無意識の1つに気がつきました。しえるです。
「知らない=ない」なんだなと書いたばかりの私ですが、それがわかっていながら母との会話で私の不知だった話が出てきて、「最近の話でしょ?」「前からあったよ」という話をくり返してしまって、これは思っていた以上に根深いんだなと感じることがありました。
今までだったらただの日常のできごとの1つにすぎなかったかもしれないけど、実際自分が「最近の話でしょ?」「前はなかったでしょ?」と言う側であったことを自覚してみて、あぁこの「知らないこと」というのは、それに対して興味があったら「何それ!そうなんだ!」と認知が進むんだけど、興味なかったら「ふーん」と言葉が右から左へ耳を抜けていくように、存在ごと通り過ぎていくんだなぁと気がつきました。
ちなみにこの時の話がなんだったのかは、自力では思い出せそうにありません。苦笑
他でもたしかに、私は言葉を調べたらなるべく都度メモしているのですが、そのメモを見ると「前にも調べたけどなんだっけ」のこともあれば、「あれ?これ前にも調べてる!初めましてじゃなかったや」となることもあります。
倹約の意味を持つ「THRIFTY(スリフティ)」という単語をゲームの『VALORANT』で初めて知ったと思っていたけど、エド・シーランの『Shape of You』に「You and me are thrifty」という歌詞があって、2017年のアルバムでカラオケでも挑戦しているので間違いなく先に見聞きしているはずなのに、その存在はなかったことになっていました。
よく仕事や勉強などの話で「前にも教えたでしょ」という話が出てくるのも、一部の政治家や現場を知らない人などがこれまでの話を聞いていなかったかのような、状況の見えていない非現実的なことを言うのも、おそらくこういうことなのだと思います。
つまり、一瞬「不知の自覚」、もしくは自覚までには至らない「知る機会」があったとしても、興味や優先順位、脳のキャパシティーなどいろんな要素によって、いくらでも再び自分の中で「不知=ないもの」と化してしまうのです。
「教える」というのは、まず不知を自覚させるところがスタート地点で、そこにたどり着いてなければそれは、ただの「教えたつもり」に留まってしまいます。
「人は知っていることしか、見えない」
メソッドダイレクターから教わったことです。
「選手は、彼らが知っていることしか見えてないぞ」と何度も言われました。要するに、指導する私たちは情報を「知らせる」のではなく、ピッチ上でその都度「見るべきものが見える」選手を育てたほうがいいでしょう。
「指導において、なるべく制限をかけるな」
「四角い箱(枠)の中で物事を収めようとするな」
改革当初から言われ続けてきたアドバイスの意味を、私たちは少しずつ理解していったのです。
スペインのサッカーチーム・ビジャレアルで指導改革に取り組んでいた佐伯夕利子さんの本ではこんなことが書かれていましたが、「知らないもの=ない=見えない」からこそ、見たほうがいいものの存在の認知は重要なカギとなりそうです。
これは純粋に知らないから見えないこともあれば、すでに知っているとか偏見など思い込みの主観によって見えないこともあるでしょう。
私の趣味の謎解きでも、経験値を積むほど物の視点が増え、より多くの角度から考えることができるようになっていく実感があります。
多分これからも無意識に自分の不知を振りかざしてしまうことは起こりうるのでしょうが、それをくり返しながらでいいから少しずつ、自分の視野をじわじわ広げ続けていきたいなと思いました。