
無理なものは無理でいい。しえるです。
昔、しえるちゃんは「私はこう思うけど」という言い方をいつもするよねと言われたことがあります。
それは「私はこう思うけど、ほかの人がそう思うとは限らない」と認識していたからこそ出ていたのだと思います。
ただ、その違いに対して理解できないなぁと思うことはいっぱいあって、今はそれを「理解できないままでいいんだ」と思えるようになったのが成長だと感じます。
人の気持ちがわかるかどうかよりスルースキルのほうが大事だと思うこの頃
- 人の気持ちがわかるかどうかよりスルースキルのほうが大事だと思うこの頃
- 人の気持ちがわかるという考え方に傲慢さを感じるように
- 私には理解できない人の気持ちがたくさんあります
- 私は駅など公共の場で着替えられる人の気持ちがわかりません
- 私は駅でホームドアがあるのに間を空けて立つ気持ちがわかりません
- 私はタバコを吸いたいと思う気持ちがわかりません
- 私はギャンブルしたいと思う気持ちがわかりません
- 私は自分の快楽のために人を殺したいと思う気持ちがわかりません
- 私は格闘技を見たいと思う気持ちもわかりません
- 私にも好きなものはいるけど一部の推し活は気持ちがわかりません
- 私はファンクラブの情報を言っちゃう気持ちもわかりません
- 私はモテたいと思う気持ちはわかりません
- 私は気軽に子どもが欲しいと思えません
- 私は周りが見えないのに歩きスマホをする気持ちがわかりません
- 私は台拭きで床を拭ける人の気持ちがわかりません
- 私は荷物を置きっぱなしでどこかに行ける感覚がわかりません
- 理解不足を嘆く時に行き着くのは自分の相手への理解不足
- 共感しなくても「そういう人もいるんだな」で終わったっていい
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人の気持ちがわかるという考え方に傲慢さを感じるように
そう考えているからこそ、『アストリッドとラファエル』の記事でも触れましたが、「他の人の視点、気持ちに気づきにくく、自分の思いが強いため、会話ができる人でも、相互のやりとりに難しさを感じることがあります」という自閉症の定義に傲慢さを覚えたのでしょう。
健常者という自認からそういう発想が生まれているのだと思いますが、自閉症に分類される人々の視点・気持ちをわからない自分を棚に上げていて、どの口が言う?としか思えません。
相手の気持ちを推し量るのはあくまで想像でしかない
経験が増えれば増えるほど、こういう時はこういう気持ちが生まれるだろうなぁという想像の範囲は広がりますが、でもだからといってそれはあくまで想像でしかなく、相手の気持ちを本当に理解しきることはできないのだろうと思います。
たしかに共感に救われる時はありますし、客観的なほうが冷静に見える一面というのもありますが、自分の気持ちですら見誤ってしまうことは大なり小なりあるのに、他人の気持ちを正確に当てるというのは無理があるのでしょう。
私には理解できない人の気持ちがたくさんあります
私は駅など公共の場で着替えられる人の気持ちがわかりません
ある日、学生が駅のホームでパンツ姿になって着替えてるのを見てビックリしたのですが、その話をほかの人にしたら、皆似たような目撃談を持っていて、これってよくある話なの?とさらに驚きました。
私にはとてもじゃないけど恥ずかしくてできないし、その羞恥心はなくさずにいたいなと思います。
私は駅でホームドアがあるのに間を空けて立つ気持ちがわかりません
ホームドアがない駅でなら、安全のために黄色い線よりさらに一歩内側で待つ気持ちはまだわかります。
でもホームドアがあるのに、同じように間を空けて立つ意味がわかりません。
駅のホームってたいてい狭いですし、逆側にも別の電車を待つ人たちが立っていたり、間を人やベビーカーなどが移動したりするわけですから、前に詰めたほうがいいと思ってしまうし、そのせいで点字ブロックの上をガタガタさせながらベビーカーを押して通ってたりすると、この人が詰めていれば、後ろ側の滑らかなところを通れただろうになぁと思う場面にちらほら出会います。
自分の周りにはホームドアがある駅で間を空けて立つ人がいないから、ずっと気持ちがわからないままです。
私はタバコを吸いたいと思う気持ちがわかりません
タバコはただただ臭いし、煙が来ると咳き込んだり、涙が出たりするのでデメリットしかなく、吸いたいと思う要素が微塵もありません。
なぜか「タバコは吸いたいもの・吸ってみたいもの」という前提で喫煙者や元喫煙者が話してくることがちょくちょくあったのですが、そもそもタバコはどうあがいても吸いたいものではないし、関わりたくないものでしかないです。
でも自分に害さえなければ、タバコを吸う人に対して何も思うことはありませんし、吸ってる姿がかっこいい人がいるとも思います。
ラルクのkenちゃんはタバコ吸いながらライブしてるし、大好きな配信者の釈迦さんもヘビースモーカーだけど、2人とも私の目の前で吸ってるわけじゃないから何ら私に関係ありませんし、子どもの頃からkenちゃんはタバコが似合うな~と思ってます。
喫煙禁止区域とかで堂々とタバコ吸う人とかは、早く取り締まりが強化されるか肺炎になぁれって心の中で思ってます。
私はギャンブルしたいと思う気持ちがわかりません
大きなリターンを得る可能性はあるかもしれませんが、私は当たるかわからないものにお金を払う気が起こらないのです。
だから宝くじを買う気持ちもわからないし、福袋を買う気持ちすらもわかりません。
自分が欲しいものしか買わないから、いくらお得でもいらないものはいらないなぁと思ってしまいます。
私は自分の快楽のために人を殺したいと思う気持ちがわかりません
まず「殺したい」という気持ちはなかなか湧くものではないし、ムカつくことがあっても、例えば危ない運転をしてきた人に「他の人に迷惑をかけず、自宅とかで自損事故でも起こして痛い目にあえばいい」と内心思って溜飲を下げるくらいです。
だからドラマ『クリミナルマインド』などで見る、進んで殺したがるシリアルキラーの感覚は理解できないものばかりでした。
私は格闘技を見たいと思う気持ちもわかりません
捜査モノのドラマは偽物だとわかってるから見れますが、本物の血が出る格闘技はとても苦手です。
人がリアルに戦ってる姿を見たい気持ちもわからなくて、私は絶対近寄らない領域です。
だけど、格闘技をやってる人で面白いと思う人はいるし、格闘技を見るのが好きな人がいることも知ってるけど、それに対してどうこう言ったり思ったりすることは何もありません。
誘われたら断るし、生々しく試合の状況を聞かせてきたら拒否することもありますが、格闘技という好きなものがあるのはいいことだと思います。
私にも好きなものはいるけど一部の推し活は気持ちがわかりません
私は子どもの頃からずっと、いろんな好きなものがありました。
でも推しに対してプレゼントを贈ったり、コメントを読んでもらうために投げ銭したりという感覚はいまだにわかりません。
音源やライブなど自分が欲しいものや満足を得られると思うものにはお金を惜しまないし、誕生日とかバレンタインならまだわかるんですけど、多くの場合推しのほうが自分よりお金稼いでるのになんでだろう?とずっと不思議です。
でもその感覚を否定する気持ちは全然なくて、そういう人がいるんだなぁ~というだけの話です。
私はファンクラブの情報を言っちゃう気持ちもわかりません
まず、そもそもファンクラブで得た情報って基本的に転載禁止です。
- 会報やLE-CIELサイトに掲載されている写真や文章などの転載等は固く禁じます。
- LE-CIELサイトは会員の方に大切な情報などを一足早くお伝え、お知らせする場でもあります。
会員さまだけに特別にお伝えする情報ですので、一般情報解禁日まではその情報の漏洩をなさらないようお願いいたします。
ラルクのファンクラブも、B'zのファンクラブ*1も規約などに転載を禁じる内容が書かれていました。
そもそも転載を禁じられているとか関係なく、「お金を払った人だけが見れる写真とか言葉」という特権だと思っているので、わざわざお金を払った人がお金を払ってない人に向けてばらまこうとする気持ちがわかりません。
会員だけが味わうお得感とか優越感というような感覚はないのかな?
私はモテたいと思う気持ちはわかりません
モテることを重視する人、モテたいと思う人を見かけることはよくありますが、私にはこの気持ちがわかりません。
これは最初からというよりは、結論として落ち着いたものかもしれませんが、好きな気持ちを届けられるのは嬉しいし、自分が好きな人と両想いになれたら嬉しいけど、そうじゃない人から好きになられても私は困っちゃいます。
誰とも付き合ったことがない時に、誰かから好かれたいという気持ちはわかるけど、私は大事に想う人がいれば大事に想うし、大事に想える人がいなければ無理してつくらなくていいんだと思うようになったので、ずっとモテに囚われ続ける人の気持ちわからないなぁと感じます。
私は気軽に子どもが欲しいと思えません
結婚して子どもをつくるのが当たり前かのような上の世代の風潮が理解できません。
命を産みだし、他人の人生を18年背負う覚悟ってそんなに軽く持てるものなのだろうか?と不思議です。
少なくとも私にとってはそんな気軽なものではありません。
私は人を持ち物のように扱う「子どもを持つ」という言い方も苦手です。
本来そうであっただろう「自分のものとして引き受ける。負担する」の意であればいいのですが、「所有している。また、自分のものにする」となってしまっていることが少なからずあると感じるからこそ、その感覚が子どもの意思を無視するような考えや環境を生むのではないかと思えてなりません。
私は周りが見えないのに歩きスマホをする気持ちがわかりません
私は地図を見ながら歩いたり、位置情報ゲームをしたりはするけど、それは周辺視野で人の流れを把握できるからだし、対面から人が来たらいったん歩くことに集中します。
でも歩きスマホをしながら電柱にぶつかってる人を見て、電柱にも気づかないのによくその状態で歩きスマホしようとできるな~と思いました。
私だったら周りが見えてないなら怖くて歩けません。
たまにふわっと気が緩む時がないわけでもないのですが、結局は危ない思いをして気を引き締め直します。
同じような理由で、私は免許を取る時に自分が運転で困らないように座学を真面目に受けたし、裏校なんかに頼らず地道に勉強して自力で合格しました。
免許を取ることが目的なのと、安全に運転できるようになるのが目的なのでは感覚が全然違うんだなぁ~と思ったものです。
私は台拭きで床を拭ける人の気持ちがわかりません
以前、会社のウォーターサーバーに置いてあった台拭きで床を拭いている人を目撃したのですが、これは私にとっては青天の霹靂と言っても過言ではないくらいの衝撃的な出来事でした。
私がサーバーや机の上でこぼれた時に拭くものだと信じて疑わなかった布が、土足でいろんな人が通る床を拭いてる可能性があるだなんて露ほども思わなかったのです。
それ以来、台拭きを見ても「もしかしたらこれで床を拭く人がいるかもしれない」ってよぎるし、ホテルのケトルが本来とは違う使い方をされているという話も、聞けば「そりゃそうかぁ……」と捉えるようになりました。
ただ、そういう人たちがいるとわかっても、やっぱりする側の気持ちはまったくわかりません。
私は荷物を置きっぱなしでどこかに行ける感覚がわかりません
席取りとかお手洗いに立ったりとかする時など、バッグやパソコンなどを置きっぱなしで席を離れられるのはすごいな~と思います。
私はどうしても席取りが必要な場合とかには、基本盗まれても諦められるものしか置きません。
重いな~邪魔だな~と思っても全部持ってトイレに行きます。
これは子どもの頃に行ったヨーロッパで何度かスリの現場を見た影響はあるかもしれません。
バッグが開きっぱなしとかポケットから財布が丸見えだったり、家のカギを閉めなかったりという無防備な話も、全部信じられないな~と思いますが、それもその人たちの選択だなと思うだけです。
理解不足を嘆く時に行き着くのは自分の相手への理解不足
世の中には多種多様な考え方を持つ人がいて、想像をはるかに超えるいろんな真善美があります。
そんな中で「人の気持ちがわかるようになりなさい」という教育指針ってよくあると思いますが、これって誰かの正しさに沿った偏りの判断基準が生まれやすいと思うんですね。
というのも、この「人の気持ちがわかるように」の中に犯罪者や問題児とされるような人の気持ちって結構入ってなかったりしますよね。
「なんで相手を傷つけても平気なのか?」「なんでそういう行動をするに至ったのか?」そういった気持ちを理解しようとすることなく、「なんで人の気持ちがわからないの?」と相手が「他の人を傷つけるのがよくないとわからない」ことを責める光景って結構あると感じるんです。
私は相手を蹂躙できてしまう気持ちはまったくわからないんですけど、だからこそ相手もこっちの気持ちがわからないんだろうなというのは、だんだん想像ができるようになってきました。
自分が「どうして理解できないの?」と憤っている時、自分が相手を理解できていないことをつい棚に上げてしまっているのです。
そこには「自分の感覚は正しい」という傲慢さがあって、相手を理解できてない自分というものを曇らせてしまうように感じます。
共感しなくても「そういう人もいるんだな」で終わったっていい
自分の身に危険が及ぶ場合は抵抗や回避が必要になりますが、自分に無関係な場合、わっかんね~なぁ~と思うことは無数にあるけど、それに対していちいちアクションしなくてもいいんだということがわかってきました。
相手を理解できないと否定につながりやすい?
私がもう答えが出てるじゃんと思ってることの1つに「男女の友情は成立するか?」があります。
思うに、これはもう「成立する」と言ってる人がいる時点で、「成立しない」はないのです。
ただ、その人は成立しない派に過ぎないだけで、成立する派のことは理解できないとしても、成立する人がいる時点で成立はしています。
でもなぜか「成立しないよ!」「それは女性が一方的にそう思っているだけだよ」という反論が返ってくることがあります。
【男女の友情】は成立する?友達以上の境界線は?男の本音・女の本音を調査!|結婚相談所なら【ゼクシィ縁結びエージェント】
男女の友情、成立する?しない?2100人に聞いてみた! | マクロミルモニタサイト
ゼクシィの男性163人に聞いたアンケートでは異性と友情が成立すると思う男性は42.3%、マクロミルの男女2,100人に聞いたアンケートでは、男女の友情が成立すると思う男性は64.9%でした。
まず私が友情成立すると思ってるし、成立すると思ってる男性も存在している以上、やはり成立はするわけで、成立する派と成立しない派はいるけど、成立しないという結論には至りません。
この「成立しない」と「成立しない派」の意味はだいぶ変わってくると私は思います。
どんなに理解できないとしても成立している人がいる以上、そういう人たちがいることに変わりはなく、「自分は成立しない派だな」というのはわかるけど、成立する派の意見を無視して「成立しない」と成立自体を否定してくるのは違うと感じるのです。
この状況って実は結構しょっちゅう起きていると感じていて、1番怖いのはセーフティネットの話をしているのに、この「いる派」がいることを無視していらないという話になってしまうことです。セーフティネットとは……。
スルースキルは尊重につながる
もちろん意見の違いについて論じあうのは全然いいと思います。
でも、相手の意見の違いがある以上、そこにその意見はあるのですから、その意見の存在を否定することはもうできません。
「意見の否定」は意見が違うのですから大いに結構ですが、「意見の存在の否定」は矛盾になってしまうからです。
だからそういう別の意見が存在する以上、毎回わざわざ相手の価値観を理解できなくてもいいとしないと、理解できない意見が多発したり、否定することで事実との矛盾が発生しまくったりして、遅かれ早かれ無理が生じてしまいます。
であれば、自分が思うものはまずそのままでよくて、合わない意見はたしかにと思えば取り入れればいいし、逆に一生合わず決着つかないこともあるから、「そういう意見もあるんだね」と受け止めて、特に理解できない相手の考えを否定してくる人の意見なんてのはこっちの意見を聞く気がそもそもないわけですから、同様にこちらも右から左に流して、相手にしなくていいんだと気づきました。
自分の意見を変える気はないけど、相手にはそれを受け入れろというのは結構横暴な話です。
相手の意見を受け入れられない以上、自分が相手の意見を聞く気がないわけで、であれば相手もこちらの意見を聞く気がなくてもおかしくありません。
相手の意見を論破するのではなく、「そういう意見なんだね」で終われば、相手の意見があることは否定しないし、自分の意見もそのままで、少なくとも自分はお互いの意見を尊重できるのです。
なんかしらの管理責任者だったり、警察や裁判員であればどうにかする必要に駆られることもあるでしょうが、そういうコミュニティのリーダーや司法でなければ無理に裁く必要がない場面も多いでしょう。
それでも理解しようという姿勢も大事なものではある
今思うと、それを考えるきっかけになった1つのやりとりがあって、私が散々ラルクが好きと言っているのに、「お前はラルクが好きじゃない」と言ってきた変な人が昔いたんですね。
なぜか私の気持ちを否定してくるその意図はまったくわからず、聞いてもただ否定してくるばかりですっごくモヤモヤしたものでした。
でもどんなに否定されても私がラルクを好きと思う気持ちがたしかな以上、それは事実として変わらなくて、私の気持ちの何がわかるんだよって話でしかないから、その否定は受け入れなくてよかったのだと改めて思いました。
ただ、私はその人に確認をいれていたように、VTuberの白波らむねさんが話していた「なんで?なんで?」と聞いてしまうという気持ちもわかるものでした。
最初時間はかかっても、なんでやるのかを理解できることで応用が利くようになるから、私もその考えを持っている部分があります。
ただ、そのらむねさんが話していた時にも起こっていましたが、なんで?と聞いてもわからない時というのもあって、それは自分が理解できない場合と相手に答える気がない場合があります。
私は最近、何度この状況が起きても私の意見は変わらないな、理解できねぇもんはできねぇなと割り切ることが増えてきたのですが、相手を理解しようとする心は必要だと思うし、可能であれば相互の理解に努めるのもやはり大事なので、その気持ちもなくさなくていいなと思いました。
