気づけば書き始めて半年経過、重い腰を上げました。しえるです。
よく環境問題や人間関係のトラブルなどに対して「想像力を働かせよう」的な呼びかけを見かけますけど、私個人的には当事者の立場にならないと、本当の意味で当事者意識を持つことはむずかしいと感じています。
そう思うのはこれまで実際、私の何らかの意識がガツンと変わるときって、自分の身に降りかかったり、どうにかしないといけないと追い込まれて初めて行動に移すことが多かったからです。
そんな経験から「聞くより見る、見るよりやる」というように、自分の関わり具合が増えるほどに理解度は上がると思っています。
そしてそのためには何事もまず「聞く」、つまり「存在の認知」から始まる必要があるのではないでしょうか。
今回はアナウンサーの末吉里花さんによる「はじめてのエシカル」という本を読んで知ったことを通じて、自分ごととして感じたことをまとめてみました。
エシカル消費やフェアトレードの考え方は遠い国のための話だけではないと思ったことについて。 【巡り巡って自分のために】
- エシカル消費やフェアトレードの考え方は遠い国のための話だけではないと思ったことについて。 【巡り巡って自分のために】
エシカルとは?
もともと「倫理的な」 「道徳的な」という意味で、最近では「人や社会、環境を傷つけないよう配慮する考え方や行動」として使われるのが主流となっています。
自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方
「はじめてのエシカル」の著者の末吉さんは、「日立 世界ふしぎ発見!」でミステリーハンターとして世界の秘境を旅したことがきっかけで、人々の暮らしや自然が脅かされている様子を目の当たりにし、生活のあり方を徐々に変えていったそうです。
彼女の「自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方をする」という考え方にとても共感します。
紛争鉱物「3TG」と「コンフリクト・フリー」
携帯電話やパソコン、タブレット端末などの電子機器は、今や必需品となりました。
しかし実は、その中に使われている鉱物に問題が隠れています。
主なものは、スズ(Tin)、タンタル、タングステンの「3T」で、配線コードに使われるゴールドの「G」を合わせて、「3TG」と呼ばれます。
この3TGが産出されるのは、主にコンゴ、スーダン、ブルンジなど、アフリカ諸国。
多くの地域で内紛が続いています。
そこでは、武装勢力が鉱物の輸送ルートを襲って3TGを巻き上げ、自分たちで換金して武器の購入資金にしています。
武装勢力の資金源となれば、紛争を長期化させてしまうことになりかねません。
これは、私たちが携帯やパソコンを買うことで、間接的に紛争に加担してしまう可能性があるということです。
「ブラッド・ダイヤモンド」のように宝石で武器や紛争などにお金が流れているという話があるのは知っていましたが、ほかの鉱物まで考えが及んだことはありませんでした。
紛争に関わらない鉱物は「コンフリクト・フリー」と呼ばれ、ヨーロッパではそれを使ったスマートフォンが「フェア・フォン」という名前で発売されているのだそうです。
サスティナブルとは?
「地球温暖化」「資源の枯渇」といった環境問題が掲げられる昨今。
「持続可能」と訳されるサスティナブルは、そんな地球の自然環境に配慮し、維持に貢献する事業・開発・行動を指す言葉として使われるようになり、この数年で耳にする機会もだいぶ増えてきました。
最近では、2015年に国連で採択された世界全体の目標「SDGs:Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」という言葉を目にする機会も多いですね。
地球温暖化進行の加速度を知ってビックリ
たとえば「地球温暖化」は、地球全体の平均気温が上がり、氷河などが解け、生態系に影響を与えたり、災害が増えたりしていることが問題とされています。
これは二酸化炭素などの「温室効果ガス」によって引き起こされているもので、産業革命後に急増したというのはなんとなく学校で習った記憶があります。
本に書いてあって個人的に驚いたのが、100年以上かかって1度上がっていた世界の平均気温が、本が書かれた2016年前半には、たった半年で0.3度も上昇しているということ。
なんとなく年々暑くなっているなぁという体感はありましたが、数字で加速度合を見るとペースがエグイなぁと感じますし、近頃ではカナダなどでの熱波のニュースに驚かされています。
ちなみに現在見ている映画「不都合な真実」は、アメリカの元副大統領アル・ゴアが地球温暖化について訴えるドキュメンタリーで、わかりやすくて勉強になっています。
ラルクアンシエルの「SEVENTH HEAVEN」という曲は、hydeさんがこの「不都合な真実」を書籍で読んで書いた曲というのは認識していましたが、改めて考えるとよくできた歌詞だなぁ…と思いました。
溢れ出し 飲みつくす 快楽と対比する症状
転換し、この大地へと築き行こう
この瞬間にも進行 廻りまわり 色は変わり
誘惑に溺れ沈み 堂々巡り 塵も積もり
フェアトレードとは?
このチョコレートの右下にあるマークは、直訳すると「公正公平な貿易・取り引き」となるフェアトレード。
開発途上国でつくられた原料や製品を適正な価格で継続購入することで、立場の弱い生産者・労働者の生活改善し、自立を支援する取り組みのことを指しています。
環境と人権に配慮された商品を生産し、それを輸入すれば、現地の生産者に十分な利益を受け取ってもらえるというわけです。
たとえばチョコの原料となるカカオ農園や服をつくるための綿花畑などでは、100万人以上もの児童労働や農薬使用にあたっての借金・健康被害など、過酷な労働環境によるさまざまな問題を抱えているそうです。
オーガニックコットン
以前書いた遺伝子組み換え作物同様、綿花でも農薬や枯れ葉剤問題があります。
第二次世界大戦やベトナム戦争で使われた毒性の高い薬剤が使われているにもかからず、生産者は農薬の害について知らされないので、素手で農薬を扱って手の皮膚がただれる人も少なくないそうです。
また、人間だけでなく環境にも深刻な影響を与え、土地もやせていってしまいます。
そしてそのように搾取される環境でつくられた綿の服などを着用するということは、明らかに健康被害を受ける化学薬品が付着したものということで、皮膚の弱い自分としては「肌荒れの原因となりかねないものは避けたい」という気持ちに変わっていきました。
農薬を3年以上使用していない畑で作ること、化学薬品を使用せず有機肥料を使って栽培することなどの基準が定められています。
もちろん、 収穫時も枯葉剤を使わず、多くは一つずつ丁寧に摘み取られます。
現在、オーガニックコットンの作付面積は全コットンの1.1%ですが、10%に増えれば、年間274万トンもの二酸化炭素を削減できます。
オーガニックコットンというのは、生産者にも、商品の利用者にも、環境にもやさしいと言えます。
(ちなみにオーガニックに基準はありますが、日本でJAS法の認証対象となるのは「農産物、加工食品、飼料及び畜産物」のみとなっており、綿花は対象外となっているので有機JASマークがつきません。)
今はプラスチックについて学んだこともあり、新しく布類を買うときはオーガニックコットン100%のものを探すよう心がけるようになりました。
激安商品の背景にあるものは他人事じゃない
激安商品の背景には、どこかで正当な対価が支払われておらず、低賃金で長時間働かされている現実があります。
私たちは今、とても安い価格で洋服を買うことができます。
リーズナブル(reasonable)のもとになっている「reason」は「理由」や「理性」を意味します。
それでは、安い洋服のreasonとは何でしょう。ファストファッションの多くは、中国や東南アジアで作られていますが、その工場はスウェットショップ(「sweat」は「汗水たらして働く」とか「搾取する」という意味で、日本語では「搾取工場」と訳されます)と呼ばれています。
中国のある工場では、先ほどの男性が働いていたような厳しい暑さの中、一日平均11時間、働き通しだと言います。休みは、1ヵ月に1、2日だけです。またバングラデシュでは、休日もなく、朝早くから夜11時まで働かされている例もありました。
化学薬品の管理がずさんなため、皮膚がただれたり頭痛や体調不良が起きるなど、健康被害も多く報告されています。
工場では、女性や子どもたちも長時間働いています。
出産直前に休暇を願い出ても許されず、中には深夜残業を強制されていたケースもあります。そして過酷な状況で働いているにもかかわらず、賃金は、その国の中でも平均か平均以下がほとんどです。
出来高制の工場も多く、一日何時間もの時間外労働をしないと、その国の平均月収に届かないため、休日出勤や残業が日常化しています。
雇用が十分に確保されていない途上国では、いったん仕事を失うと、新たに職を得るのが大変です。また新しい農村部から都会へ出稼ぎにきた人たちが職を失えば、残してきた家族まで路頭に迷うことになります。
欠勤すればたちまち、解雇されてしまうため、どんなに体調が悪くても無理をおして働かざるを得ない人が多いと聞きます。
パワハラやセクハラも日常的に起こり、工場長や管理者に暴力をふるわれたという報告も多数あります。
洋服につけられた安い値段のreason、少しおわかりいただけたでしょうか。
原価を抑えることでしか、安い値段をつけることができません。
安い原価は、工場で働く人々の人件費を抑えているからできたことにほかならなかったのです。
これってぶっちゃけ、今の日本に当てはまる部分も大いにあると思うんです。
大規模な市場を求めて、大企業の希望を叶えるべくお金や納期について無理していたり、雇われ側の立場が弱かったり、ちょっと具合悪い程度じゃ休まない国民性だったり…。
以前の私は体調不良の休み時がよくわかりませんでしたし、実際に転職先で会社の先輩が胃痛や血尿を抱えながら、ギリギリの状態で商談に出かける姿を目にして怖くなったことも思い出します。
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フェアトレードがもたらす福利
バングラデシュ西部、インドとの国境沿いの小さな村、タナパラ村です。
タナパラ村には、残酷な歴史があります。
1970年代に勃発したパキスタンからの独立戦争で、村の男性約200人全員が殺害されたのです。終戦後、残された女性たちが自活できるよう、スウェーデンのNGOが支援に入り、スワローズが設立されました。
それ以来、彼女たちが持つ刺繡の技術を生かして、衣料品を生産しています。
実際に訪れてみると、工房は風通しがよく光も十分に入り、居心地のいい空間でした。
その中で、女性たちが糸巻きや機織り、刺繍、縫製とさまざまなセクションに分かれて働いていました。同じバングラデシュでも、一般的な工場で働こうとすると、都市部に出稼ぎに行かなければなりません。
しかし、タナパラ村では雇用があるため、親子一緒に生活できます。
おまけに、工房の横に保育園や小学校が併設されていて、小学校は村の子どもなら誰でも通学でき、すべて無料です。
フェアトレード団体というのは、このスワローズのように売上金によって、雇用と生活の保障、地元でのよい職場環境、子どもたちの教育といった手厚い福利厚生を整えているのだそうです。
五方よしの理念
生産者が品質のよいものをつくり続けていくために、差別や強制労働のない安全な労働環境や生活水準を保証し、また自然環境にもやさしく配慮することで持続可能な取り引きサイクルをつくろうとするフェアトレード。
近江商人の心得でもある「買い手によし、売り手によし、世間によし」の「三方よし」に「作り手によし、地球環境によし」も加えた「五方よし」をめざすフェアトレードは、より多くの人に幸せをもたらす理念と言えます。
エシカル消費は巡り巡って自分のために繋がると思う話。
先述のエシカル消費やフェアトレードの精神は、この先とても大事になってくるものだと感じます。
というのも、これって遠い国の話だけじゃなく、ゆくゆくは自分のために繋がる話だと思うんです。
支払うお金は上がるかもしれないけど…
フェアトレード品は割高だという声も聞きます。
しかし価格には、生産者の賃金だけでなく、彼らが暮らす上で不可欠なインフラや教育のための資金も含まれています。
それは、生産者の学校や地域コミュニティ全体のメリットとなる活動への資金となります。
たしかにそういった商品の価格は上がるので、出費はかさみます。
しかしそれは、先ほど紹介したように働く人たちの生活を保障しているからなわけです。
つまり、生産する人々の生活が保障されるために必要な、本来の適正価格ということになります。
もちろん余裕がないのに無理して買う必要はありませんし、自分の財政状況に見合ったお買い物という考え方は大事だと思います。
ただ、自分が安いものを買いたいって思えば思うほど、人や環境を消耗させる会社が儲かるということです。
その適正価格を支払えるのに避けるというのは、適正な報酬を得られない社会に自分の力を分け与えているとも言えるのではないでしょうか。
何を基準に考えているかの違い
ここで自分ごととして考えてみます。
高いなぁと思うフェアトレード品などの価格は、自分の生活が保障されるのに必要な金額であり、激安価格というのは関わる人々の金銭面、健康面、精神面などいずれかの何かしらを削っているわけで、もしかしたら削られているのは自分かもしれないということです。
消費者は使えるお金が限られているから、安いものを買おうとします。
会社は高いと多くの人に買ってもらえないから、価格を抑えようと利益や原価を削ります。
原価というものには、自分を含めた働く人々の人件費も含まれます。
家庭を支えることも、事業を継続することも、どちらもお金がかかるものですし、入ってくるお金には限りがあります。
これはどちらも「高いものを買うこと」「値段を上げること」が怖くて踏み出せず、お互いを削り合っている状況といえるのではないでしょうか。
そしてこの両者の奥底にあるものは、お金に対する不安です。
「いつもと金額を変えてみたとき、次のお金が入ってこなかったらどうしよう…。」
現状維持が続く背景ではきっと、そんな漠然とした不安が基準になっているのではないかと思います。
それに対し、先程のフェアトレード団体の取り組みを見てみると、ここで基準となるのはまず人々が安心して生活できるということ。
そしてその生産者の生活や事業に使う環境を維持するために必要なお金を原価として組み込んだ売価が設定されています。
- 働く人々や会社の生活の安定
- そのために必要な売価を設定する
- 考え方に賛同した人がお金を払って購入する
優先順位で最も高い位置にあるのが、働く自分たちの生活の安定なのです。
今は一部の取り組みなので高いと感じるかもしれませんが、もし社会全体が「働く人々や会社の生活の安定」基準となったらいいなぁって思いませんか?
それに売価を上げるということは、今後どちらにしろ必要になってくるはずだと思うんです。
現在の状況って人口と消費は減少傾向で、最低賃金や原料費は上昇していっていますよね。
ということは収入は減っているのに、支出が増えていっている状態です。
そして人口はまだまだ減るので、今後は薄利多売が通用しなくなるはず。
人数的に今ほどの多売ができなくなりますからね。
であれば社会の仕組みが変わらないかぎりは、同じ額を得るために価格を上げるというのは必要になってくる気がします。
1,000人(人が多い)×100円(安価)=100,000円
↓
100人(人の減少)×1,000円(高価)=100,000円
これはわかりやすくするための極端な例ですが、この考えにシフトはせざるを得ないのではないでしょうか。
自分が働く会社や取引先はどうか?
これは消費の視点だけでなく、自分が働く環境という視点でも同じだと思います。
私は実際にブラック企業や過酷な環境の工場で働きましたし、原料の値上がりで逼迫しているのに、値上げになかなか同意してもらえず苦労したこともありました。
真夏に冷房のない閉め切られた工場でふりかけを詰めていたときは意識がもうろうとしていましたし、飲食店では社長の一存でさらっと深夜手当をなかったことにもされました。
工場の現場は日雇いのバイトで当時の最低賃金でしたし、飲食店ではただの正社員だったのに業務の違う管理職を任され、最終的には不当な賃金ダウンを提示されました。(お陰で失業手当をもらえましたが。)
自分の生活を保障してくれるわけでもなく、むしろ健康面や精神面を削るような会社に自分の労働力を捧げるのはあまりに不健全ではないでしょうか。
これはいくらで仕事を引き受けるかというのにも重要と言えます。
たとえばクラウドソーシングでよく見かける数字ですが、ライターで言ったら0.1円/文字とかめっちゃ安すぎると思うんです。
この記事で1.5万文字近くなのですが、本を読んで、これだけの量を書いて、ファクトチェックして…という作業が1,500円って、時給に換算したら相当安すぎると思うんですね。
相手の企業はその記事でお金を稼ぐのに自分はそれっきりだなんて、まったく労力に見合っていません。
また、私は校正のお仕事をさせてもらっていますが、仕事管理表には時給換算の額を記載し、文字量や必要な校正のレベルで金額に合わない内容の記事は請けないように心がけています。
買う人がいるからあこぎな商売が成り立ってしまうのと同様、引き受ける人がいるから劣悪な相場環境がまかり通ってしまう側面はあると感じますので、探すのが大変でも対等なお仕事ができる相手を見つけるというのは大切だし、そこに力を入れる価値はある気がします。
自分にできることを考えてみる
過剰生産とか、安いものを買いたいという節約安定志向の気持ちとか、そういった考え方になってしまうのは、社会の仕組みによるところが大きいと思います。
ぶっちゃけ私が生まれた時にはすでに、日本の著しい経済成長というのは止まってずっと不景気でしたし、社会が経済で成り立つような設計になっているものですから、そこはどんなに嘆いたところでどうにかなるものではありません。
それでも今の行動しだいで未来は変えられる可能性があるわけですから、今ある社会の中で、自分ができることをしていくしかないと思います。
【バイコット・ミーニングアウト】どこにお金をかけるのかを意識する
問題のある商品を買わないことで企業に働きかける運動を、不買(ボイコット)運動と言います。
でも、「バイコット」つまり、買って応援したり意思表示したりすることが、エシカルの神髄だと私は思っています。
私たちは日々、何らかの買い物をせざるを得ないのですから。
以前、本当に動物のことを考えるなら不買運動よりも、より動物のことを考えている農家さんにお金をかける方がよいのでは?という記事を書いたことがあります。
これはどうやらエシカル消費の考え方の基本だったようです。
価格の背景にあるものを知ろうとしてみる
生産者や作られた環境に思いを向けながら、「今私にできることで、最善の選択は何かな?」と考えてみることはできます。
環境倫理学で有名な加藤尚武さんは、「倫理的であるとは、与えられた条件の中で可能な行為の中から最善なものを選択する態度」であると言います。
自分に無理のない範囲で、等身大のエシカルライフを続ければいい、私もそう思います。
商品の価格というのは基本的に、原材料代や製造費・人件費など、つくるのにかかる費用をもとに算出されます。
価格設定に納得のいかない高いものにわざわざ自分のお金を使う必要ないと思っていて、たとえば私は、高級化粧品のように広告費やパッケージ費用が多くを占めている商品にお金をかけることはありません。
ただ世の中にある商品の背景には、人の想いや製造上のこだわりなどの詰まった、誇りと情熱をもってつくられた商品というのも多く存在しており、高級品のすべてがお金持ちの道楽とか、表面的に着飾る見栄的なものと判断してしまうのは少し短絡的ではないかとも感じます。
私はNHKで放送されていた「世界はほしいモノにあふれてる」という番組が、各国に飛び回って買いつけしているバイヤーさんの情熱やこだわり、商品や文化の魅力などを感じることができて好きでした。
大量生産大量消費のモノはつまらない。
ぬくもりがあるモノがもっとあってほしいな。
減ってほしいモノはごみとなるモノ。
モロッコに行って感じました。
モロッコの南の方に行くと、遊牧民とかミニマルな生活をしている人たちがいる。
彼らは貧しいわけではない。お金も家畜も持っている。
だけど、あのミニマルな生活が好きだからやっている。
必要なモノだけを大事に持って生きている。いいなあと思います。
モロッコ雑貨を扱う大原真樹さんのご意見に共感します。
おびただしいモノと情報があふれる中、何を選んで、どう組み合わせ日々を愉しむか。
北欧の国々は、元々それほど資源に恵まれているわけではありませんでした。
裕福ではないぶん、人々はふだんの暮らしや日常で使うモノを大事にしてきた。
機能面でも意匠面でも、モノがきちんとデザインされていれば、使い勝手がよくなるし、愛着も持てる。
長く使いつづけられるように、シンプルでメンテナンスしやすいものも多い。
そんな背景があります。
北欧家具を取り扱うイデーの大島忠智さんは、年月を経たからこそ味わいが増すとして、経年変化を「経年美化」と呼び、ただ単に「モノを売る」だけで終わらせないために「大切に愛着を持って使いつづけることの素晴らしさ」を伝えることを意識しているそうです。
産業革命で工業化が進み、粗悪で画一的な大量生産品に溢れていた19世紀のイギリスでは、伝統的職人の手仕事の復興や産業デザインの改良によって生活の質の向上を目指そうとする「アーツ・アンド・クラフツ運動」が興ったそうです。
以前紹介した「アーツ・アンド・クラフツ運動」と似た理念ですね。
そして商品というのはどんなものであっても少なからず、商品企画立ち上げに奔走した会社や人々がおり、デザイナーがデザインしているわけですから、商品価格には実際の製造費以外に、その人件費やデザイン費用といったものも含まれているはずです。
その製品化の過程では、サンプルをつくっては修正し、改良を重ねたりといった試行錯誤もあったことでしょうし、そのサンプル製造だってタダではありません。
しかし流行りのものやデザインを模倣して、安価で売り出すビジネスというのは、人気なものを安く買えてうれしいかもしれないですが、そういった人々の努力をないがしろにし、誰かのデザインをふわっと横取りしたことで原価を抑えているとも捉えられます。
(実際、百均商品の提案を打診されたとき、商品を扱ってもらうために、ただただメーカーが原価を抑える努力をするしかないのかな…と個人的に感じたこともあります。)
ハイブランドのパチモンは避けるのに、それ以外のブランドのパチモンになると「安く買えて嬉しい!」に変わってしまうのは、ちょっと違うのではないかと思うのです。
健全な競合というものは、その商品から着想を得て別の機能を付加してみたり、より収納がしやすいように折りたたむなど構造を変えてみたりと、その企業ならではのオリジナリティ要素で勝負するものではないでしょうか。
最初に書いた「自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方」という軸に沿って、わかる範囲でなるべく、価値を感じたオリジナル元や工夫のアイデアにお金を落とすようにするという選択をしたいと考えています。
他者の思惑に振り回されない
現在、世の中が資本主義(ビジネス)で形成されているということは、自分が「したいなぁ、欲しいなぁ」と思うことの裏には多かれ少なかれ、そう思わせようとする何かしらの意図があるということになります。
「自分のここがダメかもしれない」
「これを持っていないと自分の価値を証明できない」
「まだ持っていないの?」
承認欲求やコンプレックスを刺激されて、「今のままの自分じゃダメだ」といろいろ買ってきましたが、そうやって買ったものの多くは買っただけで満足してしまい、ちょっと試したら放置を繰り返し、結局はいらない物でしかなく、だいたい処分してしまいました。
「必要なのは物じゃないんだ」という学びは得られましたけどね。
https://twitter.com/etomiho/status/1395374570694053894
日本人は1年間に10kgの衣類を買い、9kg処分しているという統計もあるのだそうです。
たとえばファッション業界では、服が大量生産・大量廃棄されているという問題も有しています。
流行のファッションや自慢できる憧れのブランド品、何かある度に記念発売されるライブ・スポーツのアパレルノベルティや後を絶たない有名人のアパレルブランドなど、幅広い層で必要以上に服が売られ、そして買いやすい状況があると思うんです。
実際に自分もセールですぐにへたったり飽きたりするような服を買ってしまったり、レプリカユニフォームやタオルマフラーだらけになっていたこともありました。
買ったけど着ない服がクローゼットに眠っているのはよくある話ですし、何かしらの大会の度に優勝する裏側では、日の目を浴びずに終わる準優勝チームの幻のTシャツが大量に処分されたりもあったことでしょう。
ファストファッション人気やファッションの多様化で廃棄サイクルは大変なことになっているだろうし、これは買う側・生産側ともに抱えている問題と言えますね。
個人的に思うのは、現在の資本主義というビジネスで成り立っている世界では、企業は利潤を得ようとあの手この手で追求するものですから、余計なものを作るなというのは限界がある気もします。
「脱プラ」がこれだけ謳われながら、その隣ではアクリルスタンドをガンガン売り出すの意味わからないなとか思いながら見ていますけど、買う人がそれだけいるわけですし、どうしようもありません。
過剰な生産を防ぐには消費者が買わないことで、「それはいらないよ」という姿勢を見せることが最も効果が高いはず。
しかも他者の思惑に振り回されなくなると、自然と財布のヒモは適切に締められるようになるので一石二鳥です。
本当に価値を感じたらお金を使う
お財布のヒモを締めるというのは、すべてに対してという話ではありません。
必要な所にはお金をかけて、いらない所には使わないということです。
そして、「安いから買う」「流行っているから買う」ではなく、「自分が必要だと思うからお金を使う」「相手の理念を支援する」の意志が重要です。
たとえば、私は今年「パルシステムでんき」に切り替えました。
再生可能エネルギーへ転換していこうという理念や実行力に賛同したからです。
これまでの電気代と変わらず、支援できるならよいかなって思いました。
また、現時点ではお金を使う仕組みが構築しきれていないという側面もあります。
皆がクラウドファンディングとか新しい仕組みを自在に使えるわけじゃないですし、今はオタク文化が浸透しているので、推しへの支援という考え方は大きくなっていますが、それと同じくらい無料でなんでも使えるという感覚も強いと感じます。
このブログも含め、世の中では無料で楽しめるものが多いかもしれませんが、それらもお金や時間をかけてつくられています。
ライブ配信業界では投げ銭が日常茶飯事ですが、その他の分野はまだまだ発展途上という感覚があります。
コンテンツへの対価を極力避けたい人が多数派を占めるのには違いないものの、支払いを嫌う人ばかりではないのも事実。
むしろコンテンツの対価問題は、支払いのためのハードルをいかに下げていくか、それこそ言葉通り投げ銭やおひねり、チップ感覚で出来るようにするか、仕組み側の整備の問題なのかもしれない。
こちらは2014年の記事ですが、まさにこのことですね。
たとえばnoteは「サポート」という投げ銭機能でライターを支援する文化があります。
自分はnoteが使いにくかったのでこのはてなブログを中心に活動していますが、はてなブログ自体には投げ銭機能がありません。
OFUSE™(オフセ)はクリエイターへの「ありがとう」の気持ちを
1文字2円で送れるファンレターサービスです。
しかし、アフィリエイトリンクを経由して購入するのも1つの支援の形ですし、OFUSEのようにクリエイターにファンレターという形で投げ銭できるサービスも存在します。
(こっそりサイドに貼ってそのうち記事に書こうと考えながら時間だけが過ぎていっていますが…いつか書きます。苦笑)
www.youtube.com(9:25ごろ~)
東海オンエアの虫眼鏡くんの動画の中での議題はAVですが、こちらでも「好きなものには金を使おう」というお話をしていて共感しかありません。
世界が便利になりすぎて無料で楽しめるものが増えてしまった弊害だよね
推しへの支援と同じくらい、無料で使うのが当たり前となってしまい、何がなんでも無料にこだわる人もいるかもしれません。
これは飲食店の砂糖をごっそり持ち帰ったりするのと似たようなレベルではないでしょうか。
僕だったら、変態やんって言われたら、でもお前犯罪者やんって言うもんな
金払わずに見てるんだもんね
東海オンエアにはファンザなどエロ動画サイト事情もずいぶん教えてもらいましたが、たしかになーって思っちゃいました。
違法かどうかはさておき、無料サイトもメーカーがなかったら存在できませんからね。
ないと困るものにはお金を使っていかないと、いなくなって困るのは自分になっちゃいそうです。
お金の使い方にメリハリを
何かを買う時に、一息おいて、「ちょっと待って」と自分に問いかけてみることもとても大切です。
「なぜこれを買うの?」「本当に必要かな?」「この商品は、どんな環境で作られたんだろう?」と。
それが、「エシカル」の第一歩です。
社会の変化のスピードが速いとはいえ、現状というものはすぐには変わらないですし、今の所持金というのも決まっています。
となれば全部にこだわってお金を出していたらお金が足りなくなってしまうでしょう。
だから図書館などの公共施設や無料アプリを利用したりもしますし、自分の物欲や所持品、どこにお金をかけるかについて適宜見直したりします。
昔は捨てられない人で物に囲まれていた私ですが、所有物を減らしていくうちに物を買う基準がどんどん変わっていきました。
手放す時や管理の手間を考えると、必然的に「買う」という行為に対してのハードルが上がるし、オタクグッズとかもほとんど買わなくなりますね。
今の私は「自分の快適につながるもの」にお金をかけることを意識しています。
たとえば昔は真っ先に食費を削ろうと考えていたものですが、私はおいしいものを食べることが好きだし、自分の健康を大事にしているので食費は惜しまないという方向にシフトしました。
その代わりに病院や薬のお世話になる機会が激減しています。
以前は逆流性食道炎や自律神経失調症と思われる症状が多発していましたが、最近は発症した記憶がありません。
「自分の快楽」ではなく「自分の快適」のために何かを買うようになって、自分の体にいいものに意識がいくようになると、そういった商品はいい環境でつくられるものだという発見もありました。
競争より協力した方がよいのでは?
以前、乱立文化についてぼやいてみましたが、需要のパイがそれなりに決まっているものの価格を下げて、お客さんを取り合う文化というものは消耗戦にしかなりません。
最低賃金引き上げに経営者悲鳴というニュースもありましたが、入ってくるお金は下がって雇用のお金が上がる一方だったら、それは遅かれ早かれ限界が来るよなって話だと思うんです。
商品は健全に競合して、共通の悩みは皆で手を取り合って取り組んで解決した方が、全体の原価を抑えることができますし、横のつながり*1を強くして利便性を上げることで業界全体の価値を上げて、伸びしろをつくることができるのではないでしょうか。
ただ自分のためでいいんじゃないかと思いました
世のため人のための精神はたいへん素晴らしいものだとは思います。
しかし私は、そんな他人や環境のことを考えるほど、できた人じゃありません。
いつだって自分のことでいっぱいですし、手を伸ばしても身のまわりの人たちまでが限界です。
それでも実は、自分のために気を配るだけで十分なのではないかと思うこの頃。
自分が適正な報酬を得たいから、相手にも適正な金額を支払う。
自分の身体に害を与えたくないから、農薬や有害物質と無縁なものを選ぶ。
自分が搾取されたくないから、誰かを搾取する人や企業にお金や労力を渡さない。
この記事も突き詰めれば、自分が生きやすい世界になってほしいから、「こういった考え方が広まったほうがみんなが生きやすくなりませんか?」という意味も込めて、自分のために書いています。
こんな風にひたすら自分のためでも、結果的には他者や環境を大切にすることにつながっているのです。
そんな気づきを経て、「自分のために」という考え方が私にとっては、とてもしっくり来るなぁと思うようになりました。
むしろ世のため人のために気を配りすぎて、自分や周りの人たちが壊れてしまっては本末転倒というものです。
「サスティナブル疲れ」なんて言葉を見かけたりもしますが、疲れてしまうのは全然サスティナブルじゃありません。
ギルトフリーも1つの「自分のため」
最近は「罪悪感のない」という意味を持つ「ギルトフリー」って言葉が使われることが増えてきています。
「太りたくない、でも食べたい」という望みが高まっており、砂糖不使用や糖質オフなどで「食べても罪悪感が軽減される」という商品が人気のようですが、この「ギルトフリー」はもう1つ、動物性の素材を使わないという意味も持っています。
つまりは動物の命をいただくという罪悪感を軽減するためにビーガンになるというような思想のことですね。
個人的に動物のため、環境のため、祖先はどうこうと言ってビーガンを推奨する考え方には矛盾を感じるので疑問を持っていますが、「罪悪感を感じたくない」という自分のためであれば理解できるなぁと思うし、むしろそれでいいんじゃないかなって思っちゃいました。
参考文献
今週のお題「読書の秋」