楽しむって大事だなぁと改めて思いました。しえるです。
つい最近、洗濯機周りにエプソムソルトをぶちまけてウンザリしていた私。
でも人気YouTuber・すしらーめんりくくんの動画で、私の何百倍もの大量の水をぶちまけても、楽しみを見出だしながら作業する姿を見て、ハッとさせられました。
実験系YouTuber・すしりくくんの動画で思い出した「楽しむ」という気持ちの話。
めんどくさいことにも面白さを見つけるということ
ぶっ飛んだ実験で人気なすしらーめんりくくんは、身近なものや疑問をとにかく楽しんで検証していくYouTuberです。
この動画では、特大プールに入っていた120Lバケツ×20杯前後分もの水の片づけという現実に、「ヤバイ!助けてー!」「どこからどうすれば…」「何時間かかるのコレ…」と放心し、思わず逃避して遊び始めます。
でも、いざバケツで水を汲み始めたら必殺技を見つけ「意外とめっちゃ楽しい」と言い出し、サブチャンネルで片づける様子まで撮り始める始末。笑
他にもカラーボールをぶちまけたり、すしりくくんの動画では散らかすのが日常茶飯事な展開なのですが、愚痴りながらも片づけまで面白くしようと、何事も全力で楽しんでやり遂げる姿がいつも素敵だなぁと思います。
そういえばゲーム感覚だった初仕事
思い出してみると、初めての仕事はほとんどゲーム感覚で楽しんでました。
制作のルールや操作、機能などは自分の好きなものに当てはめて覚えたので苦なくすんなり入ってきましたし、先輩から出されたお題をクリアしようといつも没頭して取り組んでいました。
当時はサッカーが大好きだったので、好きなチームのエンブレムをつくってみようとか、仕事の合間も楽しんでソフトに触れていたことを憶えています。
そんな感覚だったので、難しい発注やゴールの定まってないふわっとした発注も、いかに相手を納得・満足させられるものをつくれるかと、いつもワクワクしていました。
また私が初めて働いたところはクセの強い方が多い職場で、上司も同期も後輩も発注者さんも未知の存在だらけでした。
それらに対しどういう対応をすればスムーズにやりとりできるのか、楽しみながら試行錯誤していたものです。
中には仕事内容を一切見ずにただ見下してくる方もいたりして、失礼な相手の言動に、私の周りにいた同僚たちが代わりに怒ってくれることも度々ありました。
ただ私にとってはやはりゲームの攻略感覚だったので、めんどくさい相手にムカつきはするものの、「くっそー!どうやって認めさせてやろうか?」と燃えたりしていたものです。
どう攻略するか考えるのは楽しかったですし、仕事上で強敵を黙らせたときは心の中でガッツポーズしてました。
キャパオーバーして学んだこと
その後、苦手なものも同じ意気で取り組んではいましたが、キャパオーバーすると落ちたり燃え尽きたりするものだということも学びました。
そういったメンタル状態では、何かが上手くいっていないときや苦手な物事ほど、楽しむ余裕というものは失ってしまいがちで、そんな状態で自他関係なく責められる環境にあると余計落ち込んで、普段できていたことまでできなくなるような悪循環に陥ってしまったりします。
だいたい責められるようなことが起こったとき、他人から責められなくても本人は十分落ち込んでいるもので、それ以上他人が追い打ちかける必要ってそうそうないと思うんです。
んで責められることに慣れてしまうと、他人が責めてこなくても自分で自分を責め続けるようになってしまったりします。
もし怒りの感情を根性で耐えしのぐような大変な状況にあるのなら、それにはきっと限界がある。
自分自身を変えられないと直感でわかったら、無理に努力する必要はないと思う。
だけど少しでも努力ができるのであれば、自分が変わろうと頑張ってみたい。
だからこそ、自他ともに責められる環境からは抜け出し、楽しもうとする気持ちというのが非常に重要だと思います。
楽しんでいるときが1番活力が湧いているし、自ら率先して動けるので細部まで目が行き届くし、結果として義務感でしかたなくやったものよりもよいものができあがるんだなぁという実感があります。
「好き」は必ず、何かを生み出す種になる。
初めての経験をしまくることって、必ず人生を豊かにする。
種を開花できたら、そこが自分の居場所になる。
それは運命に似たものかもしれない。
辿り着く時期は人によって全然違うのだ。
集めてきた経験があればあるほど最後に開くものは大きいし、その居場所はきっと自分を思いっきり楽しませてくれる。
どこかに出かけたり、未知の体験をするとテンションは自然と上がったりするものですが、そういったスイッチのない日常生活も視点を変えてみるなどして、楽しみを見いだしていきたいものですね。
どうせなら、やってる人が少ない分野を開拓してみたい。
同時に、その分野は熱中する人がまだ少ないということだ。
だとするとそれに「楽しさ」を見出すことができたら、特別なんじゃない?と思える気がしてる。
「これを俺より楽しんで極められる人はいないだろう!」
そういう自信がやる気の源になるし、意外なところにある偉大な隙間を見つけるというのは、宝探しみたいでワクワクしてしまう。
現実を見つめるのも大事ですよね
すしりくくんは呆然とし、愚痴りながらも、被害状況とかちゃんと確認してるんですよね。
荷物が被害受けてること、水の流れ出た範囲・量、自分たちの装備、どこに排水するか、どのくらいの往復が必要で、どのくらいの時間がかかりそうかなどなど。
どんなに目を背けたくても、問題を解決するには現実を直視しないことには始まりません。
たとえば、支払い日前。
今月は稼ぎが減っちゃったなぁというときとか、結構使ったなぁという月は、ちょっと残高照会や請求額を見るのが怖かったりします。
でも怖いなぁ~と思って見ないでいると、引き落とし額を下回っていることに気づかず、未払いが発生してしまったりします。
ちゃんと確認して気づいていれば、いつまでに短期の仕事を探そうとか逆算したり、別の口座から移そうとかポイントを使おうなど対策を練ることができます。
しかし期限があるものは、直前になればなるほどできる対応策というのは限られていってしまいます。
掃除でもよくありますね。
そういえば最近排水口掃除していなかったなぁ…と気づいたとき、億劫になって余計やらなくなってしまったりします。
そうするとさらに汚くなるだけなんですけど、見ないでいる間は問題が起こってないように錯覚してしまうんですね。
いつかは掃除しないと、悪臭や詰まりで業者を呼ぶ羽目になったりして、ただ掃除するだけでよかった問題に何倍もの労力やお金がかかってしまったりします。
汚部屋になってたときとか問題山積していたころは、たくさんのことを見て見ぬふりしてきたなぁと思います。
「あぁ片づけなきゃなぁ…」と思いながらも先送りにし続けていると、やがてそれが普通になってしまうんですよね。
散らかったところは背景として見なくなって、それでも心の中では「片づけなきゃ」と自分を責め続けていたりして…、結果としてただ自分のメンタル削るだけの時間となっていました。
そんな感じで私は軽く20年以上は問題を直視せずにため込み続けたので、それはもうそびえたつ壁が大きすぎて何度も心が折れました。
けど少しずつ、1歩ずつじわじわと、時には無理をして停止もしましたが、向き合い続けてきたおかげで壁の輪郭が見えるようになって、今では問題を解決して乗り越えてこられた実感があり、自分の手に負えるキャパシティーというものがわかってきたし、責めない分、心もだいぶ軽くなったように感じます。
だから呆然としてても、愚痴りながらでも泣きながらでもいいから、現実と向き合うということはとても大事だなと思うこの頃です。
自然になるまで何度でも思い出したい感覚です
仕事を辞めて1年以上経つと、新しい生活の変化というのも日常になってしまいます。
すしりくくんには共感できる部分が多いと感じているのですが、日常生活というのは慣れというものが生まれてきますし、つい目の前のことにとらわれて、これまで乗り越えてきたものや楽しむ気持ちというものを忘れてしまうときがあります。
でも何か特別なことがなくても、なんでも楽しめる人って最強だと思うんですよね。
この感覚が何でもないときやイヤだなと感じるときも自然に出てくるようになりたいなぁと思って、忘れないように定期的に心がけていきたいなぁと改めて思いました。
余談:実行から片づけまでで1ローテーションという基礎
すしりくくんのYouTubeチャンネルというのは「思いついたアイデア→準備・制作→トライ&エラー→片づけ」の繰り返しで、すべてにおいての基礎が詰まっていると感じます。
テレビや何かしらの舞台などを見ていると、基本的に完成品のお披露目だけです。
YouTubeはもう少し流れを追っているとはいえ、準備~トライ&エラーがコンテンツとなっていることが多い気がします。
まずはこのアイデアを実行するというのがとてつもなくハードルの高いものです。
そして実際にはその後、撤収作業があるわけですが、まぁ映されることは少ないですよね。
その影響かはわからないですけど、メイン以外の時間や労力を軽視したモラルのない無茶ぶりや強行突破を見かけるのは少なくありません。
私は掃除係じゃありません
飲食店ではメインの料理人が散らかしの達人で、毎回凄惨な事件現場のような状態にしながら「料理したら仕事は終わり」という感じで止める間もなく帰っていく姿にイライラしたものです。
しまい方などを工夫するとそこだけキレイになっていくのは面白かったですが、自分は特に片づけが得意というわけではないし、他の仕事もあってキャパシティーを超えています。
そんなストレスはこの先の人生に持ち込みたくなかったので、離れられてよかったと思っています。
タダと決めていいのは自分だけではないでしょうか
この前会った社長さんにタダで描いて欲しいと言われて断ったところSNSで「心意気が無い」と愚痴られる事案が発生。そのコメント欄も「アーティストがお金を求めるのはいやらしい」というような意見で溢れる。なんかすごい嫌な気分だけど自分が間違ってない自信しかないので静かにフォロー外して酒飲む
— 田中ラオウ/画家 (@raoutanaka) 2021年4月28日
絵というのは何をどんな構図で、どんな画材・色を使って書くかという構想から入り、下書きをしたり、何色も重ねて、時間をかけて描き上げています。
それをタダで求める人には引いてしまいます。
本人が納得していれば「タダでいい」と言い出しますし、その判断をできるのは本人だけと思うんですよね。
何のために誰がお金をかけているのかということ
来る意志のなかった直前の予約キャンセルやドタキャンもされる側はつらいですね。
そのために人員や必要なものを用意し、すでに諸経費が支払われているのに回収できず、なくなった使いみちや空いた穴の補充を新たに用意しなければならないのですから。
以前、採用したバイトにバックレられたことがあるんですけど、支給した制服等の備品が返ってこなかったんですよね。
職場の備品というのは仕事に必要だからと会社がお金を払って用意しているものであり、今考えるとただの横領罪です。
ほかにも「会社に暮らしたらダメな理由ってなに?」という書き込みを見かけたことがありますが、そもそも職場の賃貸料や光熱費というものは、仕事をしてもらうために会社が払っている経費であり、社員の生活費を負担するためではありません。
もし負担する意思があれば制度や社員寮などが用意されているはずで、なければ自分の生活費は自分で面倒見るしかないでしょう。
私は最初の職場では清掃員の方がいらっしゃったのですが、転職した先で、自分で掃除して自分でゴミを捨てなきゃいけないんだとカルチャーショックを受けたものです。
そして最初の職場は、社員が働きやすいように会社がお金をかけてくれていた恵まれた環境だったのだと気がつきました。
またゴミを捨てた後も回収や処理をしてくれる人がいるわけで、何もしなかったらゴミ出ししても収集場はゴミだらけのままです。
当たり前のようで忘れがちですがその回収や処理にかかる費用は、税金として自分が払っているものです。
現在の社会は何事もお金や時間をかけてその環境を準備し、後始末をしている人がいるんだというのを忘れてはいけないなと思います。