配慮とは。しえるです。
少し前に「人権ない」という言葉が不適切とされ、プロゲーマーが契約解除されるニュースがありましたね。
「たぬかな」選手との選手契約解除のお知らせ|ニュース|CYCLOPS athlete gaming -CAG-(サイクロプス アスリート ゲーミング)
(ちなみに私はこの方を存じ上げず、良し悪しを論じる気はこれっぽっちもありません。)
そんな中で先日、ゲーム配信で出てくる用語一覧をつくっていて、「脳死プレイ」「命が軽い」など知らない人が聞けば「えっ!?」と思うような言葉は他にもいろいろあるよなぁって思いました。
【言葉より大切なもの】スラングから感じた100%の正解はないと思う話と「個人の尊重」と「表現の自由」の兼ね合いの難しさ。
ネットやゲームのスラングに限った話ではない
でもこれってゲームやネットの世界だけの話ではなく、誰にとっても身近な、どこにでもある話だとも思います。
たとえば今はロシアとウクライナの件で、日本でも若い層にとって「戦争」というものを初めて肌で感じ、それぞれ思う所がある様子も多くうかがえます。
しかしその一方で、「行列ができるようなお店やセールに行くこと」や「ライブに行くこと」に対して気軽に「参戦」という言葉を使う人もいます。
「参戦」は文字どおり、「戦争に参加すること。」という意味です。
私にとっては昔、たしかラルクのリーダーてっちゃんだったと思うのですが、「ライブに参戦という言葉を使うのは好きじゃない」といった主旨で話していたのを聞いて、ハッとさせられたのを機に使うのをやめようと心がけるようになった言葉でした。
ほかにも「帰宅難民」「買い物難民」と困った状況にある人々であったり、「チケット難民」のように「購入希望者が多くて買えない」だったり、ハンドクリーム難民やサロン難民など「自分に合うものが見つけられない」という意味であったり、いろいろな度合いのカジュアルさで「難民」という言葉を使う人たちもいます。
でも「難民」は本来、「天災・戦禍などによって、やむをえず住んでいる地を離れた人々。」「人種・宗教・政治的意見の相違などによる迫害を避け、国外に逃れた人々。」といった生死にも関わるような状況に見舞われた方々を指します。
また、難民同様にコスメなどに対して「さまよっている」という意味で「ジプシー」という言葉も使われることがあります。
「ジプシー」とは、北部インド起源に世界各地に散在する少数民族のことを指し、移動しながら暮らしていることに由来していました。
しかし現在は定住者も多く、さらには地域住民から差別や迫害を受けてきた歴史があり、「ジプシー」には軽蔑的な意味合いが含まれることから、現在は「ジプシー」ではなく当人らが自称する「ロマ(人間の意)」と呼ぶように変わっていっている背景があります。
ずいぶん前から定着していると思う言葉で言えば、「スクールカースト」もそうでしょうか。
こちらはインドのカースト制度になぞらえて生まれた和製英語で、差別という分野の意味では同類かもしれませんが、ヒンドゥー教の身分制度と比べればやはり軽いニュアンスで使われていると思います。
これら「参戦」「難民」「ジプシー」「カースト」といった言葉は本来、戦争や宗教に差別などセンシティブの代表格にまつわるものばかりですが、別にネットスラングに限った話ではなく、メディアや一般消費者も老若男女問わずにふわっと使ってきた言葉なのではないでしょうか。
多分何の気なしに私も使ってきていたでしょうし、なんならメディアや注目を浴びたい人にとっては、あえて強い言葉を使って煽る場面なんて日常茶飯事です。
100%正しいなんて不可能
でも私はこの記事で、これらの言葉を使うべきじゃないという話をしたいわけではありません。
使わないに越したことはないかもしれませんが、以前「ハートフル」や「マンU」について触れた時にも書いたように、言葉の正しさや全方向配慮を追求しきるのは不可能と言っても過言でないくらいに困難なものだと私は思っています。
そしてその言葉を使うときに、本来の意味を思い浮かべて話している人はどれだけいるでしょうか?
おそらくですが、そういった配慮がないとも捉えられる言葉って、私がそうであったように、多くはただなんとなく使いやすいとか語感がいいぐらいの理由で使っちゃっているだけで、本当に悪意をもって使ってる人は少ないのではないでしょうか。
本当に差別的な気持ちや悪意があって煽りたい人は、関係ない言葉を使っていても、いくらでも表現していくでしょうし、注目を集めるためにわざとセンセーショナルな言葉を乱用していくこともあるでしょう。
であれば、結局大事なのは言葉尻よりも、その人が何を意図しているかです。
配慮不足を指摘して言葉狩りや揚げ足取りをするよりは、「自分だって無意識に使っているかもしれない」という意識のもと、「気をつけられたらいいね」くらいの感覚に留めておくのが平和で健全なのではないでしょうか。
もし気にするのだとしたら、「自分がどうありたいか」という倫理観や「相手がどういう意図をもって発しているか」に目を向けるのが何より建設的ではないかと思ったりします。
侮辱罪の厳罰化検討について思うこと
最近、侮辱罪の厳罰化を検討しているというニュースがありました。
現在の侮辱罪は「30日未満の拘留」もしくは「1万円未満の科料」という軽犯罪程度の刑が処されますが、今回成立させようとしている案では「1年以下の懲役・禁錮」または「30万円以下の罰金」へ引き上げようとしています。
もちろん人を追い込む言葉も、他人に追い込まれる状況もいいとは思っていません。
重要度で言えば、「個人の尊重」>「表現の自由」だと思います。
人ひとりの命が失われているのに9,000円払って終わりというのは軽く、抑止力がないから名誉棄損罪と同程度に、というのもわかります。
ちゃんと取り締まる環境ができて、そういった悲劇がなくなる世の中になればいいと思います。
ただ、このままではちょっとやり方が危険だと感じるのです。
しかし、アメリカの歴史を通じて重要な数々の訴訟では、常に"適正手続"や"特権および免除""平等な保護""国教の樹立"といった用語の解読が行われてきた。
こうした用語はあまりにも曖昧で、それが実際に何を意味しているかについては、合衆国建国の父たちのあいだでも2人として同じ意見の者はいないのではないかと思うほどだ。
この曖昧さは、判事が自らの道徳的判断や政治的志向、偏見、そして恐れなどに基づいてあらゆる"解釈"を行える余地を与えている。
彼らは単に憲法を"解釈"して、個々の条文を起草者たちがどう意図していたかを読み解き、それを私たちが生きる現代に適用するための橋渡しをするだけだ。――『約束の地 大統領回顧録 I 下』
オバマ元米国大統領も著書でこのように書いてましたが、これまでの歴史を見れば、法律って「どう解釈するか」が常にと言っていいほど、争いの焦点になってきています。
以前「かかりつけ医」の定義が曖昧という話を書きましたが、定義がふわっとしていればふわっとしているほど、皆が自分の都合によいように解釈しやすくなるものだと感じます。
侮辱罪は親告制であることから、まずは本人が侮辱と感じて訴えるところから始まります。
名誉棄損罪であれば、具体性があるとか事実かどうかなど判断基準がありますが、侮辱罪の場合、わかっているのは批判・批評以外ということくらいで、何を「侮辱(相手を軽んじ、はずかしめること。見下して、名誉などを傷つけること。)」と感じるかは人それぞれ違うのではないかと思います。
具体的に「侮辱」とは?
一般的には暴力的な悪口を想定しているかもしれませんが、世の中にあるチクチク言葉は「死ね」「バカ」「クズ」と言ったあからさまな言葉ばかりではありません。
漫画『ドラえもん』でしずかちゃんが放った「ウッソー!のび太さんの顔はもっとおもしろい顔よ。」はネガティブな言葉がなくても、なかなか舐めてませんか?
たとえば、丁寧な言葉を使った悪口はどうでしょうか。
「ずいぶんのんびりしていらっしゃるのね」は「遅ぇよグズ」という意味で言っていたとしても、言葉だけ切り取ればそこまで乱暴ではないかと思います。
私の知り合いは笑顔で堂々と「若づくり」とか「かませ犬(引き立て役として対戦させる弱い相手のこと。)」とか放っていましたが、こういった意図的ではない、無知から来る失礼な言葉はどうなるのでしょうか?
真意を確認してはいないものの、言葉をちゃんと理解していたらさすがに「しえるちゃん、かませ犬だね!」なんて笑顔で言ってこないと思いますし、実際に「若づくり」を褒め言葉だと思っている人を見てしまったので、ポジティブなつもりで使い方を誤ったコメントをし、それを相手が侮辱と受け取って訴えられるということも、もしかしたらありえるのかもしれません。
そもそも日本では容姿について触れる文化が浸透しすぎていますが、それがたとえ褒めているつもりであったとしても、海外では「失礼な人だ」「非常識」と捉えられることは少なくありません。
「私は素敵だと思う」って伝えられるのなら喜べるけど、「目が大きいね」「痩せてて羨ましい」「若く見えるね」などと言った言葉は、たとえ自分が素敵だと思ったのだとしても、相手はコンプレックスと感じているかもしれないし、人の容姿に対して評価してくるの何様?と思います。
対象が「生まれ持った先天的なもの」であるか「自力で身につけた後天的なもの」であるかの差、そしてあくまで「個人の感想(I think)」であるかどうかの差というのは、とても大きなものだと思います。
具体的に言えば「痩せていて羨ましい」は「あなたは痩せている、それを私は羨ましいと思う」という意味なので、相手に対して勝手に「痩せている」と評価し、断定してしまっているということですね。
この点は、私がブログを書くときに1番気をつけている部分でもあります。
海外で外見について触れることは失礼になることが多い | 英語びより
母親と欧州を旅行したら、現地で「日本人であること」を押し出す母の振る舞いがストレスとなってしまった話 - Togetter
このように、人によって語彙力や倫理観の差はありますし、コンプレックスや心の琴線に触れるものも異なってきますが、受け取り方しだいでもある言葉のどこまでを侮辱として追うのでしょうか?
そして私1人でもこのように想像ができるのであれば、世の中にはもっと幅広い解釈があることは想像にかたくありません。
世の中には実際に被害を受けて苦しんでいる人もいれば、どれだけ相手からふんだくれるかばかりを考えている人だっています。
訴えられるのを確実に避けたいのであれば「ネット上に書き込まない」という選択肢もあるかもしれませんが、ネットを楽しむという個人の自由を萎縮させたことになります。
侮辱罪の厳罰化について取材が来た。
— 弁護士 吉峯耕平(「カンママル」撲滅委員会) (@kyoshimine) 2022年3月9日
資料を見ると、法制審議会は2回で終わっている。え、2回???
最大の論点の侮辱と適法な悪口の区別の基準については、「今回の法改正は要件を変えるものではない。区別基準は、従来からあった問題で、今回の改正で問題は変わらない」という論法で乗り切った模様。
ルールをつくるのであれば、ピンからキリまで考えていかないとバランスが崩壊し、意図しないところで、めちゃくちゃになってしまう可能性を秘めていると思いますし、だからこそ独断で決められないように仕組み化されてきたはずです。
たった2回の審議で刑法を変えようとしていますが、憲法で定められた「表現の自由*1」と「個人の尊重*2」に関わってくる繊細な内容で、「言葉」という日常的に使うものに対し、本格的な犯罪として取り締まるのであれば、もっともっと慎重に検討を重ねる必要があるのではないでしょうか?
先程スラングの話や悪口の例で書いたように、言葉というものは、どんな意図や心持ちであるかや語彙力の差によっても意味が大きく左右されるものであり、単純に「これはダメ」とできるような話ではありません。
そして、特に「指導」や「笑い」が関わってくる場面で多く見かけると感じますが、言葉を投げかける側も受け取る側も、「批判」と「悪口」の違いを理解していないということは往々にしてあることだと思います。
ちなみに「批判」と「悪口」の違いについて書き出すとまた長くなるので今回は割愛しますが、Jリーグ前常勤理事の佐伯さんによるnoteでわかりやすくまとめていらっしゃるのでリンクを貼っておきます。
批判と悪口って結構紙一重なところもあって、批判が行きすぎて悪口になってしまうこともあるし、集団になるほど過激化する傾向もあります。(私は誤解による批判から始まって、徐々に悪口になっていき、500件超のLINEが溜まっていたことがあります。誤解が解けたあとの気まずさはエグかったですねw)
また、切り抜き動画が流行っていますが、切り抜き方でいかようにも見え方が変わってしまうように、指摘された言葉以外の文脈や背景、思考の傾向や立場によって、捉え方はいかようにも変わってしまいます。
日常的に発生する可能性が潜む中で、ただでさえ判断がとても難しい言葉を誰がどういう線引きで侮辱と判断するのかがあまりにも曖昧なまま、刑罰だけ強くなるのはとても危険と感じます。
そして解釈の幅が広いということは下手すると、「それは批判ではなく悪口だ」とされ、処罰されてしまうことだってありえるかもしれません。
それだけ都合よく解釈できる余地がありそうに見えるものは怖いものだと私は感じてしまいます。
しかも侮辱罪って公然の場が対象なので、脅迫ほどの内容ではないSNSのダイレクトメールなどでの侮辱は無法地帯のままであり、見えないところでの中傷が増えるなど手段が姑息になる可能性もはらみます。
本当に悪意がある場合は、あの手この手で抜け道を探してくるのは自明の理ではないでしょうか。
ただでさえ時代の進化についていけておらず、法整備が後手後手だと感じる中で、取り締まる対象の見直しなどを検討するのもとても大事なことではないかと私は思いました。
SNSに「ブタ」と書いたら懲役刑…侮辱罪の厳罰化で「政治家の悪口も言えない」 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]