公開に勇気いる記事の前には軽いの挟みがち。しえるです。
何かちょっとしたモヤモヤがあるとき、気もそぞろになってしまい、いろんなものが中途半端になっていくことがあります。
そういう状態になってしまうと、あれもしなきゃ、これもしなきゃ…と焦っているわりに何も進んでいない、その場でぐるぐる回ってるだけになってしまい、ちゃんとやったとしても「できた感」が少なめで、罪悪感のようなものすら感じることさえあり、悪循環まっしぐらです。
それが蓄積してくると、ますます精神的な余裕も削られがちになってしまいます。
ここ最近はそんな心の揺れを抱えて過ごしていたのですが、いいかげん今月中にどうにか解消したいなと思って考えていることをぼやいてみました。
何日前から書き続けているんだろう?という、自分の中でモヤついていた思考整理の吐きだしとなっており、うちのブログにしてはちょっと毒が強い言葉を発しているかもしれないことを、最初にお断りしておきます。
「私はどうしたい?」不必要に消耗しないための「視界・焦点」や「鈍感力」の話など。【五月病は5月のうちに解決しちゃいたい】
- 「私はどうしたい?」不必要に消耗しないための「視界・焦点」や「鈍感力」の話など。【五月病は5月のうちに解決しちゃいたい】
基本姿勢:「失敗」じゃなくて「下手こいた」だけ
失敗したことがないわけではない。
「下手こいたなぁ」と思うことはそれなりにあるが、今振り返ると「失敗」として残っている記憶はない。
そのときは深刻に思えたことも、今ではディテールも思い出せないほどに些末な出来事となっている。
たとえ思い出せたとして、「その1回をやり直すチャンス」が与えられたとしても、その先のどこか別のところでコケることまでは避けられない。
それなら、「失敗」をいちいち律儀にカウントせず、行きついた先で、過去のすべてを正当化してしまえばいい。
東海オンエアリーダーのてつやくんが著書「天才の根源」でこう書いているのですが、これはまさに私がめざしている考え方そのものでした。
と言うのもいざ行動してみたら、失敗はそこで止まらなければ失敗とはならないと気づき、そういう考え方に徐々に変わっていきました。
まだ消化しきれていない部分はあるものの、当時あれだけ深刻に感じていたものが思い出せないほどに些末なものに変わるという感覚がわかるようになってきたのです。
それに伴い、昔の自分はずっと過去のことばかり振り返ったり、未来に不安を感じてよく落ち込んだりしていましたが、最近は今か直近のことしか考えないことがほとんどです。
きっと今に「焦点」をあてるって、こういうことなのかなと思います。
ただし、思い出せない過去のできごとというものには2種類あると感じています。
1つは自分の中で清算できてどうでもよくなったこと。
もう1つはつらすぎて記憶を封印して追いやったつもりだけど、実は心の奥底にまだ残っているもの。
今回は、そんな過去を1つずつ清算していきながら「視界」や「焦点」を変えてきた過程のお話を中心につぶやいていきます。
親友と話していて…
実は少し前に、友人に会ったときに気分が若干落ち込んでいたんです。
その子は中学から一緒の長い付き合いで、1番自分がありのままでいられる大好きな親友ですが、クラスは一緒になったことがなくて、部活や塾は同じだったけどパートはバラバラ、塾のクラスは途中で追いついた形、高校も別々、一時はまったく会わない期間も何年かあったりしました。
それでも今、1番一緒に過ごす時間の長い大切な友達です。
「無」か「負」ばかりだった10代の頃の唯一の願い
軽い学級崩壊から始まった10代は、「無」もしくは「負」の感情が多くを占めており、自分があってもなくても上手くいかなくて何が正解かわからないという気持ちで、そんな私の唯一の願いは「普通になって、目立たぬ存在として埋もれて消えたい」でした。
だから何もしなかったし、大半の人が怖かったし、自分はモブだと思っているから、相手が自分のことを憶えているだけで驚いていたものです。
そんな私にとっては、心を許せる友達と過ごす時間があったから今生きているようなレベルなので、本当に大切な存在です。
活発でおもしろい、魅力的な周りの友達に憧れ、圧倒され、引け目を感じるだけだった
てっちゃんが冒頭でこのように話していて、めちゃくちゃ共感しかなかったのですが、すごくて大好きな子ばかりだったからこそ、コンプレックスも強く感じており、何人かはそれで関係を失ってしまったと思います。
久しぶりにそんな中学時代の話をして、こんなに見える世界が違ったのかと驚きました。
「学校」の中で苦しんだ10代の記憶はおぼろげです
私にとってつらい学校生活だったのは、大多数の圧に負けて自我を失って、相手を同じ人間として見ていなかったからだと今ならわかりますが、当時は中学校という狭い世界に生きていたので、まったくわかりませんでした。
何度も何度も何度も何度も苦しんで苛まれて、つらさや後悔を味わいきったので、今ではもう大半は断片的にしか覚えていませんが、私が見てきた世界は殺伐としていて、裏の顔や裏切り、いじめの連鎖などが数々あって、とてもピリついたものでした。
でもその子にとっては、クラスにも部活にもよい思い出があり、私よりもずっと先輩や後輩のことを憶えています。
そんな視界の差に、なんだか愕然とした気持ちになってしまいました。
吹奏楽部だったのですが、大好きな友達はみんな金管楽器で、ほのぼのした空間が居心地よくて入り浸っていたのですが、部長・副部長がそろっていて先輩の壁が厚い木管はピリピリしてとても息苦しいもので、最後の演奏会は逃げて中国旅行してました。
それだけしんどかったのだと思いますが、今考えるとなかなかぶっ飛んでますね!
そんなだったから私にとって中学時代は、個性豊かな先生と友達と共に過ごした面白い塾の記憶しかなく、学校の記憶は本当におぼろげで、手で数えられる程度しか残っていません。
残った記憶のだいたいは楽しかったものですが、中には誰にも言ったことない嫌なできごともまだ少しだけ残っています。
心の奥に抱えたものを話すのって勇気とか信頼が必要
でもそんな私にとっては地獄だった世界を平穏に過ごせていて、頭がよくて、所作が美しくて、歌が上手くて、几帳面で心優しい、尊敬しかない友達が、高校で私と同じようなトラウマを抱えていたことを知って驚きましたし、よく話してくれたなと思います。
私は「着ぐるみの力士のような子にブスと言われて唖然とした」くらいの話は冗談のように話したことはありますが、ガチトラウマは親に話したかどうかくらいのレベルで、誰かにほぼほぼ話したことがありません。
本当につらいことって、なかなか人に言えないものではないでしょうか。
そこまで考えたとき、もしかしたらいつか機会があれば、その友達にだけは話すことがあるかもしれないなと自然に思えました。
境界線の見極めって大事
私は結構オープンになんでも話すほうですが、それは本当に話したくないものを抱えているからであり、自分から話さないことをしつこく聞いてくる相手には嫌悪感を覚えます。
1個上の同級生が「年齢は先輩だからな」と年長者を前面に出して、皆の悩みを根ほり葉ほり聞き回って、挙句の果てに「重すぎる…」と言ってさじを投げる姿を見て、その思いは一層強くなったし、年齢は関係ないと思うようになった気がします。
人それぞれ違う「視野・視界」
私は先のような経験を重ねて、すべては「視野の狭さ」から起こっているのだと思うようになりました。
最初は自分の視野がめちゃめちゃ狭すぎて、至る所で問題が起きていました。
そのため、少しずつ視野を広げていったのですが、そうしているうちに「その次の話してるんだけどなぁ…」とか「そうじゃない世界で生きてきたんだけどなぁ…」と思うことが増え、齟齬が生じるようになっていきました。
ずっと1つの学校や会社にいる人には転校・転職してきた人の気持ちはわからないし、移ってきた側の人は長年同じところで過ごしてきた人たちの感覚はわかりません。
ずっと同じ場所にいればそこに詳しくなるけど、転々としてきた人は詳しくない代わりに別の世界観を知っています。
規模感や首長のよしあしなどによって、環境はいくらでも変わります。
「ローカルルール」というルールそのものが理不尽なので、うちではルールは必ず明文化しています。ルールに理不尽を感じた人がいれば、合議で改正し、それもまた明文化します。hidden ruleはイジメや理不尽の根拠になりやすいので、なくすのが望ましいです。 https://t.co/iq0HM4uwlY
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2021年5月25日
得意な人は不得意な人の気持ちがわからないし、不得意な人は得意な人の考えが想像できません。
でも不得意を努力で乗り越えて得意になった人はきっと見える世界が広がるし、もしかしたら人に教えるのも上手くなるかもしれません。
「みんなできているんだから、自分もできなきゃ」という「みんな」は、実はごく限定された人々でしかなくて。世の中は広いですからね。できない人も山ほどいるし、それで心地よく生きている人も山ほどいて。そういう世界の広さを意識すると、より自由に生き方を発想できるかも。
— 中村あやえもん (@ayaemt) 2021年5月22日
前提条件の差
これまで「人はみな違う」とか「失敗するのは当たり前」と言いながら、自分の感覚や考え方を押しつけられることがしょっちゅうありました。
なんでかな?と考えてみたとき、私は基本「自分の視野が狭い」を前提にして話しているのですが、絡まれるときは「相手より自分の方が視野が広い」というていで話してくる人が多かったように感じます。
だから年齢や学力、国籍などの違いで相手を軽視してしまうことが起こるし、「学校」「会社」「業界」「業種」「チーム」「バイト」「一般職」「総合職」「管理職」「家族」「町」「市」「都道府県」「国」「地域」「世界」「宇宙」「動物」「植物」「趣味趣向」といった大前提の視野がすれ違っていることを見落としているために、話が平行線になったり、相手を思いやらずに責めたり侵害したりしてしまうのではないでしょうか。
毎度のことながら、Twitterをやっていると医者に医療を教えてくれる方の多さに驚きますね。
— 手を洗う救急医Taka(木下喬弘) (@mph_for_doctors) 2021年5月22日
そして同じ視野内だったとしてもどこに「焦点」を当てているかで、また見える世界は変わってきます。
そもそも人によっては「視野」か「視界」かから違うかもしれません。
- 「視野」…目を動かさずに見える範囲
- 「視界」…一点から見通すことのできる範囲
同じ場所でもぐるりと見渡せば、見える景色は違ってきます。
気を抜くと視野が偏ってしまうので、定期的に周りを見渡すようにしており、このような考えのもとに、知らない視野を知るため、私の知りたい病は発動しています。
「みんな違って、みんなどうでもいい」
私はインプットを重ねることで自分軸を形成できるようになったので、自分にはわからない感覚でも「そういう世界や考え方があるのか」と知るのは私にとって見識を広げる面白い話題です。
自分軸が形成できてきた今は基本的により自分を知ることに集中しているので、興味がわいたときに飛び込むだけであり、情報を得たいときは信用のおけそうな人や公式情報を探しにいくような感じに落ち着いています。
つまり「焦点」は常に自分に合うように心がけているため、ふだんは誰かの意見や感想をまったく見に行かず、私にとってSNS類はすべて情報収集の場でしかなく、コメント欄は投稿者への感想かメモを書く場所であり、コメント欄の中での盛り上がりにはついていけません。
落合陽一さんのnoteにあった「みんな違ってみんなどうでもいい」は本当に共感します。
なにかしらの物事に対して最初に「私はどう思う?」があり、私がどう思うかわからないときに情報や意見を探しに行くという感覚で、ほかにエネルギーを裂く余裕はありません。
だからこのブログも「私はこう思った」という書き方に終始しています。
(もしそうでないときがあったとしたらついエゴが出てしまったかもしれませんごめんなさい。)
こう思えるようになったのはコツコツ経験値を重ねて、自分軸を築きあげてこれたからであって、それ以前の自分は「焦点」を他人にばかり合わせて見ていたから、おそらくそういうことなのだろうなと想像します。
ただ揺らいでしまうときもあるんです
やりたいことを邪魔されたり、やりたくないことを強制されることが何より嫌いだ。
だからこそ僕は誰かのやり方や考えに口出ししたり、奪おうとは思わない。
てっちゃんのこの考え方にもすごく共感するし、私の基本的姿勢でもあります。
ただ、考え方を押しつけ続けられてしまうと疲れてしまったり、嫌な気分になったりしてしまいます。
今してる対策:SNSなどネガティブな発言などを見ないようにする
私はブログを更新するときに、よくはてなブックマークやTwitterを活用しています。
Twitterだとフォローやリストなどを使い分けてタイムラインをコントロールすることはできますが、はてなブックマークでは表示される対象を選ぶことができないので、便利ではあるけど、いらない情報も表示されてしまうのが嫌で、最近ちょっと困っています。
匿名ダイアリーなどの見出しには「弱者」「売れ残り」「格差」といった言葉が飛び交っていたり、攻撃的な言葉が並んでいて、ちょっと弱っているときに見ると一気に心が揺らいでしまいます。
同じ理由で、すぐに他人を茶化したり比較したりするテレビの見る時間もだいぶ減りました。
「こんなのも知らないの?」と自尊心を削るような切り口は、視界に入れる必要がありません。
つくる側も出演する側も感覚がまったく違うんだろうなぁと感じます。
10~20代の約半数、ほぼテレビ見ず「衝撃的データ」:朝日新聞デジタル
「何を今更w」と一言だけ書いてブックマークしたら、スターが100超えてビックリしました。笑
前提として今の自分の生活は大好きです
私は現在、駆け出しのフリーランスの独身女性という立ち位置になります。
それに対して何も不満はないし、新しい生活を今までで1番楽しいとすら思っています。
久しぶりに人間関係に悩まされることなく、コロナもあって堂々と1人で過ごせるこの時間がたまらなく嬉しいし、この先そうじゃなくなっていくことを考えたら、今を満喫しない手はありません。
ずっと他人に「焦点」を合わせてきた自分にとって、「焦点」を思う存分自分に合わせる時間をいただいたという感覚です。
とにかくひたすら自分の快適を追求・構築したい一心で、日々過ごしています。
コロナのニュースはもう大丈夫って話じゃない限り、大半は「自分ができるかぎり、かからないように行動する」という方針に影響がないのでほとんどスルーしています。
行動範囲や時間帯をたまにチェックするぐらいですね。
周りの目ではなく、自分がかかりたくないからいくらでも家にいるし、滅多に人に会わないし、予防に力を入れます。
それでも必要だから買い物に行くし、必要だから息抜きするし、必要だから外に出るので、それを勝手な偏見で不要不急と決めつけられて強制させられるのだけはまっぴらごめんだと思っています。(最近は特に対象の矛盾が著しくて余計に…)
コロナ禍でわかった、日本人が患う「管理されたい病」の重症度 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン
なぜ劇場はよくて映画館はダメなのか。なぜ百貨店でデザイナーズブランドはよくてラグジュアリーブランドはダメなのか。そんなの都知事も、都議会議員も、感染症の専門家も、東京都の担当者も、絶対に説明できないでしょ。説明できない理由で、堂々と権力を利用して営業妨害をする。もはや狂気。
— 古市憲寿 (@poe1985) 2021年5月22日
「ルール」の背後には「原則」が必要です。原則の背後には「基本知識や基本概念」が必要です。なぜ、そういうルールを作るのか。外的に説明可能で、論理的に整合性がないと駄目。日本のルール作りはルールのためのルールというループが多く、ただ無駄を作ってるだけ。
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2021年5月22日
少数派の恋愛観はあまり理解されない
別に恋愛が嫌いでも苦手でもないし、恋愛にのめり込むことに否定もしないし、人並みにキュンキュンすることもあります。
ただモテたいという気持ちがわからず、1人の大切な人がいればいいという感覚なので、他人から見れば、私の恋愛の順位はおそらく低いほうなのだと思います。
だから「こんなんで恋愛に結びついてしまうのか」という境界線がわからず、思っていたよりすぐそばに、そこらじゅうに散らばっているものだと気づくまで苦労しました。
性別も国籍も恋愛の重要度も人それぞれだと思うのですが、「種の保存」なんて話題になるくらいですから、なかなか理解されないものですね。
ジュキヤくんの話はめっちゃわかるし、相馬さんみたいな反応されることはしょっちゅうです。
たしかに以前は焦ってしまった時期もありました。
それでも結局、いつだって自分は「一緒にいたい人がいないかぎり、結婚する必要性を感じない」という考えが一貫してあったことに気がつきました。
昔から「一緒にいたいかどうか」以外に一切の条件というものはなく、決めるのはすべて感覚でした。
こういう気構えでいられるようになったのは、すでに必要な人に出会えているという感覚を持っているのも大きいかもしれません。
籍を入れたいと思う人がいるから結婚するのであり、そのために生じる問題は都度解決していけばいいという考えで、時期じゃなければ放任します。
幸せのポイントは期待することじゃなくて信じること。信じることが出来たら自分が思った通りにならなくてもいいとわかる。楽しめるし気づくことも出来る。思い通りになることが素敵なんじゃなくて信じる気持ちを大切に出来ることが素敵な輝きとなり喜びとなり安心となり豊かさとなり望みに繋がっていく
— はるらすまいる (@harurasmile) 2021年5月13日
私の家族や近い親せきには口出しとか急かしてくる人がいないし、いとこたちは「結婚は無理してするもんじゃないからね~」と言ってくれるような環境で育ったので気楽でよかったです。
縁談とか知らない間に来てたらしいですが、私に通すことなくお断りしてくれていたらしくてGJだと思いました。
日本だと話を聞いていて、「結婚できない」「恋愛できない」という烙印のような感覚を持つ人は正直多いと感じますが、恋愛や結婚の優先度や必要性が低いから「しない」人は一定数いるものだと思います。
なんだかしなきゃいけない感みたいなものに振り回されたこともありますが、別にそんな必要はなかったんだと今では感じています。
私は思い返せば小さい頃から、遠い親戚が「女の子は好きでしょ」と近所の教会に連れてってくれても、まったく興味がわかなくてポカーンとしているような子でした。
結婚式やりたいという願望がまったくなく、結婚してる同僚からは周りのためにやるんだよと諭されましたが、ピンと来ていません…。
何でも恋愛に結び付けられるのがめんどくさくて仕方ないし、それが嫌で男性は恋愛対象として自分を見ないと感じた人とだけ遊んでいた時期もありました。
帰り際に振り返らずスタスタ帰ったことを怒られたことがあるのですが、一緒の時間を過ごしていることがすべてだと思っていた自分は、寂しい思いをさせてしまったことに全然気がつけなかったです。
そしてこういう女性もいるので、女性像を勝手に決めつけるのやめてくれ、だからそこらの恋愛話は興味がないんだとも思います。
そんな性格だから心理描写の丁寧な恋愛マンガとかは好きだけど、恋愛リアリティ―番組やカップルチャンネルはまったく興味がわかず、唯一たまに見るのが軍曹と歩兵という別居婚夫婦のチャンネルです。
同居するなら阿佐ヶ谷姉妹みたいな感じがいいって共感します。笑
それでも揺れるときは揺れます
そんな自分でも、弱ったときにネガティブな言葉をずっと見てしまうと「自分もそんな目で見られているのかな…」と不安が湧き上がってしまったりします。
元々強い人ではないので、どんなに自分が納得して満足していても、傍から見れば独身で収入が安定しているわけでもなく、遊んでるような寂しい人と見られると思ってしまうと、やっぱりいい気はしません。
だからそんなときはネットから離れて、「自分でそんな言い方しない!自分に優しく!」と言い聞かせてメンタル回復に専念しています。
話に聞いたところ、人生で最も後悔しやすいのが、「周囲の望む姿になろうとして、自分の人生を好きに生きなかったこと」のようで。なのでその部分を乗り越えるだけでも、人生の満足度は飛躍的に高まりそう。そういう要所を見極めて対策、攻略すると、満足しやすいかも。
— 中村あやえもん (@ayaemt) 2021年5月13日
これからの対策:鈍感力を鍛えようと思いました
東海オンエアのてっちゃんを見ていて、メンバーやYouTuber仲間、視聴者などからあーだこーだ散々言われているにもかかわらず、その揺るがなさはどこから来るのだろう?と思ったとき、こんなことが書いてありました。
幾度となく逃げ切ることに成功してきた経験から言えるのだが、宿題は、なかったことにできる。
先生が「出しなさい」と言う数週間を乗り切れたら、日常が戻る。
この「風化」経験は、YouTuberになった今も意外に生きている。
大抵の「炎上」は、放っておけば絶対に鎮火する。
騒がれると、つい反論や弁明をしたくなる。
ただそういうときに何を言っても、文字通り「火に油を注ぐ」結果にしかなっていないケースをよく見かける。
騒ぎ立てる人の体力や興味というものは、永遠に続くものではない。
話題にするのが100人から10人になり、一人になり、火が消えたら、「ふぅ……今回もいなくなりましたね」と胸をなでおろせばいい。
すでにマイナスのことが起きてから後出しで行うことには、とてつもないハードルが生じるのだ。
それなら僕は、沈静するまでじっと耐えてやり過ごしたい。
しかしそもそも、やらかしたこと自体、実はどうでもいいってことはないでしょうか。
1年前の誰かの炎上とか、覚えているだろうか?
いずれは忘れ去られることのために、炎に飛び込むエネルギーを使う必要はないのではないかと、僕は思うのです。
あぁ、私はまじめに受け取りすぎていたのかもしれないと思いました。笑
窓の外の強風や雷の音は、家の中にいても気になってしまいますが、それが気にならないくらい夢中になるなにかをして過ごしていればいいってことですね、きっと!
「受け取らない」も有効だと感じたこの頃
たまに外で知らない人に変な絡まれ方をされることがあります。
たとえば電車とか店内で、私がいるの関係なしにカートでぐいぐい進んでこられることがあって、身を守るために荷物の位置を変えたら気に障ったようで、ずっとグチグチ言われ続けたことがあります。
そもそも食い込んで痛かったのは私なのに、なぜ責められなければならないのかよくわからないのですが、電車のときは一駅間の10分くらいずっと嫌な思いをしました。
でも店内で同じことが起きたとき、何か言われているのはわかっていたけど「私はこの言葉を受け取らない」と思って右から左へ受け流し、商品選びに集中したところ、ちょっとしたらその方は悪態をつきながらも去っていきました。
まさに「放っておけば絶対に鎮火する」「悪口は受け取らないと相手の元に戻る」、てっちゃんとお釈迦様の言うとおりでした。
「他人は変えられない」ということ
世の中には、自分の手で変えられるものと変えられないものがあります。
自分のことは変えられますが、他人を変えるのは困難です。
「バタフライ効果」とか「風が吹けば桶屋が儲かる」といった言葉があるように、自分が何か一石を投じることで、歯車が動き出したり波紋を起こすことはあるかもしれません。
だからこんな考え方もありますよと「提示」して、こんな人もいるよというのが上手く伝わるといいなとは思うけど、それをどう受け取ってどう動くかはその先々しだいであり、どうしようもないことだとも認識しています。
なので私は基本的に「勇気を与えたい」というような考え方が苦手です。
その心意気は素晴らしいものだと思いますし、きっと勇気をもらって奮起した方もいらっしゃるのでしょうが、私は押しつけ感やおこがましさを感じてしまいます。
あくまで自分にできることは「提示」だけで、それに対する反応は相手に委ねられると思うからです。
自分の「視界」を変えられるのは自分だけ
どんなに相手が元気に暮らしているといいなぁと思っていても、何かあったときに自分ができることは本当に限られていると思います。
いくらでも話を聞くことはできるし、自分の考えを伝えることもできますが、そこからどうするかとか根本的な解決は本人にしかできません。
最近も、私が謎解きを好きになるきっかけとなった方が、SNSで生きる気力を失った発言が続いていて、とても悲しいし心配です。
でも遠い距離の自分は何があったかも知らないし、どうすることもできないのも知っています。
それは経験則として、差しのべられた手に気づけるかや乗り越えられるかどうかは自分次第であり、自分で「視界」や「焦点」を変えないと見えないと思うからです。
物事は様々な捉え方ができます。自分が何を見ているのかを感じてください。自分に厳しい人は自分の素晴らしさに気がついていない人が多いです。人の気持ちに敏感過ぎて心を痛める人は優しく思いやりのある感性の豊かな人です。外側の出来事に左右されず内側にあるあなたの豊かさに気づいてくださいね。
— はるらすまいる (@harurasmile) 2021年5月19日
あるときはテレビのコーナーみたいに、誰か私のことを変身させてくれないかな~なんて思っていた時代もありましたが、自分が動かなければ物事はまったく動きませんでした。
伝える努力やできるかぎりの最善は尽くしたいと思っています
実は先の方には年の変わり目にメッセージを送っているんです。
そのときは自信喪失されているようなレベルだったのですが、久しぶりに見た姿は完全に悪化していて、やはり届いてなかったことを知りました。
ただそれでも自分にとって価値のある出会いと感じていることには変わりないし、後悔したくないので何かできることはないかと考えて、Twitterの報告機能を初めて利用してみました。
あとは無事を祈るばかりです。
「死にたくなる」は、死ぬ寸前まで戦った証ですからね。なのでそれ以上戦う必要はないかなと思います。それに長期で休むことで、長期で上昇することもあって。なので「人生は長期戦だ」とできると、目先の利益を手放せて、長期で豊かになれる道が見えるかも。
— 中村あやえもん (@ayaemt) 2021年5月12日
100%何かが悪いってない
「相手の気持ちを考えて」とはよく言いますが、本当にみんなが相手の気持ちがわかるのなら、世の中にこんなに苦しむ人が多いのはなぜでしょうか?
差別やいじめに誹謗中傷、離婚や事件、ちょっとした嫌な気持ち、どれも相手が自分の気持ちがわからないから起こっていると思います。
それに対し、自分も相手の気持ちが理解できていないため、お互い様です。
これも結局「視野」の話ですね。
全部の「視野」を100%網羅するというのはおそらく不可能でしょう。
だから一方的に相手のせい100%にしてくる人とは離れたほうがいいということを学びました。
離婚したことについて「どれだけ相手が悪かったかを説明して、周りにはわかってもらったんだ~」と話している人とかいましたが、そういうところにお相手は疲れてしまったんだなと思いました。
松井玲奈さんとの対談、後編です🍄
— しいたけ. (@shiitake7919) 2021年5月12日
僕は、世の中の強すぎる言葉はあまり聞かなくていいと思っている節があって。周りの期待に100%応えていると、どこかで潰れてしまう。
「言ってることは分かるけど、今日は寝ます!」と、逃げるが勝ちなパターンも自分の中に残していって。https://t.co/mZEn78DMAm
その考えから私は、鬼を100%悪とする「鬼滅の刃」がどうも好きになれず、自分なりの善悪や正義についての答えを探す「呪術廻戦」の虎杖の方が好感が持てます。
炭治郎の家族をころしたのが鬼ではなく人だったら、炭治郎はどうしたのでしょうか?
そんなことを話したら「冷めてるね」と言われてしまいました…。
自分はマイナーだとようやく気づいた
最近ようやく理解したのですが、私の考え方は基本的におそらくマイナーです。
このブログで、東海オンエアリーダーのてっちゃん、ヒカルくん、ひろゆきさんなどの話題をよく取り上げていますが、私がこの面々の考え方に感じるのは「驚き」「憧れ」ではなく、ただひたすら「共感」が多いのです。
彼らは私の内心を体現している方々として参考にしています。
それに対する他メンバーやコラボ相手、視聴者さんなどの反応を見ていると、「おかしい」「普通じゃない」という言葉がよく飛び交うので、おそらく異質なのでしょう。
ただ、私は彼らと違って自我がとっても弱く、対人力がとてもへたくそで、自分の性質を理解するのに時間がかかりました。
そしてそんな自分が「普通になりたい」は不可能なことでした。
そりゃ苦しかったはずですよね。
個性の強い人ほど、世の中にある「大多数向けの、当たり前の教えや生き方」が合わないことがあって。その場合、そういう「大多数への教え」に逆行する勇気か好奇心を持つことかなと思います。そういう「常識を外す小さな挑戦」の積み重ねが、新たな可能性を開きそうに思ったり。
— 中村あやえもん (@ayaemt) 2021年5月21日
僕、どんなに、重要なミーティングとかがあっても、仕事の予定よりも「睡眠」を優先したりするんですね。
そうしていると、まあ、いろいろなチャンスを失うことはあるんですけど、「そういう人とはうまくいかないものだ」と決めてきまいます。
自分ルールを決めると、僕のそういう面を「気にしない人たち」だけに囲まれて、かなり快適に生きていくことができるわけです。
生活サイクルの感覚
てっちゃんが何かの動画で「おいしいごはんを食べるのは好きだけど、集中しているときにおなかがすくのがめんどくさい。食事の時間はまとめたい」的な内容を話していたのですが、これを打ちながらおなかの鳴る自分に同じことを考えていたので「わかるー!!」とテンションが上がってしまいました。
案の定ほかのメンバーからは何言っているんだとツッコまれていましたが…。
毎日編集するのはキツイというのもめっちゃわかりますし、「てつやの毎日は2~3日だからなぁ」と言われていたのも、それそれ!となります。
ブログを書く日、校正をする日、本を読む日、モンハンする日、買い物に出かける日、ごはんを食べる日、お風呂に入る日、惰眠をむさぼる日…ってまとめて同じことに集中していたいのです。
ブログを書いたり、本を読んでいる間、おなかは空かないでほしいのです。
そしてそれは、できるだけその日の気分でやることを決めたいのです。
そんな私にとって、てっちゃんが説教される回はいつも切ないです。。。
気持ちがわかりすぎるからこそ、どれだけ頑張っているかが想像つくし、よくハードスケジュールをこなしているなぁと心から尊敬します。
つい深掘りしちゃいますよね
シルクくんのクリエイター目線で見るマンガの構成などについての話とかも似た感覚を持っています。
私は同じような感覚で、マンガやYouTubeを見ながら人の心の動きとか、どうしてこの行動を取ったのか?とかいくらでも考えていられます。
作者の描きたいものがあり、その中で勝手にキャラが動き出すのをまとめる系の作家さんのマンガが結構好きかもしれません。
そして全部、他のジャンルに転換していけるから、好きなのや興味がどんどん増えていっちゃうんですよね。
シルクくんのスマブラとか、てっちゃんのモンハンとか、忙しい中であれだけゲームも上手くなるのは本当にすごいなぁ…と思います。
私もゲームや切り返しにもうまく応用できるようになりたいなぁ…。
シルクロードがスマブラSPのアイアンマンチャレンジやったら完走できるのか!? - YouTube
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好きな過ごし方をしようよってだけなのに…
「食べたいものがバラバラ」「なじみの仲間内でのごはん」
この状況になったら私も行きたい店に分かれようって提案しちゃいます。
たまにしか会わない相手だったらすり寄せますけどね。
むしろ毎日同じメンツでごはんを食べに行き続けるというのができません。
たまになら行きますが、ずっとは無理です。
この動画は面白要素のためだとは思いますが、実際ちゃんとみんなのこと好きなんだけど、こうやって責められてしまうんですよね。
時間感覚の違い
私はよい印象を持った相手に対しては、どれだけ会った回数が少なくても、どれだけ会っていない期間があっても、この先会う機会がないかもしれないとなってしまっても、私にとっては友達だという感覚は変わりません。
会わない間もずっと好きなままだし、よい思い出は残り続けるし、元気にやっているといいなぁと思っていて、機会があればごはんにでも行きたいよねって感覚です。
ただ、電話とかLINEは基本的に用がなければ全然しません。
この感覚をわかち合える人は少なく、数年越しに声かけると相手に驚かれる経験などを経て、これは人と違うのだと気がつきました。
長期間放置するなんて冷めてるととられたりするのですが、こちらの感覚はたった数カ月や数年で関係なかったことにしてくるほうが冷たくない?と思っています。
「好き好き!」と相手から来ていたのに、いつの間にか無視されるようになってるのとか結構寂しいものですよ。
こんな私の友達は必然的に、間がどれだけ空いても変わらない関係でいてくれる人たちばかりです。
そうやって自分と感覚の合う人間関係を築いていけばいいのだと思っているので、無理して誰かと出会おうという考えはなくなりました。
「視界」調整ってむずかしいけど、こうかはばつぐんだ
先日、久しぶりに会った別の友人と話していて、自分にビックリしたことがありました。
1年前に自分の家で会ったことをまったく覚えていなかったのです。
なんでかな?と考えてみたところ、ちょっと刺さった小骨のような言葉があったことを思い出しました。
「失業手当、楽でいいね」的なことを言われて、それまでの苦労とか、これからの不安とかがないがしろにされた気分になって、しばらくじわじわと落ち込んでいたのです。
ただそこで以前の自分と違うのは、とことん落ち込んだあと、フラットな状態に戻れるようになったという点です。
会ったことすら忘れてしまったのはさすがに忘れすぎたなと思いましたが、心の平穏的にはたいへん健康に過ごせていたと思います。
昔の自分だったらずっとそこに焦点を当て続けていたと思うので、ずいぶん変わったなと思います。
感情の消化は大事
感情を消化するために、とことん感情と向き合うのは大切だと感じています。
親とも「なんであのとき助けてくれなかったの?」など何度も本音でぶつかってきたからこそ、今の良好な関係になれ、親の気持ちもわかるようになったし、どんなときでも助けてくれる心強い味方だとすら思えるまでになりました。
「探偵ナイトスクープ」でもよく、10年以上会話のない不仲な家族の仲裁案件がありますが、誠意を見せ、当人同士が腹を割ってぶつかり合うことで解決しています。
自分の気持ちがわかるまで問い続ける「私はどうしたい?」
「しえるはどうしたい?」
私が仕事のことなどで悩んでいたとき、私のことを気にかけてくれた大切な人達が口々にかけてくれた言葉です。
それは子どもの頃にはほとんど意識したことがなく、大人になって目から鱗が落ちた言葉でした。
自分の気持ちに「焦点」を当てるのに最強の言葉だと思います。
「コレットは死ぬことにした」で…
毎日毎日しっぱい
ぜんぶぼくがぐずなせい
でも…でもぼく
すきでぐずに生まりたわけじゃない…っ
…っぼくだってみんなと同じように泳ぎて
エサもとりるカワウソに生まりたかった…っ
みんながあたりまいにできることが
どうしてぼくはできないんでしか?
ぼくもなりたい…
「コレットは死ぬことにした」では、グズすぎると家族から見捨てられ、拾ってもらった先でも失敗を繰り返して追放されてしまったコツメカワウソのエピソードが出てきます。
そういうことが続くと、怒られたり、失敗するのを恐れて余計に動けなくなってしまうんですよね。
このコツメのつらさは痛いほどわかります。
好きでできない人なんていません。
先日、炎上後のDJ社長がLINEライブで「海を越えて炎上するなんて本当にヤバいなと…ほんとに俺ってモラル欠けているんだな…って思いました」とさすがに落ち込んでいて、初めて見たしゅんとする姿に、改めてどんなにパワーのある人でも何かしら悩んだり落ち込んだりすることはあるよねって再認識しました。
ただ転んでも倒れても、起き上がって進んでいるだけなんですよね。
…コツメくんは皆と同じになったら何がしたい?
修業していたころの自分と重ねたコレットは、コツメにこう問いかけます。
「皆と同じになったら」この問いかけってとても大切なものだと思います。
私もそうですが、勝手に現状から自分で決めつけてしまったり、他人から受けた影響で無理だと思ってしまうんですよね。
【1か月限定】落合陽一✕林修!「日本の47歳はまだまだ若者!」「ガッツはレッドオーシャン!」 - YouTube
たとえば年齢について、落合陽一さんが話されていましたが「日本人の平均年齢は47.8歳だから、47歳だって全然若者ですよ。平均寿命から見れば昔の27歳くらいですよ。若いっていうことはあまり意味がない。90歳まで働けばいいんですよ」というのは切り口は違うけど私の考えに近い感覚です。
むしろそれ以前に、そもそも何がしたいかわからないことすらあります。
なのでそれを知るために、1回制限を外して、ピントが合うまで自分に問いかける必要があると思います。
そして選択肢を増やすために、見識を広めることはとても有効でした。
わからないなら比較サンプルを増やせばOKってわけです。
「この音とまれ!」にて…
モモヤン、今はモモヤンがどうしたいのかを聞いてるんだよ
全国に出るなら週4日はモモヤンの時間をもらうことになる
俺らは一位を目指してるから
そこの意識も共有してもらう必要がある
でも俺らはモモヤンの時間にも人生にも責任を持てない
後で時間を返すこともできない
だから自分のことはちゃんと自分で決めて
琴マンガの「この音とまれ!」では、音楽的センスは高いが人と距離を取りがちな冷めた後輩くんが出てきます。
その後輩はそれまでの経験から、どうせ毎日一緒に過ごさないなら仲間じゃないんだろ…という思いを抱えており、「毎日長時間練習をする先輩がたには合わせられないので、いやならどうぞ切ってください」 というていで判断を相手に委ねようとします。
でも自分の人生の責任を負うのは自分だけです。
先輩たちは誠実に求めるものを伝えたうえで、後輩の気持ちを確かめます。
このマンガではいつだって、大事なのは「本人の意思」というのがとても丁寧に描かれていてグッときます。
今週のお題「やる気が出ない」