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当たり前や常識の違いの理解は進んでも、言葉の解釈が人それぞれな点は疎かにされがちかもと思う話


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答えは見つかってません。しえるです。

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」はアインシュタイン博士の名言とされれていますが、新しい環境に身を置いたり、誰かと人間関係を築き上げたいときなど特に、自分の常識と相手の常識の違いに気づいたり、そういった価値観のすり合わせが必要な場面って出てくるものだと思います。

私はこれまで何社か転職したり、浅く広く趣味を楽しんできた経験から、1つの会社にずっといる方や1つの界隈に深入りしてる方など、1つのコミュニティにどっぷり浸かっていると、自分の常識が当たり前かのように振る舞ってくることがあるので、少し前にいろんな人がいていろんな向き合い方があることなどについて書きました。

ciel-myworld.hatenablog.com

でも言うて今の時代、当たり前は人や家庭、地域などによって違うということを理解している人は増えてきていて、人によって得意不得意があることとか、自分の普段のやり方はローカルルールであることを理解して話すのを見る機会があると感じます。

ciel-myworld.hatenablog.com

ただ、当たり前は人それぞれで違うという認識があるにもかかわらず、言葉の解釈も人それぞれというところにまでは目が向けられてないなぁと思うことがしばしばあるんですね。

同じ言葉を聞いた時、人によって解釈や前提の定義が合ってないことは多々起こっているのに、そのすり合わせは軽く見られたり、いきなり「普通に考えればわかるでしょ」と投げやりになってしまうことはまだまだ起きがちなのではないかと感じています。

当たり前や常識の違いの理解は進んでも、言葉の解釈が人それぞれな点は疎かにされがちかもと思う話

人によって単語の使い方が違うということ

言葉というものは、目の前にある状況の概念を認識し、共有するために生まれた定義だと思うのですが、長い歴史の中で意味が変わっていったり、1つの言葉でもいくつも意味があったり、誤用されたりなどで解釈の違いは生まれ、定義の不一致が起こるものだと思います。

たとえば、夜(19時)にイベントがある日に「ごはんも一緒に食べない?」とお誘いした時のこと。
「夜ごはん行けるよ」と返ってきたので私は「イベント後に食べること」だと解釈しました。
でもよくよく確認すると「イベント前にごはん行きたい」という話でした。

朝昼晩の3食で考えたらたしかに「夜ごはん」ではあるでしょう。
でもイベントの前に食べるとしたら遅くとも17時、18時には食べることになるので、「夕飯」とかだったらイベント前だと判断できたと思いますが、「夜ごはん」だとさすがにその判断はちょっと難しいです。

このようにどういう意図をもって話してるか、言葉だけ見たらわからない場合がありますし、言葉選びに重きを置いていない人の場合は、意味の違う単語を平気で使ってくるので、違う言葉から言い表したいことを汲み取るなど、さらに難易度が上がることもあります。

それでもこれらは照らし合わせればすぐすれ違いに気づく言葉のズレとは言えるでしょう。

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もっと抽象的な話は歩み寄っての内容の具体化が必要だと思ってます

今度は「散らかってるからもう少しきれいにして」と言われたときのこと。

その時は自分の中では散らかってなくて、未着手のもの(to do)、これから手をつけるもの(doing)、終わったもの(done)などのように分け、整然としてるつもりなので、何をもって散らかってると言われているのかわからず。

どうにか話を引き出してみると、どうやら無関係なものが置いてあることや向きが整然としていないという話のようでした。

でもこの時、「(私の)きれいという感覚ではなく、周りから見てきれいに見えるかどうか」というていで話をしてきたから、「じゃああなたが思うきれいというのはどういう状態を指していますか?」と具体的にどういうことかを確認したのに、しばらく「きれいはきれいでしょ」「そんなことまで言わなきゃわかんないの?」という感じでしか返ってこず、押し問答のようになってしまいました。

最初に「私のきれいという感覚」を持ち出したのは相手にもかかわらずです。

私はこの時、私という他人の感覚の違いに意識はいっても、自分のきれいという感覚が当たり前すぎて、相手には見えないという視点が欠けるのはこういうことなんだと思いました。

言葉の定義がバラバラなままだと話が平行線でループしてしまう

私のきれいの感覚と相手のきれいの感覚は違うようだったから、「あなたの思うきれいの感覚はどういうものですか?それに合わせますよ」って話をしているのに、「それはあなたの感覚でしかない」「説明しないとわからないわからず屋」扱いされてしまうと、「それこっちのセリフな?」となってしまいます。

こちらとしては他人のものは勝手に動かさないほうがいいと思ったから、無関係なものは動かさずに背景としてやっていたし、裏での一時的な作業の仮置きで、作業に向きや角度は関係なかったからそこまで重視してなかっただけの話で、不必要でも向きや角度をそろえるかどうかや程度は好みの問題だと私は思ってしまいます。

私は別に「自分はきれいだと思ってるから今のままでいい」なんて話はしてないし、それを汚いと思うのは相手の感覚でしかないし、その感覚の差が何なのか具体的に聞いてるだけなのになんでわからないのってなるし、こちら側からすれば歩み寄りが拒否され、ただ一方的に汚い扱いされて何も解決せず、モヤモヤが積もっていくだけという感覚です。

それでも相手の思うきれいの定義を聞き出して、理解したので話を終わらせようとすると、「最初から言ってるじゃん」と蒸し返されてしまいました。

「きれい」に対する元々の見解が不一致した状態において、「きれい」の解釈をすり合わせることで見解を一致させてお互い共通の定義ができるのと、「きれい」の見解がバラバラで定義が存在しないままでの理解度は雲泥の差だと思います。

「この言葉はこういう意味で話しています」とわかった状態と、それぞれが思い描く言葉の意味がバラバラな状態はまるで別物だし、前者は理解が進んだけど、後者は理解が進んでないから、また同じことが起こる確率が高くなることも考えられるでしょう。

「きれい」といっても整理、整頓、整然、清潔、エリア分け、秩序、作業面、見た目の話といろんな視点があるもので、相手の思う「きれい」の基準がわからなければ、こっちに合わせるつもりがあってもクリアできるかどうかが運次第になってしまうってものです。

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感覚は人それぞれ

「きれいな状態」に対する感覚は人によって千差万別で、フライパンのコゲは都度落とす人、水栓や鏡などは曇りひとつなく磨きあげる人、毎日掃除する人、週に何回か掃除機かける人、気になったら拭く程度の人、目に見えるところは片づける人、床が見えたらきれいだと思う人、職場は整然としてるけど家は汚い人、そもそもきれいでなくても平気な人、それはもう色々あるでしょう。

たしか東海オンエアの動画でこの話題を見たような気がするのですが、ベッドに入るのはお風呂入ってパジャマに着替えてからな人、裸で布団にもぐる人、外出した格好のままベッドの上に座ったり、布団の中にもぐりこんだりできる人、これもまたいろんな価値観の人がいるけど、友人知人が普段どうしてるかなんて知らなくてもおかしくない、どちらかといえばマニアックな話題です。

お風呂に入った後しかベッドに触れない人の家に友人が遊びに来て、ベッドの上に座られたら発狂ものかもしれませんが、ベッドをソファ代わりにしている人というのはいます。
ある格ゲー選手は、子どもの頃に他人のベッドの上でカレーうどんを食べていたなんて話すらあります。

でもたしかに普段気にしてない人にとっては、そんなのはダメだという話を聞いてなきゃわからないってものではあると思います。

当たり前は皆、違うのですから、皆が皆、他人のベッドに座るものではないと思ってるとは限らないということです。

お風呂に入らず寝る事はありますか?男女700名にアンケート調査結果 | 株式会社ホンダのプレスリリース

私は本などは巻数順に並べたいし、お札の向きは揃える派ですが、完全に好みの話ですので、他人が揃えない分には全然かまいません。
仕事とかだったらそろってないのは気持ち悪いのでちょっとモヤることもありますが、できる場合はこっそり直しちゃうまでです。

親と旅行に行った時、ベッドが汚いと言われましたが、私的にはどれだけ自分がベッドの状態を整えようと整えまいと、私が使った以上、ホテルの方たちが清掃に入って作業するのは変わらないだろうし、なんならきれいに直した結果使ってない判断されて、誰かが使ったベッドを使うことになる可能性が生まれるほうが怖いと思ってしまいます。

だから「それは自分がやりたいだけなんだから押しつけないで。私はこれがいいと思ってるし、気が済まないなら自分でやればいいじゃん」って跳ねのけたこともあります。

そんなことより、親のテイクアウトした飲食物を平衡に持たないから中がぐしゃっと崩れるほうがよっぽど汚くて有害じゃんって思いますし、それがわかってるからテイクアウト品はなるべく自分が持つことにしてます。

当たり前は当たり前じゃない

こういう感覚の差に決定的に気づいたきっかけは、職場でのちょっとしたできごとでした。

ある日、職場のウォーターサーバーに置いてあったふきんで床を拭いてる人を見かけ、「ふきんで床を拭くマジか……」と衝撃を受けて以来、自分の中にあった当たり前は崩されました。

それまでの私は、ふきんで床を拭くなんてありえないことだったのですが、ふきんで床を拭かないというのは当たり前ではなかったというのを実感したのです。

ホテルのケトルとかマナー悪い客の想像を絶する話がちょくちょく耳に入りますけど、皆が皆、常識的な使い方をしているわけではないもので、そうじゃない人が存在する以上、「常識的に考えて」というのはむなしい言葉だなと思いますし、むしろ当たり前だと思っていることこそ伝えていかなきゃ、当たり前じゃなくなっていくんだろうなと感じます。

いつの時代も近ごろは常識がないなどと嘆いているようですが、これまで「当たり前だからいちいち言わないけど」「~するのは常識です」な言い方を見聞きすることは結構あったので、当たり前を当たり前だと思って日頃から言わなかったのがただ結果として表れてるだけな説が私の中で浮上しています。

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人によって感覚も重きを置くところも文化も違うからこそ

転校したり、転職したり、同棲したり、同居したりなどすると、前の環境と新しい環境では至る所で細かな違いというものが出てくると思います。

休み時間の名前やタイミングが違うとか、授業の進み具合の差とか、持ち物や使うものの違い、電話やFAXを使うかどうか、どこまでがデジタルでどこまでがアナログか、支店・支社のローカルルール、連絡の頻度、数字にカンマを入れるかどうか、清掃スタッフの有無、エアコンの温度、使う調味料、風呂や洗濯の頻度、掃除のタイミング、トイレの使い方、トイレットペーパーが切れたら新しいのを出すかどうかなどなど、自分が普段気に留めてないところ、当たり前だと思ってることにこそ、文化の違いはあります。

そういう些細な違いがあることがわかったとき、「普段どうしてるの?」と知ろうとしたり、お互いの「こうしたい」というこだわりや妥協ラインを探ったり、棲み分けしたり、不可侵領域をつくったり、どうにかしてなじもうとするか、お互いが納得する形を模索するのが共存において大事になってくるのではないかと思います。

その価値観のすり合わせがうまくできれば心地よく過ごせるし、逆に叶わない場合はストレスを溜めたり、共同生活がうまくいかなくて袂を分かったりなどすることでしょう。

言葉に対する価値観の差

でもそれが言葉となった瞬間、それも方言とか言語の違いじゃなくて、同じ日本語で自分が当たり前のように使ってる単語なほど、そういう歩み寄りが一気に疎かになることが少なくないように感じています。

日常生活において、説明を受けたり、何かを教えたり、自分の考えを話したり、相手の考えを聞いたり、何をするにしても多かれ少なかれ言葉を使う割に、言葉の価値が軽いんですよね。

まぁ当たり前と感じるものほど軽視しがちというのは、人間やらかしがちなのですが、自分が使っている言葉に疑問を持つのは難しいし、同じ言葉でもどうやら相手と違う意味で使ってるらしいという発想にはなかなかなれなかったりするのだろうと自他ともに感じます。

私は周りの人たちとは話すことで理解を深めたり、和解したりすることが多く、親とはそれで仲よくなったし、こういうブログを書いているくらいですから、自分が特別言葉を大事にしている部類ではあるでしょう。

逆に言うと、自分が言語化でどうにかしてきた人間なので、言葉で解決できなかった時、一気にどうすればいいのかわからなくなってしまうことがあります。

まず皆が皆、自分の考えや状況を言語化できるわけではないし、質問しても全然関係ない答えが返ってくる、またはただの状況確認なのに「見てわからないのか」「バカにしやがって」と怒ったりなど、会話が成り立たない状況というのもあります。

わからないから聞いてるというのに、それが通用しないんですね。

相手からすれば状況は1つかもしれないけど、こちらとすれば選択肢がいくつもあるというのがわかってもらえず、それを説明や確認しようとしても聞いてもらえなかったら詰むというような状況はまぁまぁあります。

仕事中とかは特に感情的になってもどうしようもないし、問題が起きた時、原因がわからないと対処しようがないし、怒りや拒絶って取りつく島がなくなってしまうし、建設的に状況を改善するために手始めに取りかかるなら、やっぱり状況を整理する言葉なんじゃないかとはつい思ってしまうので、言葉以外でどうやって解決すればいいの?となります。

理解しようとするのを拒絶されてしまったり、語彙などが噛みあわなかったり、対話に重きを置いてなかったり、言葉が雑な人、言葉の量が増えると受け取れない人とどう接すればいいのかわからなくなってしまうんですね。

話にならない時があるのもわかる

でも言葉のすり合わせを0にされるのはキツイなと感じるけど、言葉でわかりあうのは無理だと匙を投げたくなる場合もあります。

人間はつい自分の考えが正しいと思ってしまいやすいし、一見対話の姿勢がある人でも、相手の意見を聞く気がないんだなというのがわかる人は話にならないというのもわかります。

自分の言い分の正しさを信じ切っていて、相手を説得することしか考えておらず、相手の話を聞く気がないという場合はあって、それを「話し合いで解決」と呼ぶ人は、説得というのが一方的な行為であることに気がついていません。論破も然りですね。

双方向でないと「対話」はできず、相手がなんで怒ったり、嫌がったり、反対しているのかを理解できなくてもひとまず受け入れるのが対話の第一歩だし、そのうえで話をしてくれるかどうかはまた別の話というところに戻ります。

そもそも言葉を大事にしてるかどうかが違えば、ただ自分の思いを伝える手段でしかなく、相手の言葉を受け取る用意がないこともあって、双方向のやりとりって難易度の高いコミュニケーションなのかなと思うこの頃です。

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正しさは最優先事項じゃなかったりする

過去の常識は未来の非常識、何が正しいかなんてわからないこともたくさんありますが、それでも今を生きてる以上、今のベースはある程度参考にしたいと私は思います。

だから私は全部を徹底できるわけではないけど、言葉の使い方に迷いが生じたら辞書に準じようとするし、学校で習った程度の基礎知識は基にするし、研究が進むなどで変わってることに気がついたら情報をアップデートしたいという精神ではいます。

でもすべての知識を網羅は不可能だし、歴史を追い切れるわけでもないし、辞書の説明とか物事の仕組みを理解するのがむずかしいときがあるのもわかります。

全部正しくあろうなんていうのは幻想にすぎないし、そもそも正しいことが大事じゃない人もいます。

誤用や本末転倒でも浸透していく

たとえば、「バウムクーヘン」というお菓子は日本語で「バウム」と略されがちですが、ドイツ語の「バウム=木」「クーヘン=ケーキ」から来ているので、「バウム」はただの木です。

辛子明太子が明太だとか、携帯電話が携帯になったりだとかもそうですが、略した結果が別物になったり、意味をちゃんと考えるとわけわからないことになるのは日常茶飯事で、浸透したもん勝ちなところはあると思います。

私は「axes femme(アクシーズファム)」というブランドが好きだったのですが、人気が出始めると「ファム」と呼ぶ人が一定数いて、「ファム」はフランス語で女性や女性服を表すことを知っている私は「なんでそっち?なんで固有名詞の個性をなくす?」と思いながら「アクシーズ」と呼んでいたのをいまだに覚えています。

「HIROKO KOSHINO FEMME」「Marie femme」とか全部ファムって呼んだら区別つかないじゃんというのが私の考えですね。

その言葉の根幹を表す言葉が略されて別物になっていたり、外国の言葉が輸入される過程で真逆の意味になったり、あまりに誤った使い方をされすぎて定着してしまったりという言葉は思っている以上にたくさんあります。

自分が間違えて覚えていた言葉に気づくときもありますが、これはもう市民権を得すぎているなぁと感じることは多いですね。

中途半端に間違えられてる言葉は1番やりにくい

そうやってメジャー化していった本来誤りだった言葉であれば、本来の意味は違うとわかっていてもその言葉を使ったほうが伝わりやすいということも少なくないですが、まだそこまで一般化してないものの、一定数が誤解しているように感じる物事はより扱いが難しいと感じます。

わかる人からすれば間違ってるとわかる、でも意図とは違う受け取られ方をする可能性もあるとわかってるのはやりにくいですからね。

本来の意味と違うだろうなぁと思いながらも伝わるから使う言葉もありますし、間違いを指摘したら警察、揚げ足取りと揶揄される時代ですし、もしかしたら、そうやってわかってる人は誤解を避けて使わなくなり、いっそう誤用を見る機会が増えて、誤用が主権を握っていくものなのかもしれませんね。

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近い価値観は釣り合う

また、知識とか理解力、感覚の差などから、同じレベル同士では釣り合うけど、違うと理解しあえないこともあります。

たとえば以前紹介したバカ王企画では「太陽が昇るのはどの方角?」という問題に対し、1番多い答えは「南」でした。

それを見る前の私は、間違えるとしたら「西」ではないかとつい想定してしまっていたから、「南」や「北」と答える人がいるのは想定外になってしまいます。

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最近では、MadTown GTAというストリーマーサーバーで、カワクラさんこと水曜日のカンパネラの詩羽ちゃんが、ギャングの二項対立を表すのに「南か西」と言っていて、「東西」とか「南北」という表現ならわかるけど、「南と西」は私の発想にはないなと思ったのも、近い話かもしれませんね。

歴史的には南と西で戦うこともあったかもしれませんが、釈迦さんも「南と西はちょっとやめてほしいかも」と言ってたように、対立を表現するなら白黒ぐらいコントラストをはっきりしてほしくなっちゃいます。

自由奔放すぎるかわくらに振り回されるSHAKA【MadTown GTA】- YouTube

他の例でいえば、「ずつ」は「づつ」と書いて、「づらい」は「ずらい」というように全部逆に書く人がいるし、左右盲の人がことごとく逆に言ったりもします。

ずとづがごっちゃな人は些細なことと思うのかもしれませんが、じゃあ「つらい」じゃなくて「すらい」って言うのか?気持ち悪くないか?と私は感じちゃうので、わかりあえないなぁと思っちゃいます。

日本にいる私は右を左と言うことはできないし、太陽が昇るのは東からだしで、そこに関しては正しいのを覚えてとしか言えないし、それでも相手が何を言わんとしてるのかを汲み取ろうと努力はできるけど、これで私の方が匙を投げられたり、わからずや扱いされたら、はぁー!?ってなっちゃいます。

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言葉から連想するものの差

ある時、スポーツ関連の話題の中で「バレンタインは野球だろう」という話に対し、「野球はバレンティンでしょ」と返す人がいました。

その人にとって野球と言ったらホークスのバレンティン選手だったとしても、ロッテを日本一に導いたバレンタイン監督がいるので「野球のバレンタイン」も別に間違っておらず、「野球はバレンティン」というのはあくまでその人の価値観でしかありません。

こういうのは特に世代差が出やすい話だと思いますが、『一致するまで終われまテン』という回答一致ゲームを見ていると、ジェネレーションギャップ以外でもいろんな発想があるんだなぁと驚かされたりもします。

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ある時「最近」という言葉の違いが話題になっていました。

「最近」と言っても1週間以内だったり、1年以内だったり、5年10年だったりくらいは考えていましたが、さすがに500年前とか数百・数千万年前も最近という感覚があるとは驚きです。

この話題が出るよりずっと前からこの記事を書いていたけど、これを見る前に「最近」という言葉について触れて公開したりせずに済んでよかったと思うほどの差で、ほんと自分の想像って狭いんだなぁと思わされた話題でした。

以前から定義って大事だよなぁと思う話は書いてきていますが、言葉の認識って思ってる以上に振れ幅がありますね。

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言語化と理解力の差

最近、書かれてないことを勝手に補完しないのが大事みたいな話を見かけることが多いのですが、そんな一概に言える話ではなく、勝手に捻じ曲げないのも大事だけど、相手が何を言わんとしてるのか寄り添って補完することが大事な時もあると思います。

言葉っていらない情報がついていることもあれば、逆に必要な情報が端折られることもあるので、普段はそこら辺の過不足を想像で補いながら相手の意図を読み解く工程を、自覚の有無にかかわらず大なり小なりしていることでしょう。

校正していると、ライターであっても日本語がままならない方というのは少なくないので、誤字脱字の修正だけでなく、何を言わんとして間違えたのかという補完力が求められると感じます。

また、人間って生まれて育つ過程で世間から影響を多大に受けるので、環境から得た常識と自分の考えが乖離していても、その環境の常識を受け入れてしまうことがあるし、自分が求めているものがわかっておらず、自分が求めているものと真逆な受け入れがたいはずのものをいいと思ってしまうことすらあります。

仕事ってそういうイメージがそのまま言語化されてるとは限らない玉石混交な要望から、お客さんが本当に求めるものを掘り当てていく作業だったりしますし、そのためにはやはり想像力というものが大事になってきます。

でもその想像が間違っていれば、ニーズが掴めなかったという話になります。

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そして人によって理解力に差はあって、少ない言動から相手の言動の狙いや心の深層を汲み取る人がいれば、額面どおりにしか受け取らず、脳内補完が一切できない人もいるし、逆に行間から勝手にない情報を見出したり、不適切な予測や深読みでとんちんかんな方向に進んでしまうこともあります。

もしかしたら矛盾に聞こえるかもしれませんが、補完することも、勝手に推測しないこともどちらも必要で、ただ状況によるという話で、今はどちらが必要なのかを相手に合わせて使い分けるのが肝心なのでしょうが、これをうまく対応していくには経験と技術が必要になってきそうです。

誰にでも理解できない領域があると思う

自認はあてにならないもので、自分は理解できていると思っていても、結局理解力なんてものは、知識や感覚がある程度近い者同士の間でしか発揮できないものなんじゃないかなと感じるこの頃です。

あまりに土台が違いすぎて、言葉の使い方とか、そこから受け取るものとか、話の飛躍度合いとか、全部まったく違うんですよね。

VTuberの渋ハルさんのレスバなどを見ていて思うのですが、誰かに噛みついてる人の書いてることってあまりに論理が破綻していて、言いたいことを理解するのが難しいことも少なくなくて、同じくVTuberのイブラヒムさんなどが試みた意訳を聞いて、なるほど……?となってたりします。

多分、怒りを感じてる人たち同士ではわかりあえることもあるんだろうなと思うので、きっと私は理解力が足らないのでしょう。

相手が全然理解してくれないと思う時、自分もまた相手を理解できていないので、理解できないのはお互い様です。

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過程のペースの差

日常会話でもめる場面って、それぞれの意見に一長一短があってどちらの言うことも一理ある場合以外に、同じ内容を話してるにもかかわらず、言葉の解釈や理解する順番が違うから話が噛みあわないって場合も実は結構あるんじゃないかと感じています。

たとえば世の中には、一を聞いて一を知る人や一を聞いて二を知る人がいれば、一を聞いて十を知る人もいます。

こういうペースって人によって差があるので、教える側と教えられる側がいたとして、同じ歩調同士でない限り、なかなかスムーズにはいかなかったりします。

教える側が十知っていて、教えられる側が十に辿り着いたとしても、ペースとか辿り着き方が違うと齟齬が生じることがあると思うんですね。

特に自分の得意分野だと、一を聞いて十を知る場面は起こりやすいのですが、何手も先まで読んで「こういうことですよね」と話しても、間が抜けてると「そうじゃないよ」と返され、順を追って「こういうことですか?」と確認していくと、自分の理解が合っていて結局最初の言葉に戻っていくということがあります。

この場合、順を追ってそのことの解釈の認識の答え合わせをすることで、認識の差を埋めることはできます。

数段抜かしは降りて戻ればいいという話ですね。

逆に一を教えて一が伝わらないと、その間にも段階があったのかと気づかされることもあります。

10段ある階段を5歩でのぼれちゃう人もいるし、20歩でのぼる人もいるし、高くてのぼれないと感じたり、途中で上まで行けないと諦める人が出てきたりするんですね。

けど、歩幅が合わないだけの時にどちらかが「わからずや」と決めつけて相手の話を聞かないと、自分の説明が足りないとか、自分の理解が足りないことを棚に上げてしまうことになり、他責に落ち着くことで解決できた問題も未解決になってしまいます。

近頃はややこしいのが忌避されているから、文字なり絵なり動画なりでわかりやすく噛みくだいて教える文化は増えていたりします。
でもそれはあくまで発信側が意識しているだけの話であって、ある程度対象の想定はしていても、想像の限界はあるものです。

この記事で挙げている例のような発想や価値観の差が人それぞれにあるので、幅広い層に対応しようとしても自分のボキャブラリーや連想力に限界があって、どうしても齟齬は出てしまいます。

私は言葉を噛みくだいたり、別のものに例えたりするのがわかりやすいと言われてきたのですが、それでも漫画が読めなかったり、LINEで3行は長いというような人にとっては難解なものになるでしょう。

そもそもの見え方の差

同じものを見ても、見え方が全然違うし、差が伝わらないこともあります。

わかりやすいところで言うと、世の中には色弱と呼ばれる、色の見え方が異なる人たちがいます。

色弱の方にとっては赤や緑という色の概念がなく、赤と緑が同じような色に見えたりします。

これは別に色弱じゃなくても起こる話で、「白って200色あんねん」はネットミームになっていますが、たとえばデザインや美術などに携われば携わるほど、視覚から得る色味の情報は多く複雑なものになっているでしょう。

その一方で、コスメの微妙な色の違いがわからない人もいるし、幼少期に使った12色のクレヨンくらいしか引き出しがない人もいます。

見てる場所が全然違う時というのもあります。

私は友人が別の用事の後、こちらに合流することになった時に、目の前まで来ても私たちがいることに気がつかなくてビックリしたことがありました。

私たちも、その友人がそれまで一緒にいた連れも、お互いに存在に気がついてるし、こちらとしては目が合ってるとすら思ってたのに、当の本人だけは、目の前で手を振ってもしばらく気づかなかったのです。

目がいい私は、目が悪い人の視界というものが理解しきれないし、そうでなくても自分が思う人の視線って結構当てにならないものなのだと思いました。

別の仕事の場面では、普段まったく同じ作業をしているにもかかわらず、手が離せない状況だということが見てもわからない同僚もいました。

「ちょっと待って」と伝えたけど、「手伝う気がないならいいです」と言われて、は?となりましたが、その作業がキリのいいところまでやらないと手が離せないものであることを知っていても、言わなきゃわからないことがあるのだと学びました。

同じ1画面を見ても、そこから何を受け取るかというのは人それぞれですね。

相手と考えや価値観が違うということ

私は言葉は問題解決に役立つものだけど、自分の使う言葉と相手が使う言葉が同じと考えているうちは話し合いで解決なんてできないのだろうと思い始めています。

価値観が違うというのは、北を西と言ったり、青をオレンジと言うくらいの言葉の差があるのだろうと思います。

「北上すれば着くよ」と説明したら西に進み始める人に、いくら「だから北だってば」と言っても解決することはありません。

方角の定義が違えば、方向を指して伝えるなど、方角や言葉以外からアプローチしないと、その人と分かち合うことはできないのです。

だからこそ話し合いにならない場面というのは多々あって、同じ程度の価値観の間では言葉は建設的な解決手段だけど、私には私のできる範囲でしか理解や解釈ができないのがわかるから、どうにもならない難しさを感じています。

私が目にするゲーマーたちは言葉の定義の共有を図る姿がよく見られます

私は釈迦さんというストリーマーの配信をよく見ていますが、「~ってどういう意味?」「~はこういうこと?」と言葉の意味を確認する姿をよく見かけます。

たとえば、「右」と言ったら「何から見て?」と向きを確認したり、どんな状況でも同じ解釈になるような呼び方を考えたり、コーチの作戦や教えを受けて「こう受け取ったけど合ってる?」という確認などです。

FPSゲーマーに話を聞くと、チームで同じマップ内を別々に移動しながら戦うゲームでは、「Aショート」「Bロング」「キャット」などのようにどの場所の話をしているかわかるように場所の呼び名を共有するし、いつもと違うメンバーとやるときには「あの場所なんて呼んでる?」と呼び方をすり合わせたりしていたそう。

瞬間瞬間で臨機応変な対応を求められ、チームでの連携が欠かせないFPSやMOBA界隈では端的に報告し、状況や認識を共有する姿が、タイトル関係なく競技勢出身を中心に界隈全体の至るところで見られると感じます。

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他にもMMORPGFF14では、パーティーで協力してボスを倒すために、「フィールドマーカー」と言って、フィールド上に英数字の目印を置いて、「1に逃げて!」とか指示ができるようにするための補助システムがあったりします。

何の目印もない場所でも、そこに「1」と名前がつくことによって定義が生まれ、人は認識を共有することができるようになるのですが、ゲーマーガチ勢はその感覚を自然と身につけているのだなと思いました。

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「いつも例に出すんだけど、『クサビのパスってどういうの?』って聞いたら、みんな解釈が違う。あれもクサビ、これもクサビって。今ある言葉を使ってしまったら、みんなバラバラのイメージを持ってしまう。

 そうさせないために新しい言葉にしてしまおうと。FC今治は“海賊の末裔が大海原へ出ていく”というブランディングだから、新しい言葉はなるべく海にかかわるものにした。シャンク(錨の柄)、ウエーブ(波)、キャスティング(投げ釣り)、いろいろとある」

私がそういう風にゲーマーを捉えているのは、それよりもっと前にサッカーの岡田武史監督が、サッカーの用語についての認識がバラバラだったため、状況ごとに細かく分けて名前をつけて、岡田メソッドとして体系化しようとする姿を見ていたのがきっかけだったと思います。

number.bunshun.jp

その岡田さんの考えを見聞きしていたからこそ、クレバーなゲーマーの状況判断と報告力って、さも当たり前のようにやっているけど上質で最先端だなって感じたんですよね。

全力で勝ちに行くし、負けを受け入れ次に生かすし、いい意味で自分のことしか考えておらず、どうしようもない状況とマイバッドという自責の切り分けができているし、「受け取り手次第の報告はヘタ」という価値観すらあって、自然体で健全に楽しむ姿がすごく素敵だと思ったし、あまりに違う文化に感動したものです。

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エアプだから外から見た勝手な偏見ではありますが、サッカーもFPSも瞬時に状況を判断し、臨機応変に対応するのは同じなのに、プレイヤーの言葉に対する意識が全然違うのが印象的で、外から見ていた私は個人の判断力が問題視されていた当時のサッカー界と、1人1人の判断力の高さを感じるゲーマー配信者界の差をそこに感じていた気がします。

「ちょっと待って」「ちょっとってどのくらい?」のやりとりがだるい時もあるのはわかりますが、解釈がバラバラなのに放置されてることってあまりに多すぎるんじゃないかなというのが今の私が感じている印象です。

歩み寄り方がわからない時にどうすれば?

これだけ言葉というのは振り幅がありますし、日常のコミュニケーションにおいてはやはり、ふだん言葉を使って対話してる以上、文化の物理的な違いと同様に、言語面でも歩み寄りって大事なんじゃないかと思うんです。

でも、これは自戒も込めてですが、自分の思ってることや伝えたいことを言語化できず、足りていない言葉や態度で「察しろ、わからないお前が悪い」としてくる人は今もいるし、自分が理解できないことを棚にあげて笑ったり、相手の意図や状況を理解しようとせずに「バカだ、幼稚だ、考えが古い、浅い、めんどくさい」などとシャットアウトして聞く耳持たない場面ってよくあると感じるんですね。

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私は二項対立で「南と西」と言う気持ちをわかってあげられないし、南から太陽が昇るを肯定することもできません。

そこは私にとって歩み寄れないラインです。

でもわかりあえないってこういうことだと思うんです。

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これは大人か子どもかとか年齢や性別は関係ありません。

トップダウンの構図が大きかった日本において、伝える側の言葉が足りてないのに「理解力がない」と受け取る側の問題にしたり、出る杭は打たれ、周りの空気を読み、多くの人が共通の夢を描いて「自分はどう思うか?自分はどうしたいか?」を疎かにしていた部分の影響もあることは考えられるでしょう。

最近は「言語化」の注目度が上がってきてるように感じますが、昔は疑問に思わなかったり、それ以前の別の問題と向き合ってたりだったからこそ、こうやって次の問題が浮かび上がって見えるのだろうし、今の大人が何世代とかけて学習してる真っ最中だろうし、ゆえにまだまだ伸びしろであり、目に見えていろんな思想が入り乱れ、カオスに感じる時代なのかなって思います。

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今ここでは言葉の解釈について重きを置いてますが、言葉の与える雰囲気とか、言葉づかいの正しさとか、言葉を超えたパッションとか、言葉ひとつでもこれまたいろんな価値観があります。

ただ、双方向のコミュニケーションにおいて、単語の解釈不一致って話が進まなすぎるからもう少し重要視されてもいいんじゃない?と思うのが最近の私の感覚です。

言葉の解釈の違いの壁をどうやったら乗り越えられるんだろう

定義って「ある概念を共通のもの」として認識するために、全部に共通するのはこれだよねって内容をまとめたものなはずです。
だから例えば「人それぞれの幸せの定義は違うけどA→Bという幸せの道筋が同じってことだよね」というコメントは、釈迦さんの言いたいことを理解しているとは思うけど、そもそも人それぞれ違うものはもはや定義じゃないわけで、「定義」の定義が違うから話がズレている人達がいるのだと伝わってきます。

人それぞれ違うのは定義ではなく価値観や見解、解釈です。

「道筋が同じ=共通認識=定義」であるから、結局は釈迦さんと同じ「A→B=幸せの定義」という話をしていることになります。

にもかかわらず、話がかみ合わなってなかったのはそもそもの「言葉の定義」が違うまま話しているからで、そういうすれ違いは世の中にたくさんあふれていると感じます。

この現象は前にも釈迦さんの幸福論の記事で触れているのですが、使ってる単語の解釈が違うまま話が続くから、話が噛みあわなかったり、同じ話をしてることが伝わらない状況が生まれたりすることがあります。

その単語の解釈が本来の意味と違うことに違和感を覚える自分にとって、それを気に留めない相手というのは話が噛みあわず、平行線をたどる一方だと私は感じました。

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私にとってはの話ですが、点字や手話まであるくらいですから多くの人にとって日常生活の多くに言葉というものはついてまわるものだし、言葉って知れば知るほど奥が深いし、自分が普段いかにいい加減でなんとなく使っているかを知るばかり。

けどこういうことを考えたりしながら言葉選びをしてる人って多分思ってるより少なくて、だからこそ意味が明らかに違う言葉を平気で混同したり、てにをはが変だったり、自分が使ってる言葉が間違ってるなんてつゆも思わず、相手の話を違う風に受け取って怒ったりする部分が起きてるのではないかと推測してるんですね。

でも私が変と思う感覚が譲れないのと同じように、相手にとってその言葉遣いや考え方をするのは譲れないものであるから変えられないものです。
その解釈の齟齬が起きてるから言葉の使い方おかしいと言ったところで、相手は問題ないと思って使ってるわけで、相手の否定につながるからギスるだけです。

認識の共有に言葉は便利ですが、それは言葉の使い方の解釈が一致していて初めてできることで、言葉の見解が不一致の状態で、内容の見解を一致させるってなかなかに困難な話で、最近の私はそこに難しさを感じています。

たとえば「紐をフックにかける」はランドセルにつける巾着袋などになりますが、「フックを紐にかける」だとそれはもう屋台のヨーヨーつりですよね。まぁ違いますよね…。

簡単な例を挙げると、「てにをは」の助詞が変な人というのは一定数います。

最近だと「裸でネギを握りしめたまま走る」と書いてる人がいましたが、本来言いたかった「裸のネギを握りしめたまま走る」とでは、人が裸か、ネギが裸かで意味がまったく違います。

これが間違えちゃったのか、ガチなのかはわからないけど、こういった助詞の間違いはすでにもっと深刻な問題も起こっているようで、1対1を表す「サシで行く」を「刺しに行く」と誤解され、脅迫したとして逮捕されたと言う方もいました。

「サシで行く」が「刺しに行く」に 誤解され逮捕、16日間の拘束:朝日新聞

大事な部分で間違えられて誤解するなというのも、相手が勘違いするのも、防ぐのは無理ゲーに思えます。

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そうとしか言いようがないけど、それがわからないと伝わらない

操作を理解したあと、説明を読むとそのまんまだなとは思うんですけど、そこにたどり着くまでは何言ってるのかわからなくて、ちんぷんかんぷんでした。

以前スト6のミニゲームで、わかった後に読むと説明のままなんだけど、理解できてない時には何を言ってるのか全然わからないことがありましたが、こういう状況って実はよくあるんじゃないかなって思います。

結局そういう技術的なものは文章を読むよりも、実際にやるのが1番理解に近づくというのはあるのでしょう。

それでも言ってることが伝わってこない場合、文章を書いた相手が思い描く姿を理解する時には、何かしらのヒントをもらわないと読み取ることは困難で、限界を感じます。

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たとえば、方角は位置関係の共有に非常に役立つ概念ですが、方角がわかる人には東西南北だけで通じる話も、方角がわからなければ説明の仕方はまったく別の物にしないと伝わりません。

私自身、東西南北を重視していなかったから方向音痴だったので、方角を軽視する感覚を知ってるんですけど、東西南北の方向を知識として覚えていても、現実に落とし込んで使えないんですよね。

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なので東西南北の概念を覚えてなければ、なんで北海道という名前なのかとか、南下の意味がわからなかったりします。

世の中には、北の反対が南、東の反対が西ということがわからない人もいるので、右が東だと覚えたとしても、反対側が西という思考には至りません。

もし「そんな人がいるわけない」と思う方がいましたら、YouTubeで「りりむ 東西南北」で検索してみてください。

さらに左右盲だとしたら、方向という概念も説明の役に立ちませんね。

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ゴールの違いはよく見る前提条件の違い

よく論争が起こりがちなものの1つに、何を求めているかの違いもあるように感じます。

大会とかイベント関連で多い気もしますが、「完璧に運営しなければならない」と思ってる人と「今後の継続も見据えて、より良いものを目指していく」人の終着点は別物だし、「勝つことがすべて」な人と「自分が強くなりたい」人も違います。

目指すものが違うのですから話が噛みあうわけないし、相手が目指すものを自分が求めるものに変えることもできません。

企画だとして、参加する側が運営が目指すものに賛同できなければ参加を取りやめることだってありますし、本来は見る側も賛同できなければ見るのをやめればいいだけの話なのですが、ごく一部に「目指すべきものが違う」という批判が生まれます。

私もライブとかイベントに参加して「ここはイヤだったなぁ~」という話をすることとかはあるけど、それは別に完璧を求めてるわけじゃなくて、次はここが改善されていたらいいな~くらいの温度感です。

ずっと参加し続けているものは得られる満足のほうが大きいと思っていますし、求めるものが得られないなぁと思ったら次は行きません。

私は勝負ごとが苦手なのでほぼ見る専ですが、ゲームやスポーツなどの勝負ごとにおいて、もちろん推しの練習が報われて優勝するのは最高だけど、優勝できなかったからといって、その頑張りがムダになることはないと思っています。

パワーアップしてるのは間違いないだろうし、そこで学んだことは糧となるし、それ以上に相手がよかっただけの話でしかないからです。

これは人生全般に言えることで、過去を思い出せば赤面してしまうような黒歴史はいっぱいあるけど、それを乗り越えて積み重ねてきた自分の歴史があるわけだし、その過程で考えが変わることだってあるし、皆も多かれ少なかれそういったものを抱えているだろうし、皆が皆、成果を求めているわけではありません。

仕事とかだと、与えられた仕事をクリアすること、怒られないようにすること、同じミスが生まれないように改善すること、課された時間が過ぎるのを待つことなどのように、人によって目指すものは変わってくるし、目指すものが変われば思考も変わってきます。

言葉の価値観が違う人とのコミュニケーションが難しい

私の力量ではこれ以上言葉を噛みくだけない、でも自分には突飛と感じる相手の発想についていくこともできないとき、どうすればいいのかがわからなくて途方に暮れてしまいます。

配信でもネットでも日常生活でも、日本語が変な人や言葉が伝わらない人、そもそもの話の前提が違う人の姿というものが見えます。

大人になったらある程度好きな環境を選べるようになりますが、それでも話が噛みあわない人は登場します。

普段、あの時こう言えばよかったな~とか思うことってありますが、多分何度やっても同じ反応しかできないなってとき、私にはもうどうすることもできないし、これはもう相手の問題でしかないと諦めるしかできない気がして途方に暮れることがあります。

以上、どうにもならない最近のモヤモヤの言語化でしたw

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