定義って大事だと思います。しえるです。
会話の中でのすれ違いって、最初の定義の認識の差から始まっていることって多い気がします。
観点が重要 pic.twitter.com/30pHenq6ER
— 美しき物理学bot (@ST_phys_bot) 2021年8月12日
この画像面白いなと思ったんですけど、こちらは平面的(2D)に見るか、立体的(3D)に見るかでまったく見え方は異なります。
最初に「この画像は立体的なものである」という定義を共通認識として話さないと、いずれきっと再生しなかった人とは話がかみ合わなくなるでしょう。
このブログでは視点の違いについてはちょくちょく触れてきたと思うのですが、今回は視点の先にある対象の定義について、つらつらと書いてみました。
若干ややこしい内容になっている気がしますが、1つの考え方としてお楽しみいただければ幸いです。
認識の共有を図るためには定義って大事だなって思う話。
定義を明確に示すのは大事と気がついたこと
以前、メルカリの値引きについてこのブログで触れたことがあります。
こういったフリマアプリでの値引き交渉って、なんでそんなに値引かないとならんの?というぶっ飛んだ声掛けも少なからずあったりします。
最大で75%引きのお願いまであったりして、私はこの数字を大きいと感じたのですが、それでもこの値引きに対する感覚って人それぞれなんですよね。
私はこれに対し「特に明確な理由なく10%以上の値引き交渉に応じるつもりはない」というような内容をプロフィールに明記したことで、私にとっての無茶なコメントはほぼ来なくなりました。
おまけで7割引きもするわけないじゃない!ではなく、自分がどこから不快に思うかという明確な線引きを定義することは大事だなと学びました。
YouTubeの生配信でも…
最近、東海オンエアてつやの個人チャンネルのゲーム配信にハマっているのですが、いろんな層がコメントするため、チャット欄がよく荒れていました。
今は概要欄に「マイつや配信のルール」が追加され、具体的にどんなコメントがやめてほしく、モデレーター(チャットを取り締まる人)を増援し、削除対象としていくのかが明記されるようになりました。
中には親切心や純粋なファン心から来るものもあったりして、本人に悪気はなかったりしますが、明確に定義することでこれはよくないんだと認識する確率は上がります。
たとえば、これはSNS等で誤情報が拡散されていく状況に似ていると感じたのですが、チャット欄の人がどれだけそのゲームに詳しいかなんて名の知れた配信者でもない限りわかるわけもないのに、まぎれてしまった勘違いや、わざと流した偽の情報でも「こうした方がいいらしい」と復唱されてしまい、誤った誘導で混乱するという場面が度々発生したりしていました。
ただの文字情報を本当にそうなのか正しく取捨選択していく、いわゆる「リテラシー」が必要になってくるのですが、視聴者のリテラシーレベルはバラバラなので「自分のプレイ経験から得た確かな知識でのみアドバイスをいただけると嬉しいです」というお願いにつながるわけですね。
そして、てっちゃんの場合は事前の情報やチャット欄を参考にはしながらも、実際に試してみて「レッドストーントーチはリピーター含めずに15個置いて大丈夫」とか「分岐しても効果は発動する」など自分の目で確かめることでアイテム効果の定義を明確に把握していっており、こうやって自分で検証していくから東海オンエアが成り立っているし、トップに君臨しているんだなぁと改めて思いました。
ドーナツの穴で考えた定義の意義
ドーナツの穴は1個なのか(それぞれの側から見て)2個なのか
という子どもの質問に、哲学的だ!と反応していたのですが、なんでそんなに反応しているのかあまりピンときませんでした。
私はひたすら文系脳なので、今の時代の共通認識として穴を数えるためには、 言葉の定義に立ち返ろうとします。
デジタル大辞泉によると
- 反対側まで突き抜けている空間。「針の—」
- 深くえぐりとられた所。くぼんだ所。「道に—があく」「耳の—」
とあります。
ということはこの質問に関して穴を数えるとしたら、ドーナツの穴は反対側まで突き抜けているので、言葉の定義的に穴は1つと言えるのではないでしょうか?
「ドーナツの穴だけ残して食べる」という有名な哲学ネタがあるようですし、簡単に言えば、真理とか、不可能と思えることを追究する営みが哲学ですから、時代に左右されない捉え方という意味で考えれば哲学かもしれません。
でもそれを言うならまずドーナツの穴に限らず、 世の中のすべてが哲学になると思います。
その中で皆が共通のものを認識できるように名前がつけられ、どこからどこまでがその名前のものを指すのか定義があるわけなので、現時点の答えとしてはやはり穴は1つなのではないかと思います。
『サピエンス全史』の認知革命「虚構を共有する」
『サピエンス全史』という本では「認知革命」という考え方が紹介されています。
私は全部を読んだわけではないので概要になりますが「虚構を共有する」、つまり国も貨幣も宗教もすべては、ただ皆が同じように信じているだけのフィクションであり、自分の持つお金や所持品も突き詰めていけば、自分が持っていると信じているだけですし、世の中のルールや国境に貨幣の価値も皆があると信じているから存在し得ているだけというものです。
本来土地はただそこにあるだけであり、1人だけで自分のだ!と主張してもおそらく気にも留められないでしょうが、名前や国境が定められ(=定義)何億人が信じること(=共通認識)で虚構の存在が認められるということですね。
そしてその虚構の積み重ねが、自分たちが勉強してきた歴史ということになります。
現象を定義して認識の共有を図る
つまり今の生活を形成する価値観とか歴史とかルールとか組織といったものはすべて、今を生きる人たちがそう信じているだけのフィクションとなります。
だからこそ時代によって信じられているものが違いますし、時にパラダイムシフトが起きてガラッと価値観や組織等の環境が変わったりします。
しかしその過程で山が崩れたり、大地が動いたり、動植物が繁殖したり、または絶滅したりといった現象は実際に起きていると思います。
たとえば私がにんじんを食べたとき、私がしえるであることやお金をはらってにんじんを買って…といった類は虚構ですが、動物が植物を食べた結果として1つの植物の存在がなくなったというのは実際に起きた現象だと思うんです。
が、役人は手前で作った概念に縛られて定義遵守に汲々とする。「それは定義に該当しない」などと現象を看過してしまう。現象(あるいは分類)が先で、コトバはあと。ここを理解しないと失敗する(ずっと失敗し続けてる)。
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2021年8月12日
ということは政治やビジネスといった社会全般は皆が認識を共有するフィクションの中でやりくりしているにすぎませんが、自然発生した現象に対し、実際の現象に即していないことを定義してしまうとややこしいことになる気がします。
ウイルスを顕微鏡で確認し、実際に多くの人が発症し被害に遭っているのに(Googleによると執筆時点の全世界で2億人感染、435万人が亡くなられているようです)ウイルスはないとか無害だと言うのを聞くと、それは事実に即してないと感じます。
そしてこういった現象というのは、フィクションには関係なく起こるものなのだと思います。
つまりは起きた現象があり、その現象に対し、どうフィクションを整備していくかという順番が基本となるのではないでしょうか。
もしこの世界が誰かの手によって動かされている、マトリックスのような仮想の世界だったとしたら話はまた根本から変わってきますけどね。
コロナ禍において定義の差が目立つ気がします
新型コロナウイルスに対する捉え方、ワクチンを受けたいかどうか、日常の過ごし方など、さまざまな点で対立したり、行動の差を感じる場面が多いこの頃。
その背景にはそもそもの定義の認識の差があるから、いつまでも平行線な部分もあるのではないかと思いました。
かかりつけ医の定義のあいまいさ
ふだん健康だと、かかりつけ医のことをそこまで気にしなくてもあまり支障はないですが、新型コロナウイルスの流行があるとそうも言っていられないなぁと感じます。
でもその割にあいまいなものなんだなぁということにも気がつきました。
なんでも相談できる上、最新の医療情報を熟知して、必要な時には専門医、専門医療機関を紹介でき、身近で頼りになる地域医療、保健、福祉を担う総合的な能力を有する医師。
日本医師会のHPでは、かかりつけ医の定義についてこう示されています。
私にとってこれは意義でしかなく、具体的にどの病院が該当するのかという本当の定義は明記されてないんですよね。
1回でも行ったことがあればなのか、何回以上といった通院歴がないといけないのかなどが具体的に書かれていないから、自分がかかりつけ医だと思ってた病院から違うと言われてしまう悲しい事案が発生しています。
正直、私自身も自分のかかりつけ医がどこなのかよくわかりません。
風邪がしんどいときに行くところは決まっているけど、頻度で言えば年1未満です。
今の私はほぼほぼ健康体なので、通院頻度が少ないと言われてしまえばおしまいです。
当てはまる病院なんてどこにもありません。
引っ越してきた時、まわりにどんな病院があるか確認しましたが、体調悪くならないとお世話にならないですし、自分にとってよい病院かどうかなんて通ってみなければわからず、一発で出会えずハシゴする可能性だってあります。
その間に訪れた病院が全部かかりつけ医となる可能性もあれば、1番通っていた病院にかかりつけ医じゃないと言われてしまうかもしれないなんて意味がわかりません。
利用者や病院側によって受け取り方がまちまちな時点で、定義ができていないというのは明らかだと感じますし、自宅療養を掲げるくらいであればなおさら、かかりつけ医について明確に定義し、連携を図ってほしいものです。
病気の定義から発生する認識の違いと性格的な対応の差
まあこういう議論なんだけど「何言ってんだか分かんない」という人がいることは覚悟してます。 pic.twitter.com/bbwWQJsoqQ
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2021年8月1日
あれこれ定義について考えるようになったきっかけがこのツイートだったのですが、無症状でも、生死の境をさまよっていても、同じウイルスがもとであれば、それは1つで括られるのが現在の「病名」だというのを見かけて、たしかに!と思いました。
そしてだからこそ、人々の反応が分かれるのかな?とも感じました。
というのも性格的に大まかに分けて、物事の最もマシな状態を見ようとする人と、最悪のリスクに合わせて対策を講じる人の2種類が存在すると思うからです。
たとえば毎月の収入やSNS等のビュー数やいいねなど、最もよい時を基準にする派と最も低い時を基準にする派っていますよね。
一概には言えないと思いますが、コロナに対してもそれと似たような対応の差というのは一定数生まれているのではないでしょうか。
7月下旬にあった忽那医師の説明によると、無症状が45%、80%が軽症ののち治癒するとあります。
これらが新型コロナウイルスの最もマシな状態かと思いますが、割合的にも多くを占めていると感じます。
物事の最もマシな状態を見る人は、この大半を占める部分を見ていると思いますので、それであればインフルエンザや風邪と変わらないと考えるのも頷けます。
ここからは現在の状況における最悪のリスクについて考えてみます。
私が日々の情報から現時点で考える、新型コロナウイルスの重大なリスクは以下の4つです。
- 重症化・死亡する可能性がある
- 感染力が高いデルタ株が猛威を振るっている
- 医療ひっ迫で病院の診察が受けられない
- 後遺症が残る可能性がある
ラムダ株が日本に入ってきているという問題もありますが、とりあえず喫緊のリスクはここかな?と思います。
「若者は重症化しないからワクチンは必要ない」と言う人がいます。日本の「重症」の定義は人工呼吸器や集中治療が必要な状態です。30代、40代でも中等症になる方はそれなりにいて、僕も多く診てきました。軽症や中等症といってもピンとこない方もいるので、スライドを作ってみました。 pic.twitter.com/ibTUPcpBXo
— 安川康介@米国内科専門医 (@kosuke_yasukawa) 2021年7月19日
このツイートがとてもわかりやすいなと思ったのですが、「中等症」は重症リーチ状態であり、「重症」というのはかなり死の危険が迫っている状態だということがわかります。
今はデルタ株という水ぼうそう並みに感染力の高いウイルスが出てきていて、すでに日本全国で80~95%がデルタ株に置き換わっていると言います。
新型コロナ「デルタ株」首都圏で95%に 国立感染症研|NHK 首都圏のニュース
感染しても自宅待機で、症状が悪化しても受け入れ先が見つからず搬送困難となっていたり、新型コロナ以外の体調不良でも手術が延期されたり、診てもらえないということが起こっています。
さて、五輪が終わって、明日から報道は『医療崩壊』一色になると思います。
— 知念実希人 小説家・医師 (@MIKITO_777) 2021年8月8日
現状、首都圏の救急医療はほぼ機能を失っています。
COVID19だけでなく、心筋梗塞、脳卒中、熱中症、交通外傷等でも治療を受けるのが難しい状況です。
残念ながらこの状況は最低数週間は続きます。
自衛をお願いします。
さまざまな変異株が発生しているように、ウイルスというのは進化していくものですが、今主流のデルタ株は自分も当てはまる20~30代でも後遺症が残るそうです。
ウイルスの進化というのは大体強力になっていくはずなので、前大丈夫だったから今も大丈夫という理屈は通りません。
個人的には先日のすしりくくんの話でも書いたように、こういった現象について話を聞くのはゲンナリしてしまいますが、それでもある程度の現状把握というものは大事ではないかと思っています。
先手を打っていくはずのリーダーが前者というのは恐ろしいものですけどね…。
そしてここまで状況を認知しているからこそ、先日は自分の行動に大後悔しました。
たった1日で、これまでの自分の努力を無に帰すかもしれないわけですからね。
HYDEさんはルールに則り安全にとおっしゃっており、実際に安全な開催に努めているとは思いますが、デルタ株ではこれまでと発症事例が異なっており、そのルールというのはデルタ株が流行する前に設けられたものですので、守っていればいいというのは違うのではないかなぁと感じたので、結局のところ、すべては自衛に努めるしかないと再認識しました。
まず第一に自分は病気にかかりたくないし、とてもじゃないけどこんな苦しい状況に追い込まれたくありません。
そしてもし私がウイルスを持っていたとき、たとえ自分が無症状や軽症で済んだとしても、自分が持っていたウイルスが家族や友人に移り、それが原因で取り返しのつかないことになってしまったら?と考えていたので、先日の誕生日も身内との予定を延期し、かれこれ3週間は知人と会っていません。
基本的な感染対策としては「手を洗う」「換気する」「距離を取る」「マスクをする」「ワクチン接種」がありますが、ワクチン以外はできるかぎり徹底しています。
残念ながらワクチン接種は年齢の壁によりまだしばらくの間受けられそうにありません。
打て打て言うけど、こちらとしては早く打たせてくれって話なので、今1番のモヤモヤポイントです。
これまでコロナ禍になってから1年半以上というもの、会って一緒に過ごした人は10人にも満たないですし、電車は乗っても月1~2回以下、元々マスクは好きじゃなかったですけど、誰かと一緒にいる時や外でも飲食時以外は率先してサージカルマスク以上のものをつけています。
マスクを選ぶときはASTMというアメリカの医療用規格を満たしているかを基準にしてきましたが、最近はN95マスク相当の高性能マスクも取り入れています。
ウレタンマスクと不織布マスクを50倍にして見るとこんな感じです😷
— Romy (@romyscafe) 2021年8月6日
左下の1目盛り=0.2mm
娘撮影☆ https://t.co/NvWLCy4JHD pic.twitter.com/Pm0AxKgX15
ウレタンマスクが効果薄いという情報は得ていましたが、実際に顕微鏡で見るとスカスカなのがわかるので、自分の目で確かめるというのはやはり実感が大きいなぁと思います。ナイスな自由研究ですね。
最悪のリスクに合わせて対策を講じる場合、こういった情報を集めて感染予防に必要と思うことを率先して取り組むのに対し、先程大まかには2種類いると書いたように、そういう考えの人ばかりではないので、危険だからしない方がいいよと呼びかけるために、政府も宣言やら措置やらを出す必要に駆られるわけですね。
これなんですよね…。政府のためでもなく、医療者のためでもなく、自分自身と大切な人たちを守るために自身の行動を変えて欲しいのに、なかなか伝わらない。。誰かが何かをやってくれる期待ばかり。ご先祖さまをお参りに行った結果自分自身がご先祖さまの仲間入りをするオチさえ充分あり得るのに。。。 https://t.co/eIu696kwqk
— qqdoctor @ COVID-19対応中 (@qqdoctor18) 2021年8月11日
しかしそういった方達にとってはただのイベント発生であり、感染対策というよりはただ強要されるものとなるので、何度も繰り返していると、別に嘘ではなくてもオオカミ少年のごとく効果は薄まってしまいます。
第4波くらいからは窓の外から街行く人の大きな声が聞こえることも増えてきており、最近は深夜の飲み帰りのような声も散見されるようになりました。
そんな中、お医者さんなどが善意で情報を発信してくださるのは本当にありがたいことです。
本来なら別にわざわざ嫌な思いをしながら知らせなくてもいいのに、誹謗中傷を受けながらも淡々と正しい情報開示に努める熱意はすごいと思います。
多分あとで消します pic.twitter.com/SfpmW5nz5S
— くらげ (@puyuxxx) 2021年8月8日
感染者の対応にあたっている医療従事者の方々というのは、感染の不安を抱えながらも1年半以上もの間ずっと、最前線で患者を救い続けている感染者の味方であり、決して敵ではありません。
ドラクエで死んでしまい、棺で教会に運び、復活させてくれた勇者や神父に対し、「狭いところに閉じ込めてんじゃねーよ」と言いますか?
今年の初めにも似たような内容のブログを書きましたが、自分と同じ1人の人間が自分よりもギリギリなところでずっと奮闘してくれているということを忘れないようにしたいところです。
また何を苦と思うかは人それぞれなので、病気という身体的苦痛を嫌だと思う人もいれば、目先にある好きなものに触れられない方が苦痛という人もいると思います。
そもそも私は人類全員が「生きることに前向き」だとも思っていないので、そんなの関係ないという気持ちなら想像できます。
昔の自分だったらきっと、つらい気持ちを一時的でも忘れさせてくれる快楽を求めただろうなと思いますし、実際にそれに近い感覚がチラッと出てしまいました。
正確な定義か判断するために
てっちゃんの配信の話でも触れたように、自分だけでの知識には限界があり、事実を知りたければ実際にその現象に接していて、そしてなるべくは人柄や身元のわかる人から情報を仕入れたいものです。
であれば1番は実際に治療の現場におられる方や過去にエボラなど感染症の治療経験がある専門家の意見を複数人チェックするのが、正確な情報への最短ルートではないかと個人的に考えます。
なんか特にコロナに関しては自説を強く唱える方をTwitterでも見かけます。
— Daisuke Shigemi@産婦人科医 (@Dashige1) 2021年8月11日
批判的思考は良いとしても、少なくとも
・研究計画書
・倫理審査申請書
をビシッと書けないならヒトを対象とした検証すら許されないのが医学・医療の世界です。
自説を唱えてる人の中で、上記を書ける人はいないのでは。
お医者さんの方々はこういった定義を基に日々研究しているそうです。
私にはその知識がないから、やはり専門家に頼るしかありません。
また、誰か1人がすべて正しいというのは考えられないので複数の意見が必要ですし、メディアを挟んでしまうと、別の主観が混ざり込むことが散見されるので、あくまで1人1人個人として判断していくのが望ましいと思っています。
以前、中田敦彦さんがYouTubeで「知識は全部自分が紹介するから自分のチャンネルだけ見ていればいい」という趣旨の言葉を投げかけていて、それがガチか冗談かわかりませんが、どちらにしろその発言は驕りであり、危険だと感じました。
彼は内容を把握してわかりやすく面白くプレゼンする能力はすごいと思いますが、だからといって情報判断力についてはまた別の話であり、あくまで1つの情報源にしかすぎません。
誰かの人生を左右する重みを感じない、無責任な発言をする人というのは信用ならないと思っています。
イベルメクチンに限らず(ワクチン含め)医薬品はゼロベースで評価するのが定石。最初に贔屓にしてはだめ。全否定してもダメ。自分にバイアスがあれば少し逆側から評価するのも大事。「議論の方法」を学ぶこと。多くの医者は議論の方法を知らない、特にベテランのドクター(議論したことないから)。
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2021年8月15日
そして現象をフラットな目で判断できる人かどうかも大事だと思います。
最初に前提があるとどうしても、その前提に見合った情報を集めてしまいがちです。
あえて言いますが、私は今年に入ってから「自粛すべきだ」とか「飲み歩くな」とか行動に対する価値判断が入る発言はほぼしていないと思います。「自粛せずに感染したら入院できませんよ」と言っているだけ。今回は「都知事もそれを言うべきでは?」って書いただけです。判断するのはみなさん。
— 手を洗う救急医Taka(木下喬弘) (@mph_for_doctors) 2021年8月13日
こういった条件に当てはまって発信をしてくださる方というのは、基本的にわからないことはわからないと言い、断定的な言い方をしたり、人に自分の意見を押しつけたりすることはせず、ただ情報の提示に努めていることが多いように感じます。
自分にできることが何かを領分含めて明確に把握しているから、自分のSNS等で発信することはあっても、わざわざ誰かに自分の意見を伝えに行くために時間を割いたりはしません。
誤った情報というものは、たった12人からの発信にもかかわらず、恐ろしいくらい広まり、お金まで稼いでいます。
そしてこういった情報をもとに発信する方というのは、人に情報を押しつける傾向があるように感じます。
変異株が続々出て状況はどんどん変わっているにもかかわらず、主張内容がずっと変わらない人も本当に?って思います。
いろいろ書いてきましたが、すべては私が個人的に思っていることであり、誰かに意見を押しつけるものではありません。
そして逆に、誰かから何かを言われて意見を変えられるものでもなく、私が私自身で情報を取捨選択していくというスタイルを変える気もありません。
一般市民1人の頭の中として、こういう考えの人もいるだなという観点でお楽しみいただければ幸いです。