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【お気に入りマンガ】フランスのレストランが舞台の料理人たちの成長物語『Artiste(アルティスト)』に共感


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アキオのマンガが読みたい。しえるです。

今年読み始めたマンガの中でお気に入り上位の『Artiste(アルティスト)』は、フランス・パリの高級レストランで働く気弱な主人公・ジルベールを中心に展開していく物語ですが、周りのいろんな立場の視点からも描かれていて、彼らが日々の仕事や暮らしを通して成長する様子に共感も多いです。

【お気に入りマンガ】フランスのレストランが舞台の料理人たちの成長物語『Artiste(アルティスト)』に共感

あらすじ・概要

パリのレストランで働く気弱な青年・ジルベール。雑用係として、毎日皿を洗い続ける平凡な日々を送る彼だったが、陽気な新人・マルコとの出会いによって、世界は変わり始める――。パリを舞台に描かれる、芸術家たちの物語。

さもえど太郎さんの商業デビュー作品で、月刊コミックパンチで連載中です。

hontoで1巻を試し読み

私はマルコであり、ジルベールでした。

昔からいろんなことに興味があってだから全部に興味がなくて
そうこうしてたらそのまま大人になっちゃってさ
ジルベールさんみたいに仕事にしたいほど好きなことがあるってうらやましいっす
そ〜いう人ってどこだって行けるし何度だってやり直せる
あんたはそ〜ゆう人なんすよ
オレも見つけたい

主人公ジルベールが働くレストランにバイトとして入ってきたマルコは、「何が一番オレに合ってんのかわからなくて」と、照明スタッフ、ベビーシッター、ペンギンのエサやりなどいろんな仕事をして回っている人でした。

私自身、いろんなことに興味があって手を伸ばしながらも、1つのことにのめり込んで極めるというようなことができなくて浅く広くというタイプだったので、何か得意なのめり込めるものがある人をずっと羨んできました。

絵が得意でずっと描いてたり、同人誌やグッズをつくったりだとか、料理が好きで調理するのがストレス発散になるとか、さかなクンも連覇していた昔の番組『TVチャンピオン』のようにずば抜けて詳しい何かがあったりとか、子どもの頃から周りを見ては、「そういうわかりやすい強みがあったら進路も決めやすいのに…私には『何かをしたい』という気持ちがないからどこにも行くところがない」とずっと思ってきていました。

だからこそ、マルコのこの言葉は共感しかありませんでした。

ジルベールさんと話すの楽しいっす
オレの知らないこといっぱい知ってるから
楽しいっす

対するジルベールは皿洗いながらも料理についての知識が豊富で、マルコが疑問に思ったことには何でも答えてくれるほど。
私も自分の知らない世界について、他人がキラキラ話すのを聞くのが好きなので、その気持ちもわかる気がします。

「僕からすれば君のほうが…どこへだって行けるように見えるのにな」
「じゃあオレたちきっとふたりともそうなんだよ」

そんなジルベールが逆に、マルコのほうがどこへだって行けると言ったことが、マルコだけじゃなく私にとっても目から鱗でした。

そっか、好きなことがあってもなくても、得意なことがあってもなくても、どこにだって行けるんだ…と思ったら、思わず涙が流れていました。

でもマルコと昔の私は、性格が正反対。

子どもなんて何も考えず遊んでるでしょ
でもアンタはそうしなかった
もうその時点で分別ついてるっすよ
りっぱっす

子どもの頃から親の跡を継ぎたいと考えてやってきたことを悩む副料理長に対し、マルコはごく自然に言葉を返していましたが、マルコはどんな状況だろうと誰が相手だろうとこのようにゆるくフラットな対応で、雰囲気的にはカズレーザーさんとかにちょっと近いイメージ。

ジルベールさんが無理って思ってるだけでしょ
別にカルマンシェフの許可とかいらないっしょ
ジルベールさんが辞めようと思えばいつだって辞められるよ
オレなんかも~20回くらい辞めてるよ
制服だけ返しとけば文句言われないっす~

イヤな仕事はさらっと辞めればいいというスタンスや、いつでもフラットで相手を属性や態度で見ず、相手のいい所を見ていて素直に褒める部分などは特に昔の自分と全然違うと感じます。

子どもだったので、やりたくなかった習いごとを「辞めたい」と言っても辞めさせてもらえなかったり、自分に向いてなかった学校を辞めるという発想が浮かばなかったりでしたし、大人になってからも「できない自分が悪い?逃げ?」と悩んでしまったこともありました。

「え待って待って オレジルベールさんになんか言った?」
ゴハンに行こうって」
「そーすよね?それで?」
「お金は貸せないよ」
「飛躍~」
「いやオレ…金貸してなんて言ってないっすよ」
「え 言っ…」
「ってないっす」

「……???じゃあマルコは何の用があって僕を誘ったの?」
「???いや別に…?フツーに飯食おうと思って…?」
「それだけ?」
「それだけっすよ…なんだなんだ」
「ぼ 僕は…どうせみんなと同じで……き 君も………」
「オレも?…………
 …オレも他の人と一緒で…メシを口実に呼び出して…金を借りようとしていると…思ってたんすね?…………超〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ショック…」
「ごっごっごっごめん!!」

逆にいつも自信なさげで、すぐにオドオドしてしまうジルベールは、これまで接してきた人たちで悲しい目に遭ってきたようで、マルコが「ジルベールさんてけっこうオレに勝手なイメージもってるんすよね~」と言うように、ただのごはんのお誘いでもジルベールは相手を穿(うが)った目で見てしまっていました。

自分も相手の純粋な褒め言葉やただの日常会話ですら裏があるんじゃないかと、「どうせ」と決めつけて素直に受け取れなかった時代がありましたが、今はストレートな悪意以外なら裏に含みがあろうとなかろうと気にせずに受け取り、付き合う距離感で調整しようという考えに変わってきました。

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僕…また何かしました?また余計なことしましたか?だったらごめんなさい
も もっと僕使えるようになります もっと便利に…だからここにいさせてください

自分が1番自信なく、他人の顔色を窺って生きていた時、毎日がこのような感覚でした。
今思うと、私が気にしてきたあれこれを相手は実行していたか?という話ですし、この先何十年と生きることを考えれば、無理をしないで生きれる環境を調えるのが何より大事だなと思って試行錯誤しています。

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「アントレがエスカルゴで、メインがカモのコンフィ、デセールがレモンメレンゲパイで。ジルベールさんは?」
「お 同じものを……」

私は好き嫌いが多かったので、注文はいつも自分で食べられるものを選んではいましたが、新入社員のころはランチや飲みに行く時に「どこに行きたい」っていう自分の意思は特になく、同期の「行きたい」について行くばかりだったので、ジルベールの注文に倣(なら)うマルコの様子は身に覚えがあるものでした。

それがだんだんジルベールも自分の食べたいものを頼むようになったり、殺風景で何もない部屋を変えようと、自分がどんなものを欲しがるのかわからないながらも探しに出かけたりといった様子も、自分が自分を取り戻すために通ってきた道なので親近感があります。

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自分とは違う他人の感覚を理解していく

「みんなちょっとずつ僕が苦手で
 僕もちょっとずつみんなが苦手だ……」
「…人は誤解し合うから
 あなたは特に昔から誤解されやすいし」
「あはは」
「知人だってもとは他人よ
 私たちだってもしかしたら他人のままだったのかもしれないわ」

ジルベールが過ごすレストランやアパルトマンなどでは個性豊かな人々が登場し、気弱なジルベールが少しずつ打ち解けていく様子が描かれています。

第一印象ってつい強くなってしまいがちですが、ジルベールが同僚と話すことで「昨日一緒に夕食を、意外と楽しい人だってわかった」と、一緒に仕事しているだけではわからなかった新たな一面を知って距離を縮めていったように、実際に接して対話を重ねなければずっと相手を誤解したままで、相手の良いところに気づけないかもしれません。

今は友達でも、今は夫婦でも、今は同僚でも、元々は皆が赤の他人同士。
ということは今がどれだけ他人でも、親しい仲になる可能性は誰にでも秘めているってことですね。

相手の感覚を尊重する

どうしてみんな変わってしまうんだ?
おれにはいつも決まりがあるんだ
動かさないでほしい
そのままでいてほしい
ずっとすべてのものが変わらないでいてほしいのに

以前フランスの犯罪捜査ドラマ『アストリッドとラファエル』の話を書いたときに自閉症について触れましたが、『Artiste』にもその特徴に近いと感じるような人が登場します。

アストリッドは毎週同じ時間に行くお店に行けなかったときパニックになっていましたが、『Artiste』に出てくるリュカもまた毎週同じルーティンで過ごしていて、しかし日々のくり返しの中で少しずつ変化があり、最終的に転職でさらにガラッと環境が変わって、溜まったストレスが爆発してしまうことがありました。

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日常生活にはいろんな大きさや色や形の箱がたくさんあってふたが閉まってる
中身はふたを開けないとわからないとおれは思う
でも普通の人間はふたを開けずに箱の様子や周りを見れば中身の予想がつくって言う
おれとお前にはそういう違いがある

アストリッドの場合は過去に解いたパズルや事件のできごとを応用して捜査に協力していましたが、リュカの場合は未経験のできごと1つ1つを自分の身で体験して理解しないと、自分の行動に組み込むことができません。
レシピは1度読めば覚えられる才があるなど再現性のあることは得意ですが、「臨機応変」や「暗黙の了解」はその時々でトラブルの内容や対応が異なるから、毎回が新規案件なのでしょう。

1つの世界の常識は、別の世界では非常識、自閉症など共通要素のあるコミュニティの中では相手への理解を示し、共感する様子も見られることから、日本自閉症協会が示した傾向にあった「他の人の視点、気持ちに気づきにくく、自分の思いが強いため」はあくまで自閉症じゃない人から見た勝手な捉え方でしかないのではないかと感じました。

先の会話の内容を考えれば、多分自閉症の方から見たら「他の人の視点、気持ちに気づきにくく、自分の思いが強いため」はそっくりそのまま返しますって思ってもおかしくないと感じるんですよね。

『アストリッドとラファエル』のときにもこのように書きましたが、私はあくまで、これまで普通とされてきたことは、今ただ大手を振ってるだけの価値観にすぎず、実際に多数派かはわからないし、むしろ別に多数派じゃなかったから問題として表面化して、価値観の転換があちこちで起こって、過渡期の真っ只中になっていると思います。

人は経験を積めば積むほど「これってあれと同じじゃね?」「あの時のに似てるな」などと応用することでリソースを減らせたりしますが、一方では、毎日のくり返しで適当になったりする中で、中身の確認がおざなりになって「どうせ一緒でしょ」と違うものと一緒くたにしてしまう弊害もあったりします。

中身を見ずに想像で決める度合いは人によって違って、リュカは想像で決めないから融通が利かなくて問題を抱えていましたが、すぐに想像で決めつけてしまう人もまた自覚の有無にかかわらず問題を抱えているのではないかと思います。

たとえば国や地域が違えば文化が違うとか、年代の感覚の差とか、そういった存在があることは認識していても、実際の感覚の理解についてはやはり想像だけでは限界があるし、よく知らなければステレオタイプで捉えてしまいがちと感じます。
それに、そもそも感覚の差というのは国や世代が違うからだけでなく、1人1人の個々に存在するもので、同じ国や世代の中であっても千差万別であり、0-100で捉えていれば、本人がそこに問題を感じていなかったとしても、誰かを糾弾せずにいられなかったりなど、感情は落ち着かないのでしょう。

理由は理解の一助となる

…説明してほしい
どうしてやり方が変わるのか
そうすれば理解できるし安心する
いきなり「今日は違う」って言われるとすごく不安になる
予定が変わるのが嫌いなんだ

リュカのこの考えはどちらかというと共感する部分もあります。
というのも日本では「昔からやっているから」というだけで続くことがとても多いと感じるから。

「どうしてラップかけるの?」「何のために水につけるの?」「何でこのストレッチをやるの?」
子どものころは「そういうもの」として受け入れてしまっていたけど、大人になるとわざわざお金や時間をかけたり、必要に駆られてやったりなので、「何のためにやるか」が重要だと大人になってから気づいてきました。

歴史を振り返るとたいてい理由はあったりするものですが、環境の変化で意味がなくなってたり、ただのパフォーマンスでしかなかったりが混ざっていて、「今必要なのか?」をちょくちょく見直すのは大事で、たとえば学校でも座高の計測やブルマは続ける理由がないから廃止されたし、体罰やセクハラは悪しきものだと価値観が変わってきていますし、こんな暑い中で甲子園やるの?って問題視されたりしています。

何のためにやるのかという理由がわからなければ他に応用はできないし、わからないまま応用するのはいずれこじれる元になると感じます。

いろんな考え方があるからこそ

おれはおかしいか?おかしいんだろうな
お前たちと見えてるものがぜんぜん違うことが毎日たくさんある
おれにはこの花が白く見えてるけど普通の人間には赤く見えてるかもしれない
ヤンには何色に見える?
花は白いか?

これは『ベロニカは死ぬことにした』を読んだとき以来、考えさせられていること。

私はそれなりに国語が得意なほうで、作家の芸術性はわかったりわからなかったりだけど、文章が苦手だという方の文章の校正をして「言いたかったことを形にしてくれて嬉しい」と感謝の言葉や、その文章が好評だったという話を聞いて嬉しくなるといった経験があるくらいには、相手の文法レベルを加味した文章の汲み取り力もあるほうなのではないかと思っています。

ただ、それでも同じものを見ているはずなのに、捉え方が全然違うことはいくらでも起こります。
定義のすれ違いなど語彙力の問題なこともあるし、自分の世を穿って見ていた経験内のことであれば、なぜそう捉えたのかはまだ想像はつきやすいし、そうでなくても自分の中である程度の推察もあったりはするのですが、それでも「どうしてそう見えるんだろう?」と、どこをどう見たらそうなるのかわからないという感覚もあって、自分にはない感覚に驚かされることもあります。

ほかにも自分は一部ではありますが「なんだ、Z世代と同じ感覚じゃん」と感じることもあるくらいには当時マイナーな考え方が多めで生きてきたから、昔は「普通ができない」と苦しんできたという気持ちがあるのですが、逆に自分が多数派だったのがそうじゃなくなっていくという感覚はわからなかったりします。
だから私にとっては少しずつ生きやすくなってきている感覚はあるのですが、逆行と捉えている人だっているわけで、逆の感覚を持つ人の気持ちを本当の意味で理解できることはないのかもしれません。

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お前がイチから説明されないとわからないように
オレたちもお前のこと説明されないとわからないんだ
何が苦手で何が得意で
どういう風に話せばお前とちゃんと仕事ができるのか説明してくれないか?
お前は一緒に働く仲間だから理解したい

でも他人の考え方がわからないこそ対話…人の話を聞いて、理解しようとしたり、そういう考え方もあると知ることが大事だと思うし、相手を糾弾して、話を聞かずに口をふさごうとするキャンセルカルチャーは建設的ではないなぁと感じます。

ほかにも「今更聞けない」という感覚も百害あって一利なしだなと思っているのですが、わからないまま事を進めるほうが問題は起こりやすくなるし、「わからない」って言ってくれないと問題が起こるまで「わかってないことがわからない」ので双方のためにならないんですよね。

特に興味のない人にまでいちいちとは思わないですが、それなら絡む必要はありませんし、よい関係を築きたい人であれば大切なコミュニケーションだと思います。

そう思うなら行動しなさい
行動しなきゃ伝わらない
言葉にしなきゃ誤解されたままなのよ
理解?

そしてまた、「相手がわかってくれない」と責めるのではなく、わかってくれるまで自分からも言葉にするなど理解してもらう姿勢は、時として必要なのかなとも思います。

「おれの言葉が全然違う意味で伝わったりそもそも選んだ言葉が間違っていたりする
 ゆっくり考えないとわからない
 あとであの時『ありがとう』って言えば良かったとわかっても…遅い」
「でもさ口では『ありがとう』と言ってたって本当はそう思ってないうそつきだってたくさんいるんだぜ。言葉が選べたってそんなの…」
「そうだ 普通の人間は毎日うそをついて人間関係を円満にしてるんだろ
『嬉しいよ』とか『気にしなくていいよ』とか…全然思ってないことを平気で言える
 おれもそんな風に複雑にうそがつければいいのに
 うそがつければ嫌われないのに」

(中略)

「お前が自分の短所だと思ってることは長所にもなると思うよ
 オレは適当なうそをつくやつは信用できない
 お前はうそをつかない
 だから信用できる」

私もヤンと同じで、建前やウソを使う人よりは直接ストレートに言うほうが信用はできると思うタイプ。

前働いていたブラック企業ではけちょんけちょんに言う人が上司で、ムカつくこともいっぱいありはしたけど、それでも忖度がないから信頼はできたし、実は嫌いじゃありませんでした。

建前と建前をすり合わせたところでお互いが本当に求めている結果には1番つながりませんし、うそをついて円満に見せても、それは張りぼてであり、メッキはいつか剥がれるもので、問題を先送りにしても苦しいのが長引くだけなので、本音同士で後腐れのない人間関係を築いていきたいと思っています。

自分が楽になるための謝罪は自分のためにならない

だから…どうして…あなたに謝らせてあげないといけないんですか
あなたが後悔していてもしてなくてもそんなの
ど どうでもよくて
今更謝られてヤンにどういいことがあるんですか
帰れって…顔も見たくないって言ってた
彼に謝って……それで気分がよくなるのはあなただけだ
僕が彼なら…いや僕は…あなたを許せない
ヤンは一緒に働く仲間だから
帰ってください
彼との縁はもう切れてる

これをジルベールが言えるようになってることに感動があるのですが、私も「自分が楽になるための謝罪」って受ける必要はないと思っています。

本当にダメだと思ったとき、人はちゃんと離れていってくれるんですよね。
そしてある程度良識があれば、心のシャッターを閉めきって終わりなんですよね。
相手は会いたくないだろうし、自分も顔から火が出るので、そのときはつらくても後々にはWin-Winです。

以前にもこんなことを書きましたが、過去の自分の失敗を思い出してウワーッてなることもあるけど、本当によくないと思うときは相手から離れていってくれるから、その真っ只中はつらくても乗り越えてさえしまえば、むしろ離れてくれてよかったとすら思うことがあります。

人って何かを経て成長して考え方がガラリと変わることなんていくらでもあるし、その時に心機一転、やり直す余地があるって希望だと思うんですよね。
だからこそ、中には昔のことを掘り返す人もいますけど、それって救いがないし、そこから何かを学んだ今の姿を見る姿勢は大事なんじゃないかなと感じます。

とは言え、私がイヤだなと思うラインを超えた相手とは距離を置くこともあります。
別に嫌な思いをしてまで、その人の成長に自分が付き合ってあげる必要もないからですね、自分が直接なにか被害を被ったわけじゃなければ気にしないというスタンスです。
だから有名人の不祥事とかどうでもいいし、自分の好きな人が捕まったら悲しいかなくらいです。

「謝ってるのになんで許してくれ(あげ)ないの?」とかもよくある典型例ですが、謝罪って別に免罪符ではないから、すべてのパターンが「謝る→許す」である必要はないですし、そもそも自分の反省に相手を巻き込む必要もありません。

距離を置いたり置かれたりして、落ち込んで、「私はこういう見方ができていなかったな」「余計なことをしてしまったな」「確認をしっかりしよう」「私はこういうことを嫌がるんだな」と反省したり、自分を理解したりして、今後につなげていくのが肝心なんじゃないかと思うこの頃です。

何より自分の中にある後悔とか反省って、相手のせいにしていると、同じことをくり返すばかりなんですよね…。

ciel-myworld.hatenablog.com

…あいつらと一緒にいて楽しいこともたくさんあったんだ
……うん
それはきっと嘘じゃなかったよ

でもその人たちと楽しい時間があったのもたしかで、それを全部なかったことにしなくてもいいのかなと思います。

イヤな仕打ちを受けたことも、相手に嫌な思いをさせてしまって離れたことも、生きていると出てきたりするものですが、その人たちに執着する必要はなくて、また新しい出会いを築いていけばいいだけの話ですし、その間の空白の時間を気にする必要は特にないのでしょう。

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