しえるが来た。
世の中にはいろいろな主張があり、議論が平行線になることもよくあること。
その間には特に大きな境目が存在しているように感じます。
それは同じ話題で話していたとしても「どこにピントを合わせているか」 がまったく違うからによるものが大きいのではないか、と思ったお話です。
無料開放中のマンガ「ヒロアカ」から考える『誰もが自分と同じ人間だと認識する対等性』と『ピント』について【他人を知り、自分を知る】
相手を見る=意識を向けるということ
ありとあらゆる面において、意外と疎かにしてしまいがちなのが、相手を1人1人の自分と同じ人間として意識することだと思うんです。
実際、私自身にとって難題であり、どれだけ意識を広げて保っていられるかが課題だと感じています。
風景の一部、モブとしてしまいがち問題
家族、友達、恋人、親戚、隣の席の人、ご近所さん、道端ですれ違った人、コンビニやスーパーの店員さん、ゴミを回収してくれる作業員さん、運営を裏で支えている人々、ネット上の投稿者1人1人…、日本だけでも1億人超、世界的に見れば70億人超もの人が存在する中で、下手すれば1人も見ていないときすらありました。
コンビニでレジをしているとき、スタジアムでお客さんをお見送りするとき、そこでかけられる「ありがとう」「お疲れ様」「お世話様でした 」といった言葉がどれだけ嬉しいことか。
でも、最近がどうかはわかりませんが、私の実体験による体感では声をかけてくれた方々はおそらく全体の1~2割にすぎないでしょう。
そのほかの多くの人にとっては、風景の一部でしかないのだと思います。
以前「まつもtoなかい」という番組で、甲本ヒロトさんが「みんな見ているものは同じだけど、ピントを合わせている場所が違う」という話をしていたのですが、どれだけ多くの人々にピントを当てられているかが、器の大きさと呼ばれるものにつながっているように感じます。
自分を見ない相手のことを自分はきちんと見ているか?
「私を気にかけてほしい」「自分を見てくれない」「私は〇〇の代わりじゃない」
孤独感や不満を抱えやすいこの問題、そう思う相手のことを果たして自分はきちんと見ることができているでしょうか?
「僕はオールマイトじゃありません……」
「そんなものは当たりま……」
「当たり前の事ですよね…轟くんもあなたじゃない」
No.2ヒーロー・エンデヴァーの息子である轟くんは、父親が自分を1人の人間として見ず、なれなかった理想を無理やり押しつけてくることに嫌悪感を示しており、「こういう人にはなりたくない」 と反発してきました。
<何をしてんだよ!>
本っ当だよ
嫌だったモノに自分がなっていたよ!!
俺のしてきた事がこの事態を招いた
俺が……取り返さねえと――!!
雨降って地固まる…
過ちに気付き 取り返さんとする
そういう足掻きは嫌いじゃないな
しかし「自分の理想を達成するためのものとして扱う父親」「エンデヴァーの息子という目でしか見ない人」を否定するがあまり、エンデヴァーに関わるすべてをないものとしてきたことで、「相手を1人の人間として見ない」という、嫌悪してきた父と同じ言動をしてしまっていたのです。
あいつだ確かに…!
何ですぐ思い出せなかった…!?こんなうるせえ奴を!
だからこそ目の前にいる圧倒的に目立つ存在が、過去に自分に声をかけてきていたことをまったく覚えておらず、向けられた敵意に向き合わなければ思い出すこともきっとなかったでしょう。
――…見てなかったんだな 本当に
“エンデヴァーを否定する為に” それだけだったから…
ウヤムヤにしたまま…過ごしてきた…
ここで来るかよ
過去も 血も 忘れたままじゃいられねえんだな
言った側は覚えていなくても、言われた側にはずっと残ることってありますよね。
自分がどれだけ「過去のことだ」と無視しても、どれだけ改心したつもりになっても、過去の自分の足跡(そくせき)は否が応でもブーメランとなって自分に返ってきます。
これまでの道程 奴の息子だって事
ヒーロー目指してく上で背負ってく事…
過去も生まれも変えることはできず、すべて自分ごととして背負っていくしかありません。
どんだけクズでもNo.2と言われるだけの判断力と勘の良さは認めざるを得なかった
簡単なことだったんだ全部!簡単なことなのに見えてなかった!
しかしどんなに嫌悪感があったとしても、親から受け継いだ“個性”と使いこなすための努力は、自分の力となります。
そして轟くんが叶えたいのは「親父の否定」ではなく「ヒーローになること」だと気がついていきます。
嫌いな父もまた、自分と同じように努力し、実力を持ってNo.2の地位をつかんでいることを知るのでした。
失ってから気がつくことも…
先日「アメトーーク!」のマンガ大好き芸人で紹介されていた、勇者が魔王を倒したあとのお話を描く「葬送のフリーレン」も似たようなエピソードと捉えられます。
パーティーの中で唯一エルフの主人公フリーレンは、寿命が1,000年ほどというほかの人間やドワーフとかけ離れた時間感覚で生きており、一緒に旅した10年の重みはまるで違うものでした。
じゃあ次。50年後。
そんなフリーレンにとって10年はきっと、たかだか1年くらいの感覚だったのでしょう。
…だって私、この人の事何も知らないし…
たった10年一緒に旅しただけだし…
…人間の寿命は短いってわかっていたのに……なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう…
勇者が老衰し、亡くなって初めて、自分がいかに目の前にいた人たちを見ていなかったかを知り、仲間と過ごした時間の重みに遅れて気づいた第1話。
「あなたが私を知ろうとしてくれたことが、堪らなく嬉しいのです。」
「知ろうとしただけなのに?」
「フリーレン様は本当に人の感情がわかっていませんね。」
今まで対面して、毎日近い場所にいたとしても、意識して見ていなければ実は相手のことをよく知らなかったりします。
たとえ今、相手のことがよくわからなかったとしても、知ろうとすることは最初の一歩だと思います。
何をしてきたか行動や背景を見る
勝己はなまじ何でも出来ちゃうし能力も恵まれちまってさ
他所様からチヤホヤされてここまで来ちまった
薄っぺらいとこばっか褒められて……
だから会見での言葉が嬉しかったんだよね
「ああ この学校は勝己を見てくれてる」って
能力や容姿、言葉で判断されることが多い世の中ですが、何よりも大事なのは「どんな考えを基にし、何を成しているか」だと思うんですよね。
それはたった数回やりとりしただけで簡単に見抜けるものではありません。
「絵うまいね」「足速いね」「カッコイイね」
これらは一見誉め言葉のようですが、どちらかというと積もれば積もるほど響かなくなっていく言葉な気がします。
それよりも、そこに至るまでにかかった労力や培ったセンスを褒められる方がうれしかったりします。
無敵か…その一言で君らのレベルは推し量れる
例えば――…素人がプロの技術を見ても何が凄いのかすらわからぬように…
相手の背景にある努力を見ず、才能とかスペックとして見てしまうと、変に羨んだり、簡単に「○○してよ~」とお願い搾取してしまいがちです。
また別のマンガを挟んでしまいますが、超無敵に見える「呪術廻戦」の五条先生だって、自らの才能をどうやったら最大限に活用できるか、常に試行錯誤しながら磨いています。
にもかかわらず夏油(げとう)は、五条の才能にピントを合わせてしまい、そこから歯車が狂っていってしまいました。
いろんなプロに細分化
ここで1つ気をつけたいのが、プロとは能動側に限らないというところ。
何であっても、ピントの合わせ方しだいで何かしらのスキルは伸ばせるというものです。
本を書いていなくても、読書を続けていれば知識や読解力が積み重なります。
演奏をしていなくても、音楽を聴き続けていればやはり知識や耳は発達していきます。
料理をしていなくても、おいしいものを食べ続けていれば知識や味覚は肥えていきます。
専門分野の知識がなくても、どんな人なのかを観察して判断したり、裏の労力を推測することはできます。
たとえプレイヤー側としてのスキルがなかったとしても、教える立場、率いる立場、受け取る能力、ほかのものに転換する能力、別の分野と繋げる能力、プレゼンする力、いかようにも活かしていくことができますし、そのポジションに上下はないと思っています。
自分のものさしで距離感をつかむ
雄英のトップの人…!
手合わせ願えるなんて願ってもない話だ
雄英トップと今の僕 距離はどの程度か
建設的に成長するよう行動できる人の多くは、この考え方を持っていると私は思います。
対面・体験すると、自分の中のものさしで距離感を測れるようになり、どのくらい力不足なのかを実感して行動できるようになるからです。
しかし、これも自身の経験談ですが、当初すごい人ばかりが目に入ってきて、あまりの差にお手上げ!となってしまうんですよね。
それもそのはずで、山も谷もない中間って面白味に欠けるから、話題になって目に入ってくるのはトップクラスかワーストクラスのものばかりなんです。
にもかかわらず、自分のものさしで測るということを知らないでいると、周りにあるのは身の丈に合わない話ばかりになってしまい、他人のものさしで測られた価値観でより歪んで受け取ってしまうんですね。
だから何となく差があることはわかっていても、測らないから正確な距離感がつかめず「自分とは違うから」の一刀両断で諦めてしまったり。
逆に、特に出会うための努力をしていたわけでもないのに、独身俳優さんが結婚してロスに陥ってしまったり。
まずは自分のものさしで測りまくっていくと、なんとなく距離感がつかめてきて、接し方や優先順位をどうすればいいかわかるようになっていく気がします。
「他人を知る」「経験を重ねる」「自分の理解が深まる」の相互関係
自分で経験を重ねていくことで、他人の努力の理解が深まります。
他人を知ることで違いを認識し、自分の理解が深まります。
自分の理解が深まることによって、経験値を積みやすくなっていきます。
経験を重ね、他人を知り、自分の理解が深まることで、自分のものさしができて、他人に左右されず尊重できるようになり、自分軸が安定していきます。
すると、これまですごいなぁと見上げてきた人たちの話していることがスッと入ってくるようになり、いつの間にか大きな境目の向こう側に来ていることに気がつくのです。
「夜明け前が一番暗い」とはよく言いますが、それはこの過程で、先に書いたブーメランが盛大に襲いかかってくるからではないかと感じます。
そんなブーメランを乗り越えた向こう側の世界ではピントを合わせる先がまったく違っていて、世の中には、最初からそっち側の視点だった人、両方の視点を知っている人、向こう側の視点を知らない人という大きく3タイプに分かれているように見えます。
そんな3タイプが混ざり合っているから話は平行線をたどる一方だし、だからこそ同じ話題なのにまるで別物のようになってしまうのだと実感しました。
大事なのは“個性”をどう活かすか
人それぞれには「ヒロアカ」の世界ほどはっきり目立つものではありませんが、“個性”が存在します。
その“個性”の価値に上下はないと思います。
生まれた時代によって価値観は変動していきますからね。
「攻撃は全てスカせて自由に瞬時に動けるのね…やっぱりとっても強い“個性”」
「いいや 強い“個性”にしたんだよね」
何かしらの能力を使って活躍している人たちは皆、自分の“個性”をどうやったら活用できるか試行錯誤し、練度を上げて、うまく現実に落とし込んでいます。
1つ1つ壁を乗り越えて磨き上げていく
運用するには大きすぎるデメリット
しかし持てる力を活かす…その為に経験し 予測というサポートを身につけた
ただ強い人が雄英のトップにいるんじゃない……!!
努力でトップを掴んだ人なんだ…!
早い段階でうまいこと自分の“個性”が現実とかみ合っても、遅かれ早かれ何かしらの壁にはぶつかると思います。
その壁にぶつかる経験や課題に一つ一つ対処していくことで、知らず知らずのうちにレベルアップできていたりします。
サッカーに対して上手くなるためにはこういう問題があります
こういう風に解決して上手くなります
ボールが今度は違うものになって 今も会社でこういう問題があります
これをこうやって解決したら面白くなるよね?ってのを繰り返しているだけなんで
結局人間がやっていることってどこにいても同じことだと思うんですけどね
先日の「FOOT×BRAIN」というサッカー番組でも、中田英寿さんが同じようなことを話されていました。
何してるかわかんないならわかってる範囲から仮説を立てて
とにかく勝ち筋を探っていこう!
最初はわからないことだらけですが、現状でわかっている点をつなげていってみることで、やがて面となって浮かび上がってくるようになり、溜まった経験値をほかの分野にも活用できるようになっていくのだと感じます。
予測を可能にするのは経験!
経験則から予測を立てる!
どーんと構えて余裕があるように見える人は、それだけ紆余曲折、さまざまな経験を経てきたのだと思います。
そして自分も身に覚えがあることだから、相手に寛容なことが多い気がします。
相手の意見を上に見すぎない
判断を委ねに行ったな
轟と自分を比べ“格上”だと決定づけてしまっている
良くも悪くも迷いの少ない轟を見て…
自分の考えに自信がもてなくなった…ってとこかな
八百万さんは生物以外なら何でもつくりだせる個性を持っており、その個性を生かすのが知識量。
ものをつくり出すには、ものや分子構造を知っていないとできないため、とても博識なのですが、同じ推薦入学した轟との実力差を感じてしまい、自信を失ってしまいます。
これは私自身も長いこと陥っていたのですが、自信がないと自分の判断が信じられず、ついほかの人の判断の方が正しいと思って委ねてしまうんですよね。
八百万!!何かあるんだよな?
悪い 聞くべきだった「これでいいか?」って
何かあるんだよな!?
でも轟さんの策が通用しなかったのに私の考えなんて…
いいから早くしろ!そういうのはおまえの方が適任だったって言ってるんだ!
でも本当は自分の中にも考えってあるもので、自信満々な人の発言に対して内心で「あれ?そうかな?」とか「こうしたらどうかな?」と思うこともあるのではないでしょうか。
つい自信のなさから「どうせ通用しない」「どうせ間違ってるだろうし…」「失敗したくない…」と表に出さずに打ち消してしまったりしますが、世の中に100%正しい意見というものはなく、たとえそう見えたとしても、それはただ「そう思い込んで言い切っている」人がいるだけだと感じます。
むしろどんな案でも出していくことで発見があり、意見をすり合わせて、より最適な解を導き出すことにつながっていきます。
相手の意見を下に見すぎない
だから逆も然りで、 声をあげない人が何も考えていないわけではありません。
むしろいつもと違う視点だからこそ見えるものもあり、性格や立場などに左右されて埋もれてしまった意見の中に解決のカギがあることも。
以前「未来王」というNHKの番組で、環境について真剣に考えて番組参加に臨んだ13歳の子がいたのですが、MCのロンブー敦さんの「しっかりしてるねぇ、後ろにお母さんでもついてるんじゃないの?」という茶化しに対し、「僕は自分で調べることもできるし、自分でグラフも読めるし、自分の意志でこの番組に参加しました」と猛反発。
年齢とか性別とか経歴で人を判断してしまうと、このような失礼を働いてしまうのだと思いました。
その反対も然りで、13歳の子の言う「大人が放置してきたから苦しめられている」という主張もまた年齢でくくった決めつけであり、昔からずっと取り組み続けている人たちの姿や諸問題を解決してきたこれまでの功績に目を向けて、言葉を選んだ方がいいのではと感じています。
自分は小6のときに、小1が自分と同じ番組を見て、自分たちと同レベルの会話をしていたことにカルチャーショックを受けていたので、年齢は関係ないと早めに気づくきっかけがあってよかったです。笑
自分を許して相手を許すと逃げ道が広がる
“個性”に対して色々な考えがあって一概には言えないけど
そこまで否定しちゃうと君が辛くなるだけだよ
何かを否定すれば否定するほど、自分がその状況に陥ることが許されなくなってしまいます。
そうなるとますます失敗しづらくなり、どんどんがんじがらめとなって身動きが取れなくなってしまうと思います。
人生予想だにしないことはいろいろ起こりえますし、まだまだ知らない自分の一面があったりもするので、後から特大ブーメランをなるべく食らわないよう選択肢を残しておくためには、寛容さがカギとなり、ゆくゆく自分のためへとつながっていくように感じます。
実は1番自分を縛っているのは自分だったということは多いもので、そんな自分を許せるようになればなるほど、他人がどう思うかやどうしているかは気にならなくなるので、とても気が楽になるというのを現在進行形で体感しております。
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