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【不知の自覚】知らないことを「知らない」ってこういうことかと思った話。


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言葉のニュアンスの理解って大事。しえるです。

どんなニュアンスでも1つの同じ言葉に集約されてしまったりするのは誤解が生まれやすいところではありますが、「知らない」にも種類はあって、「不知の自覚」と「無知の知」は別物だなということを体感した気がするので書いてみたいと思います。

【不知の自覚】知らないことを「知らない」ってこういうことかと思った話。

インターネットはありました

今はインターネットが普及してすっかり当たり前の存在になって、利用者の層もずいぶんと広がりました。

海外ドラマ『クリミナルマインド』の天才ハッカーすぎてFBIに転身したペネロープ・ガルシア最強じゃんとずっと憧れながら生きてきたくらいなので、私自身ネットリテラシーが高いとは思っていないのですが、それでもこれまでにいろいろ失敗したりしながら学んできたことを、この10年とかで触れるようになった大人や子どもは遅れて学んでいるんだなと感じることがあるし、同世代ですらネットに対する感覚は人によって全然違うんだろうなと感じることも多々あります。

そして多分この差から来るものなのでしょうが、たまに「ネットがなかった時代」「ネットがなかったから」といった言い回しを見かけることがあります。

私はパソコン通信は触ったことがないのですが、少なくとも2000年7月に発売された当時スクウェアRPGFINAL FANTASY IXファイナルファンタジー9)』は公式サイトをチェックして壁紙をダウンロードしたりしていましたし(PlayOnline.com懐かしいですね)、その後も自分のホームページを作っていたし、サイトの交流を通じて知り合った友人とメールや手紙のやりとりもしていました。

子どものころから画像編集ソフトでドット絵スタンプを作ったり、PC上で観賞魚を飼育する『AQUAZONEアクアゾーン)』でネオンテトラにエサをあげたりして遊んでいたくらいなので、インターネットに触れるのは自然の流れで、電子メールにポストペットを使ったり、アスキーアート(AA)やFlashを楽しんだり、写メールの頃からペットの写真を撮りまくって親バカと言われたりしながら育った、いわゆる「インターネット老人会」の話題はどちらかと言えばわかりみしかない人です。
それはもうひと通り遊んできたから、今はもうスマホで何かを育てる気がないし、ただのネットでの交流に重きを置いていないし、散々待ち受けや壁紙などをDLしてきたからNFTなどのデータ所有に興味が湧かないしで、結局続いたのは写真を撮ることで、インスタで10年超、Flickrが8年くらい、トータルの歴で言えば1番長いブログは間を空けて戻ってきたという感じですね。

そんなネット歴20年以上の私からすると、たしかにネットがすべてではなかったけど、稀に見かける「ネットがなかった」という表現にはすっごい違和感しかないんですよね。

「知らなかった」じゃなくて「なかった」。
「やってなかった」じゃなくて「なかった」。
明らかに私がネットに触れていた頃の話題でも、ただ、自分がその世界を知らなかっただけなのになかったことにされてしまう。実際あったのに。
私は子どもの頃からネットで友達できてたし、コミケの参加情報もネットで知っていたのに、その人の中でないものは全体に「なかった」となる。

些細なことかもしれないけど、「知らない」ことってこんな簡単に、たった一言で片づけられてしまうんだなって思ったんです。

そして「知らない」ことに無自覚ってこういうことなのかとも思いました。

100%の「知らない」は「ない」なんですね。わかっているようでわかっていなかったかもしれません。

身近な「不知の自覚」「無知の知」「不知」

たとえば仕事や面接などでよくある話で「Excelできる?」という質問があります。
私はこれをとても難しい質問だと思います。
この質問だと、どのレベルを求められているのかがわからないからです。

計算や抽出などめんどくさいことは全部Excelにさせるし、簡単な関数も覚えてるけど、あまり使わない機能は何か見なきゃじゃないとできないし、VBAのプログラミングは触ったことがありません。多分一切認識していない機能もあるんだろうなと思います。
でもなぜか、Excelを開(ひら)けるだけで、計算含めて全部手作業・手入力しているような人が「できる!」と言ったりすることもあります。

この場合、自分にできることの限界を知っている私のほうが、「できる」と言った機能を知らない人よりもExcelができますが、たとえできることが同レベルだったとしても「具体的に何ができないかを把握している人」より私はExcelができません。

【不知】①(物事を)知らないこと。②知ることができないこと。
【無知】知識のないこと。また、知恵がないこと。
【未知】まだ知らないこと。まだ知られていないこと。

学研 現代新国語辞典改訂第5版

私が見た辞書にはこう載っていたのですが、知らないから知れないのが「不知」、存在を認識しているけど詳しくはわからないのが「無知」「未知」に分かれることになると思います。

となると、これまで「無知の知」と「不知の自覚」って同じようなものだと思っていたけど、似て非なるものなんだなと思い至りました。

推測するに、なんらかの知識が欠けていることを認識しているのは「無知の知」。
その中で具体的な関数名など何を知らないかを知らないのは「未知」。
VBAなど具体的なものに対して知識がないというのは、VBAの存在を知らないと言えないので「不知の自覚」。
そもそも関数やオートフィルなど便利な機能の存在を知らないのは「不知」。
Excelって何ですか?」は「不知」と見せかけて「不知の自覚」の瞬間。
Excelができないと答える人は「無知の知」と解釈できるのではないかと思います。
こう考えると「無知の知」を経ないと「無知」だとはわからないものですね。

便利な機能も存在を知らなければ、それはその人の中で「ない」ものなので、だからこそExcelに数字さえ打てれば「できる」と言えてしまうものなのかもしれません。
なんと言ったって「できない」ことを知らないのだから。

私はMOUSの試験勉強や実際に業務で必要になったことしか使ってこなかったから、どんな機能の存在を知らないのかを知らないままにしてきました。
だから何かやりたいことがあった時、自分はどんな機能があるかわからない中、手探りで調べていくしかないのですが、自分がどれだけ勉強してきたかの範囲を把握している人は、まだ勉強前だったとしても「あの機能が使えそうだな」と目星をつけて取り組むことができるだろうから、私よりレベルが一段高いことになると思います。

そしてできないことがあると知っている人は「相手は何をもってできると考えているのか?」を探りたくなると思います。それによって仕事の難易度や自分に対応できるかが変わってきますからね。
まぁ中にはできないことは調べながらやればいいと思う人もいるでしょうが、何ができて何ができないかをわかっている人の方がより建設的な会話はできるでしょうし、お互いがそうであれば最も話は早く済むでしょう。
何か物事を「できない」と判断する話は予算や納期、人材など限られたリソースや条件の中でできることとできないことがわかっているから目星をつけて話している場合もあれば、ただ「知らない」から決めつけてしまっている場合もあることでしょう。
知れば知るほど精度の高い話ができるようになっていきますが、人それぞれには優先順位というものがありますし、だからこそ専門家がいてお世話になったりするものですね。

ちなみに「不知の自覚」や「無知の知」という言葉を出しましたが、私はここまで名前を出さなかったようにソクラテスについては全然知らないし、著述がないから本人の考えは知る由がないし、というか彼がどう考えていたかなんてどうでもよくて、ただ自分なりに言葉を咀嚼(そしゃく)してみているだけにすぎません。

認識しないと存在が見えない

自分がふだん気軽に「知らない」と言ってしまうことは、何かしらを知ってる状態だから「知らない」と言えるものな気がします。

  • 隣にいる人が知らない人だと知っている。
  • 外国の人がどんな生活をしているかは知らないけど、その国に人が暮らしていることは知っている。
  • 自分が興味のない話題であることを知っている。
  • 目の前に見たことのないものが存在している。

このように対象となる存在を認識してから「知らない」と反応するので、「不知」ではなく「無知」や「未知」の話題となります。

何事もその存在に気づかないと認識することはできず、それが「不知の自覚」ではありますが、自分が気づいた瞬間にそれは「不知」から「未知」「無知」のものに変わるので、自分の「不知」は過去にしか捉えられなくて、ということは、知らないもの(不知)を「知らない」と自発的に言うことは実は難しい話だと考えられそうです。
受動的なら起こる話だし、他人の「不知」だったら冒頭のネットの話のように見えるんですけどね。

だからこそ「不知の自覚」と言われるよう、自分が知らないことを自覚することは知性の第一歩と言われるのでしょう。「不知の自覚」によって自分の中で新しく1つの分野が開けますから。

赤ちゃんはその「不知の知覚」の連続で、常に「何これー!!」状態だと思うのですが、成長するにつれてなんでも吸収とはいかなくなってきますし、自分の価値観や興味によって知らないことを知る価値の優劣が生まれ、自分にとってティアの低いものは知らないまま放置されるようになっていきます。

youtu.be

2019年までは太陽系以外の恒星の周りを惑星が回っているかどうかはわからなかったそうですが、4日という想定よりもだいぶ短い周期で回っていることがわかってからは、次々と惑星の存在を発見できたのだそうです。

この太陽系の常識が当てはまらない「未知」だった法則に気づけたことで、わからなかったものが見えるようになっていったように、1つの物事で捉え方が変わって、世界が一変して見えるようになることは結構あることだと思います。

でも「未知」だと解明しようという動きが生まれやすいですが、「不知」は自分にとって「ない」ものだから、余程意識をしない限りは、何かをしようという発想が生まれないのは仕方がなさそうです。

また同じ「未知」でも、たとえば自分と同じ人間だと「知っている」と思い込みやすい側面はありがちですし、1度「知っている」と思い込んだものの中の「知らない(不知)」側面には目を向けにくいものである気がします。

現代には約80億人とたくさんの人が暮らしていますが、まぁ大半の何十億人の人たちのことはよく知らない「未知」の相手になることと思います。
いろんな人がいるだろうということがわかっていたとしても、自分を通してでしか相手のことを知ることができず、となると自分の知っている範囲でしか見たり考えたりすることができません。
だから自分の「不知」の部分が視界に入らなかったり、「相手もこう考えるだろう」と自分のふだんの考えを当てはめてしまったりといったことも起こります。

それは考えの良し悪しは関係なく、たとえば「人を自分と同じ人間と見たことがない」人にとっては相手を思いやるという感覚がわからないだろうし、相手の感情や生死などの状態に関心を持たないかもしれません。
逆に「人を自分と同じ人間と見たことしかない」人にとっては、人を物のように扱い、ないがしろにできる気持ちがわからず「なぜこんなことをするの?」と責めるしかできないでしょう。
だからこそ、日々のコミュニケーションや本・映画・ゲーム・ドラマ・舞台・ネットなどで自分と違う考えの人を見る機会というのは、そういう考え方もあるのだと知る貴重なものともなります。

「知らない」を自発的に言うのは難しくても、読書や勉強など自発的に知らないものを知れるかもしれない機会をつくろうと試みることはできるってことですね。

が、人が簡単に「なかった」と言ってしまうように、私が具体的にExcelで「何ができないか」を言えないように、1度知ったものは多くを知った気になってしまうように、知らなくても生きていけるからこそ、知らないことを自覚するのは難しいんだなと思いました。

全部知るのは無理w

こうやって何かを知れば知るほど、知らない何かが芋づる式で大量に出てきて、隣り合う分野にも同じような途方もない未知の世界が広がっていて、それらがたった1分野にしかすぎない…と自分の無知さがえげつないことに気づいていくものなのではないでしょうか。

だから道を究めたり、いろいろな業界を渡り歩いている人ほど他者へのリスペクトがあるし、謙虚な方が多いのかなって思います。

何かを知ることで自分が知らない世界を知ることはできますが、私は今、自分が何を知らないのかを知りません。

以前ラベリングが苦手という話で「知れば知るほど森羅万象は連鎖して繋がっていると痛感する」と書きましたが、全部どこかで関連性があると感じるから分類が難しいと思うのは、自分が知らないことがいっぱいあるだろうに、自分のちっちゃな視野で分類したところで限界があって、手に負えない気がするからなのかもしれません。

ciel-myworld.hatenablog.com

私は知らないことが数えきれないくらいいっぱいあるんだろうということは想像できるけど、その1つ1つを「知らない」と知っていくのはまぁ無理だろうなって思いますし、知ろうとしてもパンクしてしまうだろうと感じます。

知識で考えると途方もないですが、人で考えればもう少し想像はつきやすいかもしれません。

今の時代、それぞれの家庭のあり方やジェンダー観の存在だけでなく、1つのコンテンツに関わる集団の解像度なども高まっており、トレカやグッズなどそれぞれのデザイナーさん、オーケストラやバックコーラスの1人1人、作曲家や作詞家だけでなく編曲家や振付師、プロデューサーやディレクターなど1人1人の顔や名前が見えて、「いろんな人がいる」と存在を感じやすくなった結果、コンプラだのポリコレだの感謝だの配慮だらけで雁字搦め(がんじがらめ)になっている側面があるように感じます。

でも正直、80億人を超える人々が世界中に暮らしていて、そりゃ理解できるならするに越したことはないかもしれないですけど、その1人1人の個性や社会上の役割を把握するなんて不可能ですし、見えすぎてもキャパオーバーで溺れてしまいます。
まぁそもそも自分のことを理解するのだって難しいのに、他人を理解するなんて土台無理な話だとは思いますけどね。

人だけでもこんな風に感じるものですが、世の中には他にも社会とか歴史とか生活とか、何にだって知識が伴ってくるものです。

知らないことは「ない」となってしまう、でも全部を知るのも無理。
「不知」というのはその人にとって1つの界隈がまるっとない状態であるからこそ、ただ「自分には知らないことがあるんだろうな」という、ほどほどの「無知の知」の感覚や余白とそれに対するリスペクトが大切なのではないかと、今回これを書いていて思いました。

知らないことを笑うのは知らない人

知らないことを笑う人や嘆く人は一定数いますが、先に書いたように全部を知るなんて到底無理な話で、むしろ知らないのが当たり前くらいでちょうどいい気がします。

不知の自覚をすればするだけ、知らない世界の重みを感じることが増えていくわけですが、知らないことを知らなければ重みもないので、世界は狭くて軽いものになるでしょう。
風船1つが1つの界隈だとして、人によって知っている界隈も数も違うだろうし、その1つ1つに対してどれだけ中を覗いて吸収したかも変わってきます。
これはきっと知識だけに限った話じゃなくて、人の気持ちとか経験とか、その人の人生そのものに比例して広がっていくのだと思います。
中には風船が多すぎてカールじいさんみたいなことになってる人もいるかもしれませんが、それは外から簡単に見えるものではありません。

そして時に、真ん中の風船の数が少ないネズミが、自分の知らない黄色い風船持っているネズミを見て笑ったりするようなことがあります。ただ自分が持ってないだけなのに。

たとえば昔「ダイワハウチュ」と言ったら「噛んでやんのーww」と笑われたことがありました。
その当時、役所広司さんが大和ハウスのCMで「ダイワハウチュ」と言うCMがあったので、その人は逆にみんなから「え、知らないの!?」と笑われる羽目になっていました。

最近でも「化学」を「ばけがく」と読んだことに対し、「かがくだよ」「ばけがくww」の反応が話題になっていたもありましたが、1回笑う前に「ばけがく」でググれば「科学」と区別するために存在していることは明らかです。
でもこれもまた、自分が知っていると思い込んでいる知らないことは、検索しようとする発想が浮かばないのでしょう。

私も校正していて「そんな言葉ある!?」と思うことはありますが、ひとまず1回調べてみれば基本解決します。
ただその人の造語や誤字な時もあれば、実際にあって「へぇ~!」となることもあり、自分が知らないものを初手で笑うのは後悔や反省につながる可能性があるので「何それ?」という反応が安パイだなぁという気がしています。

これはラルクファンなら一定数の人が通ってる道かなという気もしますが、「heavenly」というアルバムに入る『静かの海で』という曲。
最初は「『静かな海で』じゃないの?」と疑問に思ったのですが、そこで初めて月に「静かの海」という場所があることを知ったなんてこともありました。
これは月なんだ!と思って曲を聴くとあちこちで気づきがあって、曲の聴こえ方もだいぶ変わり、より好きになったりしたものです。

また、たとえば「POD」という略語1つでも「プリントオンデマンド」を思い浮かべる人がいれば、「ポストオペラティヴデイ」と手術後の経過日数もあるし、「プルーフオブデリバリー」の配送完了証明もあるし、荷揚げ港を表す「ポートオブディスチャージ」もあるし、はたまたセネガルの「ポドル空港」かもしれないし、「AirPods」などを思い浮かべる人もいるだろうしと、ふだんどのジャンルと接しているかで最初に浮かぶ意味が変わったりします。
違う意味を複数持つ言葉なんてたくさんあるわけで、同じ言葉でも自分の知らない使い方がある可能性はいくらでもあります。

皆いろんな知識や経験の風船を持っていて、どんな風船を持っているかは人それぞれ。

自分が持ってる風船を相手が持っていないことを笑う人(常識など)や、自分が持っていない風船を持ってる人を見て笑う人というのは一定数いるものですが、それは人生経験の差でしかないし、どの風船にもそれぞれの価値や魅力などがあります。

この所持している風船の全貌は可視化されませんから、上図で言えば「水色のこと知らないの?」と笑うトラは、相手の2~3倍上回る知識量には気づけないし、紫や黄緑のことを知る者はそれぞれ1人しかおらず、他の者は紫や黄緑の存在そのものを知らないまま過ごしているでしょう。

別にその存在を知らなくても生きていけるし、問題もない(問題があっても気づかないか対応されてどうにかしている)のですが、だからこそ人の「無知」や「不知」を笑う必要はまったくないし、他人の「無知」や「不知」を笑う人は、自分の「不知」を棚に上げている可能性が大いにあるのではないかと思います。
つまり「知らないことを笑うのは知らない人」には、「不知や無知を笑うのは不知や無知」というのが透けて感じるのです。

ほかにも自分がただ認識していなかっただけのことによる誤解のままに怒りをぶつけて「違いますよ」と説明されたりなんてこともまぁまぁあったりしますが、そういった諸々を含めて、「無知の知」を意識するということは、相手の見えない風船へのリスペクトにつながる気がします。

体感もまた別の話なので、小さな世界1つでいっぱいで視界が埋まっていて、他の世界が見えないことだっていくらでもあるでしょう。
特に幼少の頃は目に入る世界がすべてとなりがちではあります。

世界にある風船の数や量はもっと雑多で複雑だと思うので「自分が知らない何か」の存在があることは常に忘れないようにしたいところです。

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