私の好きな場所

人生を楽しく過ごすための模索と経験をアウトプットしてます。

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弱音を吐きたい時もある。上には上がいることを目の当たりにする。


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我慢ってキャパをオーバーすれば爆発してしまうと知っているのだが、つい我慢をしてしまう時がある。
そんなの長くは持たない時限性だと知っているのに。

でも目の前の現実に惑わされず、己を見つめるというのはすごく大変だと感じる。
乗り切ってしまうほうが高い確率で長期的に良くなるはずと思うが、我慢してしまえばいいと諦めてしまうほうが一時的には楽なのである。

うまくいかないなと思う時、昔の自分が顔を出す。
本当に克服したの?と試されるかのように。

私を責める人がいなくなったら、そこにはただ責める自分がいたことに気づく。
自分で責める必要はないよって知っていても、責めちゃいけないと思うと苦しみは増す。
それは自分に追い打ちをかけるようなものなのだと強く感じて、責めてしまう自分をただただ許していくしかない。

克服したと思ってた昔の自分が怒涛に押し寄せるのは正直つらい。
忘れていた子どもの頃の感覚を1つ1つ思い出させられる感じ。

その中にはブログにスラスラ書けるくらいには過去の自分が乗り越えたと思ってたことすら含まれる。

学生の頃、周りの皆は服飾だったり、料理だったり、絵だったり、音楽だったり、職業が想像できる得意なことがある子が多くて、実際にそういう職についたり、大手の会社に就職していったりして、でも私の個性はいったい何に生かせられるのかがずっとわからなかった。だからウメハラさんがプロゲーマーになるのに悩んだ気持ちは少なからずわかると思っている。ただ、私のはもっと形が見えなかった。

その後に就いた職場では自分の得意なことを生かせたから長く続いたところもあったけど、得意なだけではずっとは続かなかったし、その後の職場でやりたい気持ちがあっても苦手が勝ること、やりたくもない苦手なことは苦しみしかないことを知った。

ブログに向き合う時はまぁ1人なわけですが、1人の時間が多くなると自分の長所というのが当たり前のことすぎて見えづらくなってくる。
他人との比較は落ちこむことばかりではなく、自分の良さに気づくきっかけにもなるから使い方次第なのだが、自分の良さを忘れかけている中で成果が出ないと焦るし、そんな中で友人知人に会ったりすると、自分の思慮の浅さに落ちこんだりして、ふだんしなくなっていた形の他人との比較でへこんでしまったりする。

これには、自分1人の時にしか得られない栄養があるし、人と会うことでしか得られない栄養もあって、どちらも大事なんだなと悟るしかなかった。

この1つ1つの感情に寄り添う時間は必要で、そして私は書くことで消化、もしくは昇華できるし、それが誰かに何かしらの一雫を落とせるかもしれない。
私がこう悩んでいればおそらく、どこかしらに同じようなことを考えている人がいる可能性は多分にある。
それはこのブログを書く動機の1つでもある。

 

ブログは何時間でも、何日でも取り組んでいられる。
それは腹減りや眠気などの身体活動が邪魔に感じるほどだ。
たまには書けない日や書きたくない日もあるけど、またちゃんと書きたくなる気持ちが戻ってくる。

できればずっと書いていたいが、活動資金をどうやって得ればいいのかわからなくなってきている。ここに来て、まるで進路で悩む学生時代に戻ってしまったかのようだ。
私がよく読むブログはセッションとかオンラインサロンを開いたりしているような人ばかりであまり参考にならないし、自分は自分の書いているブログが大好きなんだけど、自分のブログの価値は自分でわからないし、時が経って考え方が変わってウワーッとなることもあるし、さらけ出すのが怖くなる時もあるし、投げ銭は自分の思う額を送れるのがいいなと思って設置してみたけど、この先稼いでいく未来図が自力では描けなさすぎて、壊れてしまいそうになる。

自分の記事は人によってそれぞれ価値が違うだろうから、自分の記事に値段をつけられないし、というか私がいろんなブログや動画などに助けられたように無料で見てもらいたいし、書きたい衝動がないと書けないから定期やメンバーシップとかもできないし、そもそもは作文が苦手だったから誰かの期待に応えられる気がしないし、Twitchのように投げ銭とかアマプラでサブスク支援とか気軽にできたらいいのにとか羨んでしまったり。

 

私は子どもの頃からネットで育って、みんなが純粋に自分の趣味を楽しんでいる空間が好きでした。
イラストだったり、音楽だったり、写真だったり、コスプレだったり、動画だったり、日記だったり、それぞれが好きに語る個性豊かな個人サイトやブログがいっぱいあって、同盟やリンク、ウェブリングなどを飛んで渡り、それはそれはネットサーフィンが楽しかったものです。

懐古厨かもしれないけど、私がやりたいブログはそんな個性のある個人ブログ。
SEOなどに効果があるのかもしれないが、いかがでしたか?とか○○は存在しないようですとかみたいなページは苦手だし、吹き出しの会話はわずらわしいし、いつの時代もテンプレのような記事はあまり見る気が起きない。
お気に入りの商品とかお店などはいくらでも紹介できるけど、私は専門性というよりはレベル10×範囲100みたいな浅く広くだし、大げさな表現は苦手だし、時に長いレビューよりも「良かった」の一言のほうがグッとくるときもある。

配信者さんたちはここの部分が面白いと話すこともあるけど、それよりゲームを楽しんでいる姿がすべてだと思うし、釣ってきた魚たちを自分らでさばいてクーッ!となってるのが何よりうまそうで楽しそうなのだ。

私の魅力は彼らのようにリアクションがよかったり、喋りの頭の回転がよかったり、ノリの良さや一芸持ちとかではないから、自分にできる写真や文章を使って、同じように表現していきたいと思いながら取り組み続けている。
お金のことだけ考えれば、もっとこだわりを捨てればいいのかもしれないけど、どうしても私の心がそっちじゃないと訴える。

 

私はおそらく英字3、4字で表される何かしらの精神的な特性を持っているとは心のどこかで感じている。多分HSPとか。ちゃんと調べたことはないし、どうでもよくはある。結局1人1人違うから。
アストリッドの自閉症側の人間に立って考えてしまうのも、そういうところから来ているのだろうし、海外ドラマ『コールドケース』や書籍『ベロニカは死ぬことにした』を見てきても、別に精神的に問題があるのじゃなくて、自他ともにただの理解不足なだけだと思っている。

理解不足というのはこういうものだと説明していく必要があるし、それを聞いて受け入れるという双方向の姿勢があって理解につながっていくものだと思う。

何も言わずにわかっては無理だし、言ったのに聞き入れてもらえないのはせっかくの勇気やアドバイスが失われてしまう。

ciel-myworld.hatenablog.com

ciel-myworld.hatenablog.com

ストリーマーとかYouTuberとかインフルエンサーと呼ばれる人たちは、目立ちたいとか有名になりたいという部分は全然違うと思うけど、感覚的には近い性質を持ってそうと感じることも多いから、決して他人事ではないし、だからこそ注目してきた部分もあるのだと思う。

だから社会的な常識や欲望を押しつけられる姿や社不だという自虐、炎上とかは見ていて怖いなと思うし、コンプラだなんだといって、自由に暴れ回って面白がられていたクリエイターたちがだんだんと画一的になっていく姿も恐ろしいと感じる。

bunshun.jp

2000年代初頭の日本映画には多様性があって、出たいと思う魅力的な作品がたくさんありました。当時はいろいろな映画を作っていましたよね。エンタメに偏ることなく、なんでこんな作品を……と思うような変わった作品まで(苦笑)。そのなかで花開いた才能もあったし、名作として残るものもあった。むしろ真っ当な映画なんて作ってたまるかというような、ひねくれたクリエイティビティがカルチャーを推し進めていたようにも感じます。

 当時から自分で仕事を選んでいたので、もちろん後悔はないですけど、その多様性が時代とともに薄れていき、そのうえコンプライアンスなど表現そのものに対しても厳しさが増す時代の変化の中で、主役をあまりやりたくないという気持ちになってしまったんでしょうね。ああいう土壌は現在の日本映画にはないですから。

オダギリジョーさんは私の数少ない好きな俳優さんですが、世の中で多様性に注目されるようになって逆に多様性がなくなっていってると思ってたところだったので、このインタビューの内容にはすごく納得とか共感を感じたんですよね。

多様性って何でもアリの世界のはずなんです、清濁併せ呑んで。

これは別で書こうとしてた内容なんですけど、たとえば昔のマンガとかドラマとかって展開がめちゃくちゃなんですよね。

キャプテン翼でいえば、このマンガは冒頭いきなり1歳の翼が車にはねられるところから始まったりします。

「本当に奇跡だったわ――車にはねられた瞬間も…道路にたたきつけられたときも……
サッカーボールがクッションがわりになって…かすりキズひとつつくらなかったんだから翼は…………」

開始早々から、えぇっ、マ!!?です。

「きめろ~~っ翼!これで得点できないようじゃとうさんの子じゃないぞ!」
「おかあさんの子でもないわよ!!」

ただの地方大会での両親の応援がまさかのゴールを決めないと絶縁宣言。

よしこうなったらわたしのお色気作戦しかないわ
ええっ

うっふ~ん とまって~っ
オエッ バカヤロウへんなもんみせるな~っ
プッ やっぱし
この~っなにがおかしいのよ!!
い…いや なにも
ちょっとあんたたちふたりで車にひかれなさい そうすればとまるから!!
そ…そんな!

他にも応援団長のあねごが遠征の応援に行くため、ヒッチハイクしようとするのですが、小学生女子のお色気作戦とか、応援団員の体で車を止めさせようとするとか、めちゃくちゃなシーンがちょくちょくあって、ヤバすぎてめっちゃ笑ったものですw
このありえねーwが面白いんです。今の時代にそぐわないと言って消したら面白さがなくなってしまいます。

童話でも『本当は恐ろしいグリム童話』なんて本が流行ったりしましたし、シャーロックホームズもコカイン中毒で始まります。

太宰治モーツァルトゴッホも古き良きものとして教科書に載ったりしているけど、今同じことやったら多分許されなかったりするのでしょう、いろいろと。

そんなことが頭をぐるぐる駆けめぐって呼吸が浅くなってウワァァァとなかなか寝られず、泣き疲れて寝て目が覚めたら、アプリを消していたSNSでひと騒動起きていたことに気づいてびっくり。

うちのブログでは何度も取り上げてきた東海オンエアが脱退だ、離婚だとの大騒動になっていたのです。

今、とある記事を書いているのですが、東海オンエアのティアは今の自分の中で下がりつつあるなぁと気づいて、昔はどんなに興味が湧かないサムネでも見れば面白いと思うことが多かったけど、それが逆転してきたなぁと感じて、見る頻度が落ちていたところではあったんですよね。
以前なら結果がしゃばいからとボツにして供養してそうな動画が続いたり、持ち寄る宿題とかやるのを忘れてたというのが何度も続いていたり、なんか変とは思うものの、俺たちが苦しむと視聴者が喜ぶだとか視聴者がうるさいからって視聴者のせいにしてくるのうるさいなぁ~、こっちは別に週6にこだわってないのに…とも思って、前は毎日見てたけどこの頃は未視聴動画も溜まってたんです。

ケタは違っても、自分のブログを300人を超える方々が登録してくださって毎日何百とアクセスがあるのは本当にすごいことだし、できるなら見てよかったと思ってもらえる記事を書きたい、もっといっぱい読んでもらいたいという気持ちはもちろんあって、でも自分が記事を書くのは当たり前でも義務でもないという一面があるのも知っていて、だからこそ、忙しいんだろうなぁというのはもちろん伝わってるけど、週6投稿すると決めてやってるのは自分たちだろうとは思ってしまっていたんですよね。

そしたら思っていた以上に問題が起きていたようで…。驚きはしましたし、わからない部分ばかりなので、ここで良し悪しについて触れる気はありません。
が、しばなんは見てなかったけどあぁ夫婦だったんだなぁと思ったし、活動の半分くらいをリアタイで見てきた身としては、年々アクセル強めてくなぁというようには見えていたし、私がひっそり心の中で思ってたことをしばゆーくんが吐き出していたりもしたので、あぁそりゃそうか、そもそも当人だもんな。昔あれだけ尖ってたしと、振り返ると合点がいく部分はあります。

もちろん自分とは感覚が違う部分も大いにある人たちだけど、ちょっと前にはじめしゃちょーも溜まったの吐き出していたの見かけていたし、自分が近しいものを感じる部分もある人たちだからこそ、私よりさらに個性強そうに見えるのになんでできるんだろうと不思議に感じていた部分ではあったので。

ストリーマー界隈でも関優太さんやJasperくんの配信休止があったりして、私が好きな釈迦さんやだるさんは無理はしない人だと思って見てはいるのですが、実際のところはわからなければ、皆が皆そうじゃないと想像もつくし、それでもそれ以上のことは知るよしがないから杞憂でしかなくなるし、そもそも私はいつだって自分のことでいっぱいです。

先に書いたとおり、理解するためには状況を説明してもらう必要があるし、それを聞いて受け入れるという双方向の姿勢が必要で、それを受け入れられない人たちの存在が一定数いることを知ってるからこそ、さらけ出すのに勇気がいるし、でもすべてをわからずとも理解を示して受け入れてくれる人もちゃんといるのではないかと、これを書いている今は思います。私が今しばゆーくんや東海オンエアについて思う気持ちを考えれば。

今はしばゆーくんとあやなんさんが暴走したって言われがちだし、実際発したのはあやなんさんではあるし、私もSNSでふっかけられたくないとは思うからすぐにネットに書かれるのがイヤなてっちゃんの気持ちもわかるけど、それでもあやなんさんの意見にも一理あるなぁと思う部分もあって。

まず、私は感情に任せてブログに書いてきた過去があるから、今を生きることができています。
「トラブルメーカー」と書かれて傷ついたりしたこともあったけど、それでも自分も痛みを吐き出せていたし、無理に付き合わなくて済んだし、むしろそれがなかったら逃げ場がなかったし、私のはただ有象無象に溶け込んでただけの話で、多分やってることはその延長線上でしかないと思います。そして有名になった途端、品行方正を求められる姿は私も長らく疑問ですし、全般的に間違えることを許さない、ポリコレとか正義感の押しつけの横行がすぎると感じてます。

ciel-myworld.hatenablog.com

そして私は新型コロナの詳細が不明で、リスクが高そうだからかかりたくなかったし、自分が原因で大切な人を亡くすなんて状況は耐えられず、誰にも移したくないからマスクしたり、親に会わなかったりしたけど、別に問題がないと判断するのを悪いとは思わないし、もしコロナにかかってもお医者さんらに悪態ついたりとかしなければ全然いいと思います。

出かけるかどうか不要不急の判断も、今のマスクをするかしないかとかも自分の判断で、それよりもマスクを強要したり、マスクしている人を馬鹿にしたりするような行為だったり、他人の行動を見張っているほうがよっぽど問題に感じます。
会社の危機に行動した人がなんでいろいろ言われるのかわからなかったし、むしろ不要不急で自治体の議会とかを休止にするほうがどうかしてると思います。

マスクしてくださいってお店は別に強制しているわけじゃなくて、うちに入るならマスクしてほしいって話なだけで、それがイヤなら別のお店に行けばいいだけなので、タバコ嫌いが喫煙可のお店に入ってしまったのと同じようなもので、特に問題に感じません。

ciel-myworld.hatenablog.com

当時の私を振り返ってもやはり、コロナを理由に誹謗中傷したり、相手の状況を思いやれずに、自己判断じゃなく他人のせいにして「自粛してやってるんだ」とふんぞり返っている人を問題視しています。
なんでソーシャルワーカーがあれだけ頑張っているのに、余計な他人の面倒見なきゃいけないんだ、そんなのはキャパを超えてしまうと思ったまでです。

そして昔何か言ったとして、直接謝ったりとか当人同士で解決すればいいってのも本当にそうって思うんですよね。心折れないでと微力ながら励ましの言葉を送ることはできても、周りが何か言って応戦する理由にはまったくならないんです。人のふんどしで相撲を取るなって話ですね。

これも別の今書いている記事に通じると感じたのですが、例えば自分のチャンネル内のコメント欄を管理するのは、チャンネル主の行動としてわかるんですけど、SNSでプラットフォーム側じゃない人が取り締まってくるのなんなん?と思ったりするんです。

宛先をつけてリプを送っているとかなら、相手に自分の言葉を伝える意思を感じるけど、リプでもリツでもなく、呼び方を変えたりしてるのですら見つけて拾って問題だと騒いだり、ブロックしたりするのは、ちょっと執念を感じちゃうんですよね。
これはされたことがあるから考えたんですけど、常に正しい人なんて書く側にも書かれる側にもいないだろって思うし、最近の私は相手を目の前にしても言えることって基準を設けて心がけてはいるんですけど、そんなん1つや2つ意見が合わないこともあるだろって思うし、そもそもどんな言葉であっても相手を傷つける可能性ははらんでいます。

他人の幸せは自分への嫌味と受け取ってしまうことだってあるくらいですから、なんだって受け取り方次第なところな側面はあります。

togetter.com

こういうの見てても、自分が何かされてブロックならわかるけど、そうじゃなくてわざわざ探して反応したりブロックしたりしてるのでやはり執着してるのかなと思っちゃうし、それだけ痛い所突かれてるんじゃないかとすら見えてしまいます。

私は考え方がマイナーなところが多めだから、今まで喫煙者の肩身が狭くなるみたいな、窮屈になってく感覚わからないかもと思っていたけど、そういえば自由にぼやいてたネットがどんどん窮屈になってくと感じているなと最近気づいたところだったんですね。

ラルクkenちゃんのリプが多すぎるなぁと思ってフォロー外したくらいだから、情報と雑談わけてほしいって気持ちもわからなくはないけど、それでも複アカって自分を分裂させられている行為だと思っていて、すべてを自分と言ってはいけないように感じる状況って怖いなというように私からは見えています。

ネガティブなポストは良くないとされ、表のアカウントではおもんないなーとか、ねみぃ~だりぃ~とかのぼやきが減って、なにか意味のあることとか、大喜利大会が開かれるか、トレンドにPV稼ぎが群がるようなSNSは疲れてしまうのに、つい情報チェックにと手が伸びてしまうのが危険だと感じたからアプリを消した次第です。

たまたま見かけたカマたくさんの投稿時以外見ないという話にそうだよね~と思ったのはいいきっかけになりました。

元々流行なんて興味ないほうなのに、今じゃ数日、数週間で変わっていくようなインスタントな流行や話題なんて完全にどうでもいいし、学びは得られるかもしれないけど明日には大半を忘れているような、人に誘導された知識も多くが蛇足になるだけだし、CRカップの情報とかが入ってきにくいなぁくらいなところです。

炎上の話題やYouTuberの謝罪動画とかもそれで稼げてしまうからやるんだろうというのも含めて好きじゃないから、よっぽど何があったか気になった時とかじゃない限りは見なくて、あまりよくわからないことには触れないようにしているのですが、今回は東海オンエアの今後どうなるんだろって思って、ふわっと読んでみたら感情的な部分はあっても、ずっと考えてきたんだろうなという内容もあって、自分が壊れそうになっていたからこそ考えさせられることも多くて、私の不安の正体の一面を垣間見たような気持ちでした。

これもそのとおりではあるよなぁと思うんですけど、あやなんさんは自分のために動いていて、きっかけとはなったけど多分遅かれ早かれだったかもしれないし、そもそも当事者以外の外野はまぁ関係ないんですよね。

私は別にあやなんさんもしばゆーくんもてっちゃんも行動の是非について特に何か言及する気はないし、これからいろいろ片づけていくことになるのではないかと思いますがこちらは見守るしかなくて、それ以外全部ノイズでどうなるかは関係者のみぞ知るです。

ヒカルくんの会社とかレペゼンのところとかのように変わった会社があるのは知ってるし、海外に行けばまたいろんな感覚の会社があるのでしょうが、それだけ関わる人が多くなって、家族もいて、こうやって窮屈になっていくのは私が恐れていることの1つでした。だからこれがどうなっていくのか行く末は気になるところですし、願わくば、皆が救われてほしい。

テレビの中のだった人が、AKB48などで会いにいけるアイドルと近づいてきて、ブロガー、YouTuber、TikTokerと一般人が有名になるなど、著名人との距離というのがどんどん近づいてきたように、それだけつくられた人物像よりリアルが求められるようになって、さらにネットが浸透してオフラインとオンラインの境目も曖昧になってきて、人によっての感覚の違いがさらに浮き彫りになっている昨今。

地元だけなら周りの数人、多くても数十人がうるさいなぁくらいで済んでいたのが、オンライン上では簡単に全国区になってしまって、それがもし日本に1%いると仮定したら120万人だし、その中の1%が口を出してきたとしたら1万人から小言を言われるような状況です。

そして誰かの反応といって稼いで、消費されて、本人たちはズタボロになって、でも問題だと詰められて、何かあって初めて手のひら返して、それでも徐々に周りの問題として扱われていくのって何度くり返されるんだろう?と思います。

自分より他人に時間使ってるほうが楽な気持ちはわかるけど、たとえ普段どのように自分の目に映っていたとしても、自分のために時間を使って行動に移してきた人たちはそれだけでもれなくすごいと思うし、実際私ももっともっと自分のために時間を使おうと思ってSNSのアプリ消したし、怖いけど時間つくってちゃんと向き合っていこうとしています。

www.e-aidem.com

だから、できないことはできないんだとどこかで諦めて、自分を責め過ぎないようなシステムを作ることを考えた方が健康的なんじゃないかと思います。

めちゃくちゃ自分を責めてしまう自分がまだいたことに気づいたことで、何に引っかかっているのか、また自分を見つめ直して紐解き、責めを手放しに取り組んでいきたいと思います。

自分の“ふつう”とは全然違うんです。

そんなふうに全く異なる世界のことを知ると、自分の生きている社会よりも世界は広いと思えるんです。気休めにしかならないかもですが、気休めでもいいんですよ、自分を許せるなら。

そのためにもどんな私の描けていない未来図があるのか、時には周りの人にも助けてもらいながら、自分には何が合いそうか、何ができそうか、模索していこうと思います。


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