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「全員間違えている」の考え方は試してみる価値があるかもしれない?


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気は持ちよう。しえるです。

最近、モヤモヤが続いているのですが、芸人の岡野陽一さんの言葉にハッとさせられ、一歩進めそうな気がしてきました。

「全員間違えている」の考え方は試してみる価値があるかもしれない?

「人間は全員、間違えている!」

僕は、生きておられる方は自分も含めて全員間違えていると思っています。だって、総理大臣だって、「間違えてるぞ!」って言われるんですよ。だから、全員が間違えてるってことを知ったほうがいい。自分だけ間違えてるって思っちゃうと卑屈な人間になるし、自分だけ正しいと思ったら傲慢で変な人間ができちゃう。だから、

「自分は間違えてますが、意見を言わなければいけないので言わせていただきます」

ってスタンスで誰もが生きていければ世の中もっと平和になると思うんですよね。

私はこれまで人間誰だって間違えるとは思って生きているんですけど、この言葉を見て「たしかにw」って思ってしまいました。

間違えることもあるっていうのは「正しい」が前提の言葉なんですよね。

そうすると「正しくない」ときに苦しくなってしまうし、「正しい」とジャッジする気持ちがどこかにあるから反発や抵抗を感じてしまうのではないかと思います。

friday.kodansha.co.jp

自分に優しくなりたい

なんなら、朝起きれる人のほうが人に厳しいんですよ。それって「俺は起きれるのに、なんでお前は起きれないんだ?俺だって無理してんだぞ」ってことですよね。自分に厳しいから人にも厳しくなるんです。だから、僕は、自分に優しくしたいんです。

先日、キムタクのゲームを見た話で「『許せない』って1つの正義感だと思うのですが、許せないとしてしまうと自分も許されなくなってしまうのです。他人の失敗を許さなければ、自分の失敗が許されないことになってしまうし、自分の中で許せていないと、他人がするのも許せなくなってしまうという相互関係にあると思います。」と書きましたが、まさにそれのことだと思います。

そして自分に優しくするっていうのは、してこなかった人にとっては結構難しくて、意識して練習していかないとなかなか浸透しきらないと現在進行形で痛感します。

ciel-myworld.hatenablog.com

言う側は、自分の言いたいことを言ってるだけです。言われる子供はそれを聞きたくないから聞いてないわけです。それを無理して聞くからキツくなるわけで、だったら聞かなくていい。SNSも気にしなきゃいいんです。

だから、内容じゃないんですよ。誰に説教されたかで人は動くんです。そう考えると、逆に人に何か伝えるって本当に難しいんだなって。人に何か言いたいことがあっても、それを僕が言っても響かねえよなって思っちゃいますし。そもそも説教してその人を変えようなんておこがましいです。

私は基本的にはこの考え方で、そこらの誰かの意思をねじ曲げようとするような発言はスルーできるのですが、だからこそリスペクトを感じている人の言葉ってやっぱり特別で、ちょっと違う響き方をしてしまうことがあります。

仕事が楽しくなけりゃ、やめればいいんです。「働かなきゃ」って言葉は自分で勝手に作っているだけってことに気づいたほうがいいと思います。昔、歯のないおじさんと飲んだ時、おじさんがこう言ってました。

「人生にやっちゃいけないことはあるけど、やらなきゃいけないことなんて一つもないんだよ」

この点についてもそうだと思ってはいるのですが、過去に縛られた「○○しなきゃ」って本当に根強くて、それを考えないようにってすると過去の自分を否定することになってしまって、すべてを受け入れて消化して進むというのが私にとって本当に困難を極めています。

そして最近、YouTubeを見ても、Twitchを見ても、SNSやネットを見ても、誰かと話をしているだけでも、年齢の話・それぞれの常識や正義の話・不毛な論争・冗談として話す内容が笑えない…など、先日のHYDEさんのライブのMCもそうですが自分の好きなものでモヤモヤする気持ちになることも続いていて、好きなものが心から楽しめないなぁと思うことが度々生じています。

この数年で自分の中の感覚が変わりすぎていて、今まで当たり前に使っていた言葉に疑問が湧いたり、ちょっと前まで面白かったものがそう感じられなくなっていることも多く、多分まだ軸ができあがっていなくて激しく揺れているから、よく感情が迷子になっているのだと思います。

ciel-myworld.hatenablog.com

たとえばVCTや配信を見ているだけでも、些細な言葉に引っかかったりしてしまいます。

この時間帯に見ているからというだけでニート呼ばわりされたりすることなど多々あるのですが、会社員のときのように稼げていないけど、なんとか生活を崩壊させずに踏ん張りながら、どうやって生きていきたいのかを模索しているのを「何もしていない」と責められているような気持ちになってしまうんです。
これはニートの状態を良くないと言ってるわけではなくて、もちろん動けないときは動かなくていいと思うんです。それが必要な時期だから。
ただ以前は「全員が月~金の日中働いたり学んだりしているわけじゃないし、1日が家で完結する人だっているし、というか世の中いろんな人いるし」と思ってたんですけど、結局それも社会のコミュニティから離れていることによる観念のズレや、何かしなきゃいけないことがないのは異質というような昔の感覚が残っていて、そんなことをいちいち考えてしまうくらいには成立しきれていない現状に引け目を感じ、気にしてしまう自分もいるわけですね。
(多分ですが専業主婦とか未婚、病気や生活保護などでも似たような感覚を感じてしまうこともあるのではないでしょうか?)

だからこそ、有名人のことをファンがフィルターかかった状態で見るのと同じくらい、有名人だってファンのことをフィルターかかった状態で適当に見ているから深刻に受け止める必要はないと思うようにはなったのですが、ちょっと言葉が刺さると「本当はもう少し見ていたいけど○○があるから」って言葉とかが特に何も気にする必要のない自分に効いたり、すぐに「この人何歳?」って聞く感じとか「最年長○○歳」「最年少○○歳」とか年齢に注目したがる文化とかも全部うるさいと感じてしまったりします。
なんというか視界を変えても変えても見えてきてしまい、世の中の気にする声の多さに圧倒されてしまう感覚です。

ほかにも、細かい話で深い意味がないこともわかってはいるんですけど、モンハンするのに「お疲れ様でした」って挨拶するのも「これは仕事ですか?」と思っちゃって、ささやかな抵抗で1人「こんばんは」「ありがとうございました」って言葉を使ってみたり。
なんか人生が仕事のようになってしまうのがイヤなんです。

私が目指しているのはせっかくの人生を楽しむことで、Fischer'sのシルクくんとか釈迦さんのように、自分がいくらでも労力を注ぎ込めることで生活を成立させたくて、でも目立ちたいとかトップを目指すとかそんなのはなくて、スケジュールなども自分の気分のままに動けるようにしたくて、そこは先日読んだ与沢翼さんの本が近いと感じたんですけど、なるべくしがらみは最低限にという気持ちもあって、そういう風に自分はどんな生活を望んでいるのかを1つ1つ確かめながら模索しているから自分で答えにたどり着くしかないという状況。

私はこのブログを中心に発信をしているけど、同じような理念でもYouTubeは許されるのにブログはダメみたいなことも多いことに気がついてもどかしかったり、インボイスとか何それヤバいじゃん問題にモヤモヤしたり、今はなんとかなってるけどこの先どうなるんだろうという不安は絶えないしで、この頃は落ち込む日が増えていたんです。

でも「人間は全員、間違えている」と考えると、「それじゃあ、しゃーないかぁ」で全部片づいてしまうんですよね。

皆が何か言ってても「まぁ間違ってるしなぁ」と思えば気にしないでよくなりますし、「間違っている」が前提だと「間違っているのは当たり前」なので上手くいけば儲けものです。
そう思うと「私が今やってることは間違っていますが、こう思うのでとりあえずやってみますね」ってなんか気がすごく楽になりそうな気がします。

相変わらず次から次へと萎え案件が続いています…

ちなみに最近はオーブンが機能しなくなったり、エコバッグの中でカレーがこぼれて一緒に入れていた折り畳み傘と共に散々な状況になってしまったり、足の親指の爪が剥がれたりなどと、相変わらずあちこちで萎え案件が起こり続けて「……もう!!」となっています。

ciel-myworld.hatenablog.com

Untitled

最近のガチ萎え事件の1つなのですが、今断捨離をしていて、阿部ちゃんの引退試合があるしメルカリに出そうかなとユニフォームを洗濯したら、背番号が剥がれてこんなことになってしまいました。

この白い粉が他の洗濯物にもついてしまい、一緒に洗うと被害が出るということを初めて身をもって学び、しょんぼりしながらレイコップをかけています(なかなか取れないけど、コロコロだともっと取れない)。

ナンバー圧着の様子も見ているけどあれが経年劣化でこうなるのかぁ…マイクロプラスチックってこういう感じかぁ…そりゃ深刻だわ…といろいろ考えちゃいますね。

雑草魂

この間「昔、『世界に一つだけの花』が流行った時、『確かに皆、花なんだが、花屋で売れていく花でなく、刈られて捨てられる雑草だったりするから、悩むんだと思うが…』」という考え方を見かけて、いろいろ思うところがありました。

togetter.com

元々は「普通になりたかった」と言うと「普通って何?」という話にされることがあるが、「ここでいう普通とは『ある観点における能力が社会的に許容され、自分自身が劣等感を持たない範囲内に留まること』であって多様性の話ではない。花屋の店先で今お前が雑草を踏んでるという話をしている。」という話のよう。

私自身ずっと「普通になりたい」「違和感なく社会に溶け込める人間になりたい」という風に思っていたので、私が感じていた感覚は近いものではないかと思います。
今も釈迦さん、Fischer'sのンダホくん、コムドットのひゅうがくん、となりの怪物くんのササヤンのように、人間関係におけるラインが自然とつかめるんだろうなという方を見ると、羨ましく感じることはあったりするのですが、それでも以前ほどは気にしなくなってきたのではないかと感じます。

ただ、その頃は多様性の話なんて今ほど表立ってなかったと思うので、普通について諭されることもなく、理解が中途半端にあるからこその新しいモヤモヤが生まれているんだなって感じました。

多様性というのは相手の考え方をあるものとして尊重することが大事であり、自分と他人の境界線の認識が肝要だと思います。

それと私は最初から「自分は花屋に並ぶ価値のある花だ」と思っている方々の気持ちはわからないのですが、「そこら辺の雑草に価値を感じた結果、花屋に並べられる」ことや「花屋に並んでいないけど、快適な場所で生き生きと咲いている」ことがあるのはわかってきました。

たとえば、ちっちゃい頃そこら辺に生えていて遊んでいたぺんぺん草も、今では花屋での需要があり、生産農家が育てていたりとかします。

agri.mynavi.jp

「花屋で売られている花も最初はただの雑草」であり、「今雑草だと思っているものでも価値が認められて売られ始める」こともあるし、結局自分が勝手に「雑草は価値がない」と考えているだけの自分の価値に気づけていない段階であって、人なので踏まれない場所に移動することができるものだと思います。

これは、ブログに書きたいと思いながらも全然手がつけられていないのですが、福岡正信さんの『自然に還る』という本を読んで、私はこういう考え方をするようになりました。

自然があり、食物がまずあって、人間が棲むのが、本来の姿であったのに、人間がまずあって、人が選んだ作物を作るという考えに飛躍したときから、人間は自然を支配する傲慢な主人公に変身してしまいます。

福岡さんの自然農法は簡潔に言ってしまえば、人間の手をかけず、その地に勝手に育った恵みを享受するという考え方で、雑草という概念がありません。

人が「これは雑草」と勝手に判断して、「雑草を抜く」という仕事を自らに課しているというような考え方を聞いて、「『働かなきゃ』って言葉は自分で勝手に作っているだけ」っていうのがすごく腑に落ちたんです。

だから私は自分がどんな花かは気にせず、無残に踏まれない所で生き生きと咲く花になりたいなぁと思っています。


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