですね。

でも車の人は高速道路やバイパスなどを思い浮かべると思います。
それを見て私はいつも「道路の番号で会話が通じるのがすごいな~私にはちんぷんかんぷんだ」となってしまいますw

電車の線路と道路はルートが被らないところがあるので、お互いに「そっちだとそんな簡単に移動できるの?」というものがあったりします。

他にも地図だけじゃなく、地名の認識すら全然違いますよね。
私が自分で車に乗るようになって初めて認識した地名で「箱崎」「美女木(びじょぎ)」などがあって、都心で車に乗っているとめっちゃ使うけど、首都高乗らないと知らないですねw

車移動が主な方にとってはもしかしたら高田馬場とかなじみがないかもしれないし、たまプラーザや越谷レイクタウンが駅名だとは思わないかもしれませんw

考えてみればたしかに帰省中に見かけなかったもの

私はちっちゃい頃から1人でスーパーのエスカレーターを上がってしまって母を焦らせたことがあるくらいには、物心がつく前からエスカレーターが当たり前にある世界で生きてきました。

でも親戚は私よりずっと若いけど、大人になってからエスカレーターに乗るようになって、最近ようやく乗るのに慣れてきたところだという話を聞いて、とてもビックリしました。

たしかに考えてみると、田舎に帰った時にエスカレーターに乗った記憶がなくて、私は長期休みに過ごすくらいだったから気にしていなかったけど、ずっとそこで過ごすというのはこういうことなんだということに初めて気がつきました。

TVバラエティ番組の『探偵ナイトスクープ』で、エスカレーターに乗るのが怖い高齢の方が克服している姿は見てきましたが、若くしてエスカレーターが怖いと思う感覚が、私の発想にはなかったのです。

その親戚は運動できる人なんですけど、それでも身近になければそりゃ最初は大縄に入るタイミングがわからないような状況に陥るんだなと知りました。

親が上京してなければ、私もその親戚と同じ環境で育っていた世界線はあったわけで、身近な親戚という存在の、私とはまったく違う環境で育って大きくなった姿を見て、その差というものに改めて驚いたしだいです。

自分とは違う環境を知るのに面白い本

私が最初に「環境の違い」と「環境が変わっても同じこと」を強く感じたのは、初めて転職をした時でした。

クリエイター気質の世界に長らくいて、社会を知らないことをコンプレックスに感じて転職しましたが、実際に体験して思ったことは、どの業界に行っても、結局は自分たちのいる社会のことしか知らないのだということでした。

そしてまた、それまで子どものころからPCやガラケーに親しんできて当たり前だった私にとって、転職した先が初めて出会ったPCやスマホが使えない人が多数派な環境で、自分のデジタル対応力の価値にも気づかされました。

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環境の違いを比較することで初めてわかる、自分のいる社会の特徴や能力というのはあるもので、他の環境の存在を知ることは大切だなと常々思うし、だから自分と全く違うものこそ知ることが面白いと思います。

次では最近読んだ中で、自分の発想にはない感覚を知れて面白かった本を紹介します。

働くことの人類学

こちらとしては、「大学で教えたり、海外で調査したりすることって実務じゃないんですか?」とか「教育現場で若い学生たちと関わったり、アフリカのことに詳しくても、社会を知らないことになるんですか?」みたいな反論をしたくもなります。
柴崎よく「象牙の塔」のような言い方で、大学の人は世間知らずとか、社会を知らないと言われますよね。でも、わたしは大学を卒業して会社勤めをしたときに「会社の人も会社のことしか知らないのでは」と思ったんです。

他者と関わる過程で生じるいろんなズレを通して
自分が理解できていなかった「当たり前」を見いだしていくのが、人類学の手法なんです。

この本は読む人によって感覚が変わるかもしれないのですが、別の地域の人を知ることで新しい知見を得たり、昔のステレオタイプな日本人ってそういう考え方だったんだと知れたりしました。

タンザニアの人たちは、「どんな仕事もうまくいかなくなるときはやってくる」という構えで仕事に向き合っています。だからいい仕事に転職をしても「まあ、仕事は仕事だからね」と敢えて強いこだわりをもちすぎずに仕事をしているように思います。

でもいまは、「こういうものが欲しい」 と画像つきの写真があらかじめ送られてきて、市場に行ってその写真を見ながら注文品を探し、 「こんなのどう?」 って動画に撮って見せながら、「その右上の、それが欲しいかも」ってやり取りをするわけです(笑)。

トレバー・ノア 生まれたことが犯罪!?

白人と黒人の混血児。
あまたの法律、法令、規則に違反した僕は、生まれたこと自体が、犯罪だった。

グラミー賞授賞式の司会者などで活躍する南アフリカ出身のトレバー・ノアは、白人と黒人の間に生まれた子どもで、それがアパルトヘイトの時代だったため、異なる人種間の性的関係は犯罪とされ、誕生の瞬間から禁忌の存在となってしまいます。

厳密にはそういう子は他にも生まれてはいるのですが、罰されないよう他へ逃げるところをトレバーは混血を隠し、カラードとして地元で育った稀有な存在だったそうです。

「ノアさん、あなたは殺人罪で訴えられています。あなたは呪術を使い、デービッド・キブーカをら雷に撃たせて殺しましたね」
「証拠はあるんですか?」
「デービッド・キブーカが雷に打たれたことが証拠です。雨も降っていなかったときにです」
こうして裁判になる。

フッドで犯罪行為がまかり通っているのは、政府がしてくれないことをしているからだと僕は気づいた。犯罪が面倒を見てくれる。地域住民に根ざしているのだ。
犯罪は、支えが必要な若者を見つけて手を差し伸べてやる。犯罪には見習い期間も、夏限定の仕事もあるし、出世する機会だってある。犯罪は地域社会に関わっている。犯罪は差別をしない。

僕の犯罪行為は、海外版CDの路上販売という、ちょっとしたことからはじまった。そのこと自体が罪だったし、曲を盗用してしまったミュージシャン全員に借りがある、といまは思っている。だけどフッドの基準で言えば、違法とすら見なされなかった。当時の僕たちは誰ひとりとして、悪い事をしている自覚がなかった。CDをコピーしちゃいけないなら、なんだってCDレコーダーなんかつくるんだ?

何が犯罪となるかなどの倫理観とかって育った環境によってまったく違うんだなっていうのがよくわかります。

とられるものがあるくらい豊かな暮らしをしている人が、犯罪を頭ごなしに非難するのは簡単だ。
だけど僕がフッドで学んだのは、なにが正しくてなにが間違っているか、どういうのを犯罪と呼ぶのか、どの程度の犯罪行為なら関わるのをためらわないかは、人によってさまざまだということだ。

ピダハン

ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がないという。

ピダハンの表現は大まかに言って、情報を求めるもの(質問)、新しい情報を明言するもの(宣言)、あるいは命令のうちのどれかだ。
「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉はない。

アマゾンの一部族であるピダハンと30年ともに暮らして学んだことがまとめられた本。

気になるところを読んだだけだけど、数えたり計算したりしない、色もない、左右もない、遠い過去も未来も空想も話さないと、ふだん私たちが当たり前だと思っている概念がここにはなく、そんな世界線があるのかと価値観がひっくり返されます。

場所を示すのに地形を基準とするというのは特に新鮮で、自分と場所の位置関係で考えるから左右盲とは無縁の考え方が面白かったです。

お金のいらない国

「仕事は社会への奉仕ですから、世のため、人のため、ひいては自分のために、みんなで働かなければ世の中は回っていきません。あなたのいうお金がもらえなくてもです。そして、あなたが生活に必要なものは、お金など払わなくても社会から奉仕してもらえばいいんですよ。ここはそういうシステムになっています」

「私たちは、働けない体の人には、みんな喜んで何でも差し上げますよ。……あなたの国ではそういう人でもお金というものを持っていなければ、何も手に入れられないのですか?」
私は、自分の国では年金が……などというケチくさい話、とても言い出せなかった。なんだか自分のいた世界がとっても情けないところのように思えてきた。

お金という概念がない世界に入り込むお話なのですが、すごく本質的だし、私はこういう社会で暮らしたいです。

「私の想像では、あなたの国では、そのお金というものを動かさなければならないために、ものすごい時間と労力のロスをしている気がします。言い替えれば、不必要なもののために、無駄な仕事を増やしているということです」

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