「天泣」を聴いて箏の音色の魅力に気づき始めました。しえるです。
アミューさんによる大好きなお箏(コト)漫画「この音とまれ!」が、7月13日まで「ゼブラック」や「BOOK☆WALKER」で1~17巻まで無料公開ということで読み直してみたら、登場時と今読んでいるところとでキャラが違いすぎて(主にさとわ)ビックリしました。
そして、だからこそ改めて、時瀬高校筝曲(そうきょく)部が積み重ねてきた箏の練習成果と人間関係の構築にグッとくるものがあります。

この漫画では、箏や筝曲部と向き合っていくことで部員たちが得ていく絆、つまり「人とのつながり」がとても丁寧に描かれていますが、今回はその絆を築いてきた3つの「信じること」について触れてみたいと思います。
お箏を題材にしたマンガ「この音とまれ!」で感じた3つの「信じる」の重要性【美しき時瀬高校筝曲部の絆】
あらすじ
時瀬高校・箏曲部は、先輩たちの卒業により廃部寸前。ただ一人の部員となってしまった武蔵は、新入部員集めに苦戦していた。しかし、そこへ見るからに不良そうな愛や箏の天才であるさとわ、愛の友人・実康ら3バカが入部したことで状況は一変。ドタバタしながらも懸命な練習を重ね、学校中を納得させる演奏をするまでに。武蔵と同学年の妃呂も加わり、部員数7人となった時瀬箏曲部は県予選大会へ臨み、全国大会への切符を手に入れるまでに成長したのだった。
そして新年度、新入部員の侑と名都を迎え、時瀬箏曲部は新たなスタートを切る!!
1巻試し読み
相手の言葉を信じること
本音を話さなくなっていくきっかけって、自分の言葉が届かなかったとき、もしくは相手を傷つけてしまったと感じたときのどちらかってのは多いのではないかと感じます。
それはのちに時瀬高校筝曲(そうきょく)部に入部するお箏の家元の娘・鳳月(ほうづき)さとわや、冷やかしで入部した来栖妃呂(くるすひろ)のように。
自分が本音ではなく建前で話していると、相手の言葉も建前だろうなと思うだろうし、それでは相手の言葉を信じることはより難しくなります。
つまり相手を信じるためには、まずは自分が本音をさらけ出せるようになることが大事なのではないでしょうか。
また「どうせ私の言葉なんて届かない」と感じる場合には、もしかしたら自分が相手の言葉を聴こうとしていなかった可能性もあるかもしれません。
私は初対面やよく知らない人からでも、「実はね…」とか用件以外の身の上話を聴くのは日常茶飯事で、「そんなことまで話しちゃうの?」というくらい色々聞き出してしまうので(おじいちゃんの秘密の趣味の話とかかわいくて仕方ないですw)、周りから「話しやすい」「聴くのが上手い」もしくは「聴きすぎ」と言われることがあるのですが、それだけふだん話を聴いてもらえず我慢を重ねている人が多い世の中ってことなのかなぁと感じています。
噂や憶測ではなく本人の言動を見る
先輩たちの卒業により、部長の倉田武蔵(たけぞう)1人となってしまった時瀬高校の筝曲部。
その部室は不良のたまり場となっており、武蔵が暴行を受けそうになっていたところに、新入生の久遠愛(くどお ちか)が飛び込んできて蹴散らします。
「西中の久遠」といえば、警察沙汰の事件を起こした不良として知れ渡っており、上級生や地元民の間でも恐れられている存在でした。
不良に部室を荒らされ続けてきた武蔵は、そんな久遠の「筝曲部に入部しに来た」という言葉を信じられません。
「荒らしてるのは君もだろ!!
っ何なんだよ一体!突然押しかけて好き勝手やって
何企んでんだよ!部に恨みでもあるのか!?」「だから『入部』だっつってんだろ!何度も言わせんな!!」
「信じられるわけないだろ…」
武蔵の言葉を受けて部室を立ち去る久遠。
そこで初めて武蔵は、久遠が荒らされた部室をキレイにしようとしていたことに気がつきます。
翌日、武蔵は久遠のもとを訪れますが教室にはおらず、代わりに久遠の友達の高岡哲生(てつき) から噂の事件の真相を聞きます。
「不良だろうが何だろうがあいつは俺の孫だ
俺があいつのじいちゃんでいたいんだよ」
実際に久遠は昔荒れており、誰のことも信じられずにケンカに明け暮れていたのですが、箏職人であったおじいちゃんと過ごすうちに、ケンカやその仲間から離れていくようになりました。
しかしそれを面白く思わなかった昔の仲間が、久遠のフリをしておじいちゃんの家を襲撃し、それが直接の原因かはわかりませんが、その後おじいちゃんは亡くなってしまいます。
そんな背景から久遠はおじいちゃんが大切にしていた箏を知るため、おじいちゃんのつくった筝曲部に入部しようとしていたのでした。
「来い!!」
「は!?俺は何もしてねぇよ!それよりコイツを――」
「だまれ!誰がお前の言うことなんて信じると思うんだ!!」
そんな中、久遠に追い払われた部室荒らしの不良たちが報復として、久遠のフリをして武蔵や部室を襲撃してしまいます。
倒れた武蔵に駆け寄る久遠に対し、騒ぎに駆けつけた先生たちは久遠を犯人だと思い込み、信じて疑いません。
「ヒドい目に遭ったわね、例の久遠って子にやられたのよ
久遠って子とはもう関わらない方がいい!
関わるとロクなことにならない!今回ので分かるでしょう!?」
いてもいなくても一緒なんて言われる僕とは住む世界が違う
――久遠君と関わるって…こういうことも覚悟しなきゃいけないんだ
いてもいなくても一緒なんて言われる僕とはやっぱりもう関わるべきじゃないんだ
僕は部を守らなきゃ――…
「ここの筝曲部をつくったのがあいつのじいちゃんだからなんです」
「あんなんで何が大事だ 笑わせんな
てめぇの”守る”は何もしねぇことか!」
襲撃犯が誰かわからず、保健室の先生から「ロクなことにならないから」と久遠に近づかないよう諭される武蔵は、部を守るために先生たちの言うとおりにしようとします。
しかし、汚された筝曲部の看板がキレイにされていることに気づき、不良を追い出し、荒らされた看板を拭き上げ、部室を整頓するなど、筝曲部を守ろうと実際に行動していたのは久遠であったことに思い至ります。
久遠君は筝曲部の新入部員なんです
部室にいてあたりまえでしょう!?
校長室に呼び出され、何があったのか説明を求められる久遠のもとに、武蔵が駆けつけて犯人ではないことを先生たちに伝えます。
「誰がお前を信じる!どうやって!!!」「白状しろ!」
「…俺――…」
「こんのくそガキャ!じいちゃんをナメんなよ!ちゃんと分かってる!」
武蔵が久遠はやっていないと信じ、擁護してもらえたことに、昔の事件のときにもおじいちゃんが自分のことを信じてくれたことがよぎります。
こういうとき、周りがどれだけ疑っていても、自分のことを信じてくれる人や話を聞いてくれる人が1人いるだけで本っ当に救われるんですよね。
(昔、誤解からLINEグループで炎上したことがあるんですけど、1人だけ私の言葉を聞くまで何も言わないでくれていたことがありました。
夜勤明けで寝ていたというタイミングの悪さもありましたが、人って友人だと思っていた人たちであっても、疑念だけでいくらでも膨らんで拍車がかかっていき、500件以上もあることないこと無関係なことと責め続けることができることを知りましたし、そのおかげで私の言葉を聞いて判断してくれる人がたった1人でもいることがどんなにありがたく、嬉しいことかを痛感しました。)
出元の分からない憶測による偏見や先入観を捨てる
「なぜ君が筝曲部に入部を…?」
「――…祖父が…ここの筝曲部は俺の祖父がつくったものだからです
祖父が大事にしていたものは俺のせいでほとんど壊れました
だから残ってるモンがあれば守りたいし
祖父の大事にしてたものが どんなものなのかちゃんと知りたいんです
――だから筝曲部に入部しました」「っそんな話が――」
「嘘ではないでしょう、彼の祖父というのは私の友人です」
「だ だからといって久遠がやってない証拠にはならんでしょう!
大体その祖父の家をこいつは――」「言葉を慎みなさい!!それこそ証拠のないこと
偏見から生まれた憶測でしかない 違いますか?」
久遠の祖父と友人であった校長は、久遠がどんな思いで筝曲部に入部したのかを尋ねます。
そして久遠の言葉を傾聴する校長とは逆に、久遠の粗暴さや噂による偏見から一向に久遠の話を聞く気のない教頭は、校長から一喝されてしまいます。
勝手に決めつけない
武流(たける)
何も知らないくせに勝手なこと言うな
人は自分の視野のうちでしか物事を考えられないものだと感じます。
自分が出元のわからない憶測の源にならないためにも、また自分が決めつけられないためにも、勝手で余計な決めつけはしないに越したことはありません。
本人の言葉を聴く
俺 本人が言ったことしか信じねぇから
これは私自身、なるべくそうであろうと気をつけているものです。
責任から逃れようと誰かのせいにしたり、他者を引きずり落として陥れようとする人もいる中で、よく知らない間柄の本人以外の言葉を信じてしまうことはとても危険なものだと思います。
繊細でネガティブな内容であればあるほど尚更のことです。
お互いの生活パターンが合わないときなどすれ違いやすかったりしますが、相手の状況が見えないときに対話まで減ってしまうと、お互いに疑念が湧き出てくるもので、それぞれで愚痴る相手がいたりすると対立は一層深まるものだというのを経験して散々な目に遭いました。
だからこそ当人同士のコミュニケーションはとても大事と考えています。
伝言ゲームで最初の言葉が正しく伝わらないように、間に誰かが挟まれば挟まるほど、元の状態から遠ざかっていくものだと思います。
そうなると相手の真意を知りたいとき、憶測とか無関係な他人の感想とかを耳に入れる必要ってないと思うんですね。
なので私はなるべく本人ソースを知ろうと心がけており、最近もデマ情報やメディア対応が話題に上がるのを見かけますが、是非を問い詰められている状況であればあるほど、その気持ちは一層強まります。
「ただ何か理由があるなら聞こうかと思って
――ちゃんと話してくれるならちゃんと聞くから」
相手の言葉を聞いてから、自分がどう感じるかを判断しても全然遅くはないし、むしろ判断を間違えないために欠かせない大事な意思疎通の時間だと思います。
身近な人であればあるほど、当事者としての主観や感情が入ってしまってなかなか難しかったりしますけどね。
「え 何あれ…あれが時瀬の筝曲部…?柄悪…」
「怖…不良じゃん…あんなのが本当に箏やってるわけ?」
「そーゆーの本当迷惑」
「うちら本気でやってんのに」
そして本人と言葉を交わさず、見た目とかジャンルで決めつけてしまうほどに、本質は見えてこないものだと感じます。
自分を信じること
私はこれまでの経験だったり、いろんな所でもらってきた言葉だったりのおかげで、少しずつ自分を信じることができるようになってきました。
しかし、自分が全幅の信頼を寄せる友人らが「自分にはできないから」「○○だから私には無縁の話」といった言葉を発するたびに、とてももどかしく思うと同時に、自分を信じることの難しさを改めて痛感します。
現状となりたい姿がかけ離れていても気にしない
「僕みたいな凡人には全国目指すことさえ夢みたいなことなんだ
実力に見合わないほど夢をもつほど子供でもない…!」「――実力なんて目指してからついてくるんですよ
上を目指さない人に実力なんて一生つきません
だったらなんで去年の予選会 落選結果の後泣いていたんですか」
自分が上達したことで周りのハイレベルさに気づいたとき、現状がともなってないおこがましさを感じて、勇気をなくして尻がすぼんでしまうことはあります。
でも行動をしないことには、実力というものはついてきません。
個人的には昔、パソコンが苦手で、圧倒的に美的センスがないと思っていた仲いい同僚のおじさんが「フォトショで画像編集ができるようになりたい」と言い出し、最初は周りも笑っていたのですが、努力に努力を重ね、仕事として成り立つほどに成長していく様を間近で見ていたのには、とても大きく衝撃と影響を受けました。
その友人は他にもパンやケーキをつくれるようになったり、フルマラソン大会を完走するようになったりなど、ゼロの状態からひとつひとつ会得していっていて本当に尊敬しますし、私がもっといろいろできるようになりたいと思って、転職や一人暮らしをリアルに考え始めたのもこれが1つのきっかけだった気がします。
別に今からでも遅くないだろ
たとえ大人だろうが今日のあいつらみたいに
何かに全力になって本気で楽しめば
同じように輝ける
そういうのを忘れて
「もうできねぇ」って思い込んでる大人が多すぎるだけだ
変な話だよな
大人なんてガキの頃よりずっと自由で
やろうと思えば何でも自分の責任でできちまうのに
今ではYouTubeとかで簡単に人が1歩ずつ成長する姿を目にすることができますよね。
何百万人という登録者のいる大物YouTuberたちも、5~10年前の動画を見ると今とは違ってただの素人だったことが一目でわかります。
「――鳳月さんに言われた通り 確かに僕…心の底では全国に憧れてた
でも去年惨敗して 思い知って それでもまた上を目指すって言う勇気が僕には無かったんだ」
その一歩を踏み出す勇気って大きい壁なんですよね。
ずーっと最前線で活躍しているような方たちというのは、自分の力不足を認識したうえで、それでも励み続けて邁進していらっしゃるのだろうなぁと今は思います。
自分を信じてくれている人の存在に気づく
「なあ 愛 お前 自分のことあきらめるなよ
周りがまだお前のことあきらめてねぇのに
お前が一番最初に自分見捨ててんじゃねぇ
そんなんじゃいつか本当に孤独になっちまうぞ」「――…今と何が違うわけ?」
他人が信じられず自暴自棄なときって、周りの人の心配や愛情はなかなか届かなかったりします。
私も気がつくまでにとっても時間がかかりました。
自分を見捨て続けていると、実はすぐそばにいた自分を信じてくれている人の存在に気づかないまま、味方を失ってしまうこともあります。
できれば久遠のように取り返しのつかない後悔をする前に気づきたいものです。
自信がなくても経験に裏打ちされていく
「お前あんな風に言われて悔しくねーのかよ」
「や…ああいう反応慣れてるし」
「バカにされることに慣れてんじゃねぇ!!」
「っ…別にそういうわけじゃ…
ただ気にしていないってだけで」
「だったらもっと堂々としてろよ!
笑ってごまかしてんじゃねぇ!!」
時に「そんな(くだらない)ことやってるの?」と下に見られたり、過去の状態しか知らない人に対して、現状で成果が出せていないから何も言い返せないことってあります。
その挫折や打ちのめされた経験によって、今の自分が手応えやワクワクを感じていたとしても、下側の立場を甘んじて受け入れていた過去の自分が顔を出し、恥ずかしい気持ちになったり、がんじがらめになって動けなくなったりします。
お前元同級生には笑ってごまかして
俺からは目をそらすのか
周りをひっぱっていかなきゃいけねぇ部長のお前が
自分の気持ちにすら自信もてねぇようじゃ
全国なんて到底無理だな
自分の気持ちは自分だけのものなはずなのですが、そういった気持ちに飲み込まれてしまうと、培ってきた何かは簡単に吹き飛んでしまって、何もできなかった頃の自分に気持ちが戻ってしまったりします。
――自信なんてどうやってもてばいいんだよ…
自信のない人間にとって、自信を持つというのはとても難しいことです。
自信なんて一朝一夕でつくもんじゃない
だから今はせめて部長としてやれることやらなきゃ
やらなきゃ
やらなきゃ、できなきゃ、弱音を吐いちゃいけない、自分でどうにかしなきゃ…。
ついそんなサイクルに人は追い込まれがちです。
そうやってあがいている間は本当に苦しいものですが、実は周りは疑ってすらいないのに、自分で自分の不足を追及し続けている、その頑張りをいつまでも認められずにいるのは自分だけだったりすることも往々にしてあります。
しかしある日ふと突然、そのあがきは身になっていることに気づいたりもします。
がむしゃらになっている間は気づきにくいけど、その時に得たものってちゃんと蓄積されていくんですよね。
不足の追及より補い合いの精神で自分の価値を否定しない
でも今は1人じゃ足りない部分とか欠けてる部分を助け合えるものなのかなって思います
一見何の接点もなさそうなメンバーが足りない部分補うみたいに支え合っててそれが…そーいうのがなんか…いいなって思ったから…
「~しなきゃ」が生まれる背景には、他人の欠点や過失など粗探しをして追及し合うコミュニティの存在もあったりします。
でももううんっざりなんです
会のしがらみも辛い過去も
自分がそれに縛られるのも
縛られて動けない誰かを見るのも
しかし、そんなコミュニティからは脱して、苦手なものは補い合えばいい話です。
そういったコミュニティってやめた人について、ふと思い出してはあれこれ定期的にけなしたりするので、その場にいたら蝕まれてしまうのも仕方ないことです。
誰かを犠牲にしないとエネルギーが生み出せない場所に明るい未来はないと思います。
「それにお前筝曲部の部長をやってるそうじゃないか
なぜ言わない」「なぜって…別に言う程のことじゃないし
部長って言っても俺一人しかいなかったからなっただけで…」「武蔵 自分で自分の価値を下げるんじゃない
お前一人しかいなかったということは
お前は一人でも存続させようとがんばったってことだろう
十分立派なことだ」
「できて当たり前」的な考え方がまん延していて、自分がやってきたことやできることに対しての価値を下に見積もってしまう場面って多いように感じます。
たまたまやってただけとか、誰にでもできるとか、自分の力じゃないとか。
でも100%全員ができることってほぼないと思いますし、きっかけが何であったとしても、レベルがどの程度であったとしても、自分がやったことに価値ってあると思います。
やらなければその物事が動くことはなかったのですから。
部を1人でも守り続けていた武蔵がいたから久遠は入部できたし、久遠が部を守ろうとしてくれたから武蔵は筝曲部の部員を増やし存続することができました。
どちらが欠けても成り立ちません。
先日も友人が「音程聞き取ることくらいは誰だってできるよ」と話していて、それは全然普通じゃない、すごいことだよって思いました。
どおりで当時、私が主旋律を聞き取るのでいっぱいいっぱいだったのに対し、軽々と和音や伴奏を再現してみせていたわけです。
それができるから音楽で食べて行ける人がいるのであって、携わらない人からすれば、なんですぐ弾けるの?とかそういうレベルではないかと思いますし、だからYouTubeとかで初見で演奏がコンテンツになるわけですよね。
自分ができること、やってきたことをかけ合わせることで唯一無二のものが生み出せるわけで、すべては価値のある大事なものなのだと思うこの頃です。
相手が信じてくれる自分を信じてみる
――この前鳳月が自分のこと話したとき
「話してくれてありがとう…っ」――って
あれ多分あの瞬間あいつが一番欲しかった言葉じゃん
その言葉とっさに出んのすげーじゃん
あーゆーの俺は言えねーもん
これまで奔放な筝曲部員たちのことを気にかけ、まとめあげてきた武蔵に対し、部長であることに疑問を持つ者はいませんでした。
別に俺だって自分のことなんか信じてねーよ
――でも俺は俺のこと信じてねぇけどじじいが…信じてくれてお前が認めてくれたから…え?
――前俺が疑われた時お前来てくれたじゃん
「久遠君は筝曲部の新入部員なんです!」
俺みたいなの信じて部員って認めてくれたじゃん
だから俺はお前がいたから今…とにかくうちの部でお前のこと部長って認めてねーのお前だけだろ!
自信なんて目に見えねーもんにふり回されてんじゃねぇ!
見えねーんだからあるっつっときゃあるんだよ!!――僕は自信より大事なものをもう持ってた
堂々として見える久遠も決して自信があるわけではありませんでした。
それでもおじいちゃんが、武蔵が久遠のことを信じてくれたから、箏と向き合うことができています。
武蔵は部長の自分が皆に迷惑をかけられないと、自分の中でぐるぐるしてしまいましたが、とっくに皆にとっての部長であり、支え合える仲間だったということに気づくのでした。
弾いていいに決まってんだろ!!
っダメな理由なんてねーじゃん
お前箏すげぇ大事にしてんじゃん
じいちゃんの気持ち大事にしてんじゃん
お前がちゃんとまっすぐすぎるくれーまっすぐ箏と向き合ってきたのちゃんと見てたよ
俺らはちゃんと見てた!!!
久遠もまた、おじいちゃんの事件のことから、自分に箏を弾く資格があるのか悩み続けていました。
でも悩みながらも真剣に箏と向き合っている久遠の姿を、仲間たちはずっと目にしてきています。
久遠が頑張っているから周りの心も動かされ、一緒に頑張れていることも多々ありました。
自分ではわからなくても、時には周りの人の方がその頑張りを理解していることもあるわけで、そんな自分を見てくれている周りの人の言葉を信じてみるのもありですね。
「今の来栖さんのことちゃんと知ってるから大丈夫」
「ご心配なく あなたよりは人を見る目あるんで」
あたしはせめて倉田が信じてくれた自分でありたい
来栖さんは過去のトラブルから人を信じられなくなり、誰かを同じ目に遭わせることばかり考えていましたが、筝曲部に出会って変わることができました。
そんなトラウマの原因となった人たちと偶然再会したときに武蔵がかばってくれるのですが、過去の嫌な自分ではなく、今の姿を認めてくれるのって本当に嬉しいことだと思います。
人間ですから時にはとっさに嫉妬やエゴをぶつけてしまうこともありますが、それでも自分のことを信じてくれている人の存在が気持ちを改めさせてくれることもあります。
まあでも絶対ムリと思ってたらわざわざ言わないですよね先生は
そもそも悪意がない限りは、絶対に無理だろって思っていることをわざわざ声かけたりしませんね。
相手を信じること
「相手の言葉を信じること」と似ていますが、あくまで非なるものだと私は思っています。
こちらは相手の言葉や行動がなくても「相手を信じる」という一段階上のものだからです。
おそらく月日を重ねないとたどり着かない境地ではないでしょうか。
「好き」って言ってもらえないと不安に感じてしまう話とか、1番わかりやすい例ですね。
相手が「好き」と言ってくれていても信じられない人もいる中で、言葉も便りもない中でも、相手を信じていられる人は果たしてどれだけいることでしょうか?
この境地まで来ると、いくらでもどーんと構えていられるものだったりします。
以前の私はひとりぼっちになることを恐れていましたが、そのような全幅の信頼を寄せられる大切な人たちとの繋がりができたことで、心がずいぶん楽になって、自分のことに集中できるようになったし、コロナ禍で1人で過ごす時間もまったく寂しくないと思えるようになりました。
相手の歩みを信じる
全国って誰か一人に連れていってもらう所じゃないと思う…!
――…みんなで一緒に行く所だと思う
入部当初、さとわは自分が突出した力を持っていれば、高校レベルくらい勝てると考えていました。
しかし、実際の常勝校の演奏を聴いて、その考えは間違いだったと気づき、考えを改めます。
ま…周りの音が聴けないって…どういうこと…?
合わせ方が分からないってどういう意味…?
当初はさとわの想像を下回る部員たちのレベルの低さに理解が及ばず、途方に暮れていたりもしました。
先生みんなのことナメすぎです
みんなすごい勢いで上達してます
私もうかうかしてられないですよ
しかし破竹の勢いで吸収していく仲間たちを見て、どんな難関も彼らはいずれ必ず会得できると確信するようになっていきます。
…コータ!大丈夫!絶対できる!!
信じられない人を無理やり信じるのはなかなか難しいですが、相手をまだよく知らない時点や、大切な人ぐらいは信じていたいものです。
受け止めてくれると信じる
「できねーならできねーって言え
分かんねーことは分かんねーって言えよ
誰も怒りゃしねぇんだから」「あの鳳月さん…もんじゃだけじゃなくて部活のことも…そうだよ?
鳳月さんはレベル違いで上手いし経験もあるけど
だけど完璧でいる必要はないって言うか…
僕とかじゃ頼りにならないと思うけど でも…
どうすればいいか分かんない時とか
一人で解決出来ないことは みんなで一緒に考えよう」
怒られたり、馬鹿にされたり、なんらかの理由で「できない」の一言が言いづらくなることってあると思うんです。
でも「できない」って言っても大丈夫と相手を信じてみる一歩はとても大事なものだと感じます。
もしかしたら過去にそれが許されないことがあったかもしれません。
それでもなんだかんだで「しょうがねぇなぁ」って助けてくれる人は意外と多いものですし、付き合う人や場所を変えてみたら大丈夫だったということもあります。
「できない」以外にも、少し人には話しにくいことっていうのは多々あると思います。
私自身、自分がマジョリティではない自覚があるので、ブログを書くときはよくドキドキしています。
でも勇気出して更新した記事にいっぱいスターをいただいたり、200人を超える読者様に見ていただけたりしているうちに、受け止めてもらえるものだなぁと思えるようになりました。(いつも本当にありがとうございます!)
最近は、みんなが自分は少数派だと思っているから表に出てないだけで、実はそれが隠れ多数派なものもあるのでは?とすら思います。
話してくれてありがとう…っ
自分が言い出すまで待ってくれる人、打ち明けたものを受け止めてくれる人たちのことは大切にしていきたいものですね。
いきなり誰をも信じるなんてのは難しいので、まずはそういった大切な人を信じることから始めると、少しずつ足場が強固になっていく気がします。
――あんたあたしが何か話したらちゃんと聞いてくれるんでしょ
あたしだってちゃんと聞くわよ!!
自分が相手の力になりたいと思っている時、相手もまた同じように思っていてくれるものだと思います。
頼るのが苦手でも、少しずつ相手を信じて出してみるのもいいかもしれません。
――な…んで
久遠はこう
いつもいつも
いつかちゃんと返せるだろうか
もらった分だけのあったかい気持ちを
いつか
――ありがとう あの時受け入れてくれて
あたし今ここにいれてすごく幸せだよ
相手を信じるからこそ相手に合わせない
俺は今から完全にお前を信じる
お前の音は聴くけど待たない「仲間を信じろ」
「分かった」
そういうことか…!
今までは久遠君の音を聴いてそれから自分の音を出す感じだった
久遠君も多分そう
だからテンポが速くなると手が間に合わなくてかみ合わなくなる
メガネの音を聴いてから動くんじゃだめだ
そこに必ず音が来ると信じて弾く!!!
何だこれ すごいっ 欲しい所に音がある!!!
これってカラオケで精密採点したときに覚えがあるんですよね。
バーを気にしすぎると、バーに合わせて歌ってしまって遅れちゃうんです。
自分は音やリズムをわかっていると信じて、バーを気にしないで歌わないと合わないんですよね。
音楽界では指揮のない箏だからこその独特な感覚かもしれませんが、それが対人になったとしても、やることは変わらないということですね。
歌や合奏だけに限らず、結構当てはまることって多い気がします。
たとえば、誰かに何かを任せられない場面ってよく見かけます。
何かを教えているときや仕事を振ったとき、相手が手間取ってるのを見ると、手や口を出してしまうとかよくありますよね。
自分でやった方が早く、精度高くできるからもどかしいというのはわかります。
しかしそれでは、相手に自分でやってできるようになりたい気持ちがあっても、機会が奪われてしまいます。
私は母に何でもやられてしまうのがすごく嫌でした。
自分にやらせてもらえないのが不満だったし、そのうち、自分はやらなくていいんだという気持ちにもなります。
それで相手ができない、やってくれないというのはお門違いな気がします。
仕事を振ったら、あとは相手を信じるだけでいいと思うんです。
最初は拙かったとしても、人というのは失敗から学んで勝手に成長していきますし、いずれはよい相棒として活躍してくれたりします。
それぞれがそれぞれの道を着実に歩んでいれば、合わせようとしなくてもいずれは合うものであり、持たなくてもいい相手の荷物を背負う必要はないと思います。
――そうだよ
自分で下した決断 僕が最後まで信じないでどうするんだ
――大丈夫絶対そこに音がくる!!!俺はもう一人じゃない
俺のこと信じてくれた音がちゃんとそこにある
足りない音は誰かが埋めてくれる
自分を信じることが相手を信じることとなり、相手を信じることがまた自分を信じることにつながるのだと思います。
作者のキャラを信じる心が伝わってきます
一人一人大事に丁寧に描いていければいいなぁ
ネームに詰まったり悩んだりする度、
連載当初、先輩作家さまに頂いた
「キャラを信じろ」という言葉を
思い出しています。
アミューさんは巻末コメントにこのような言葉を残しています。
「この音とまれ!」は本当にひとりひとりが丁寧に描かれている素晴らしい漫画だと思いますし、私が今回のように「信じる」について考えさせられた背景には、アミューさんのキャラたちを「信じる心」が詰まっていたのだなぁと感じました。
キャラたちは当初の予定とは違う動きをすることがあるようなのですが、「この子はこんなことしないなぁ」とか「この子だったらこうするだろう」と作者が信じて描き上げているからこそ、私もこの「信じる力」に惹かれたのだと思います。
動画も合わせるとより楽しめます
筝曲部存続のために披露した「龍星群」という曲は、作者のお姉さんがつくったオリジナル曲。
お姉さん自身や和楽器バンドのいぶくろ聖志さんらが再現したPVが公開されていて、読むのに合わせて聴くとより情景が広がります。
アニメ版も公開されているので、違いを聴き比べるのもまた面白いです。
基本アニメが苦手なので漫画派なのですが、それでも「天泣」はやはりグッときます。
大会本番の様子が描かれた13巻は涙なしでは読めません。
漫画の再現演奏が詰まったこのCDもとても素晴らしいです。
3倍速からさらに加速していく「さらし風手事」とか、漫画を思い出してニヤニヤしてしまいます。
箏動画といえば、こちらのエド・シーラン「Shape of You」のカバーがとてもカッコよいです。
アヴィー・チー「Wake Me Up」のカバーもまた素敵ですね。