本から得られるものってやっぱり大きい。しえるです。
「夜と霧」を読んでいて、現代社会に共通する部分が多く、コロナ禍の乗り越え方や今後の展開について、とても参考になる本だと感じました。
「夜と霧」から感じたホロコーストの強制収容所生活とコロナ禍の現代社会との共通点【傾向と対策】
(暗い話も含まれていますのでご注意ください。)
「夜と霧」という本について
ヴィクトール・E・フランクル氏による「夜と霧」という本をご存じでしょうか?
原著の「ある心理学者の強制収容所体験」の名のとおり、この本はユダヤ人でフロイトやアドラーに師事をしていた心理学者の著者が、ホロコーストにより送られた強制収容所での体験を心理学的観点から記録したものとなっています。
ホロコーストとは
ギリシャ語で「焼かれたいけにえ」という意味で、第二次世界大戦中にドイツのナチス政権が行った、人種差別によるユダヤ人らの迫害や殺戮のことをさします。
ただユダヤ人やジプシーのロマ族であったり、身体に障害を持っているだけで「劣った人種」と見なされ、問答無用でアウシュビッツを主とした強制収容所に送られ、強制労働させられたり、無作為にガス室に送りこまれ、まとめて殺害されたりしました。
その被害は約600万人におよび、ヨーロッパに住んでいたユダヤ人の3分の2にあたります。
これはまだ100年も経っていない比較的最近の話なので、もしかしたらご両親や祖父母が当時のことを知っているかもしれませんね。
強制収容所では、すべての持ち物を奪われ、毛も剃られて、識別数字を割り当てられて、個というものを徹底的にはぎ取られたのだそうです。
そして、懲罰訓練を見させられ、自身も暴力を受け、劣悪環境で労働させられ、人ではない扱いをされ続けたあげく、働けなくなれば淘汰されていきます。
それは、普通の刑務所の受刑者の待遇を羨ましく思えてしまうほどのものだったそうです。
映画「ライフ・イズ・ビューティフル 」はまさにこのホロコーストを描いた名作です。
強制収容所生活における心理的反応の3つの変化段階
本の中で「収容所に入る時」「収容所での生活」「収容所生活からの解放」と3つの心理段階があると述べられています。
これがそのまま新型コロナの現況に置き換えて考えられるのではないかと感じました。
第1段階:好奇心
やけくそのユーモアと好奇心、まだ現実を受け止めておらず、なんとかやり過ごそうとする傍観と受け身の気分が支配。
この先どうなんだろう?と何もかもが新鮮な状態、と記されています。
新型コロナウイルスが発生した時、1月~3月頃はどこか浮ついていたように思います。
「遠い国で何か起こっているらしい」くらいの感覚から始まり、対岸の火事のようにどこか他人事だった部分はあったのではないでしょうか。
外出自粛の緊急事態宣言も初めての経験で「なんだこの状況は!?」というソワソワ感が漂っていました。
私自身、徐々にだんだんと現実味を帯びて真剣になっていった感覚を持っています。
お店にいた頃なんて、ちょっと恥ずかしがりながらコロナ対策している様子の撮影などしていたほどで、のんきなものでした。
今思うと、東日本大震災の時も似たような感覚だったのかもしれません。
あくまで防災訓練の延長のような…、現実の映像と思えず、映画かな?と現実逃避したくなっていた気持ちを思い出しました。
人はじわりじわりと状況を理解していきますが、体は心より先に、環境にすばやく適応していきます。
第2段階:感情の麻痺
やがて第2段階の感動の消滅へと移ります。
内面がじわじわと死んでいき、何も感じなくなり、無関心になっていくそうです。
すべてが見慣れた光景となり、心が麻痺していきます。
それは精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムで、現実は遮断され、生命維持に集中するためです。
突然の労働場所の変更や空襲警報による中断、収容所間の移動、ナチス親衛隊員や監視者など管理側との人間関係や気まぐれの選別などで運命が簡単に左右される毎日。
告げられる移送先に感じた推測と実際に訪れる運命が一致するとは限らず、置いていかれて絶望的状況かと思ったら助かったり、逆に助かったと思ったら火を放たれてしまったり。
そんな生活を送っている中で、感情を正常に反応させていたら壊れてしまうでしょう。
現在で言えば、まさに今この段階でしょう。
新型コロナウイルスというイレギュラーが見慣れた存在となり、3密を避けましょうと唱える中、何もなかったかのように通常どおりの生活に戻る人がいたり、精神的にまいってしまう方が実際に現れています。
第3段階:感情の取り戻し
収容所から解放されたあと訪れるのは、喜びでも幸せでもなく、「これはどういう状況だろう?」という確認からでした。自分の感情をくみ取れないのです。
何度も覆された夢の状況が叶ったにもかかわらず、それまでに何度も打ち砕かれてきたことから目の前のそれを現実だと理解できず、ここでも先に適応するのは体で、無我夢中で食べ始めるのだそうです。
そして精神的抑圧から解放され、自分の体験を語りださずにはいられなくなるそうです。
これはゲシュタポの尋問を受けた人も同様のことがみられるのだとか。
段階を経て、徐々に感情を取り戻していき、自由を実感し、人生の再スタートを理解していくのですが、突然変わった世界で皆が上手く順応できるわけではないようです。
これまで受けていた抑圧から、これだけのことをされていたのだから、今度は自分が何をしてもいいだろうと思ってしまう人も出てきてしまいます。
周りもどう対応すればいいのかわからず腫れ物扱いされてしまい、人生のどん底だと思っていた収容所から解放されても別の苦悩が現れることがわかり絶望してしまうのでしょう。
これも多分現れてもおかしくない気がしますね。あれだけ我慢したり、生活が追い込まれたのだから、ちょっとぐらい自由にふるまってもいいだろうとかありそうです。
そして残念なことに、コロナにかかってしまった方への差別対応はすでに各地で生まれています。
なぜ苦しい思いをしたあとに、さらに関係ない他人によって苦しい思いを重ねないといけないのでしょうか。
「夜と霧」を読んで感じたこと
今回この「夜と霧」を読んでいて、現代社会に通じる普遍的な問題と解決策であり、そして起こる可能性のある反応が示唆されているのではないかと感じました。
特に今はまさにコロナ禍で、人々の生活が一変しました。
そんな中で、新型コロナウイルスのある日常を過ごす人と、精神的に収容所のような生活を送っている人とに分かれているように感じます。
大きく捉えて「未曾有の事案」という意味では、ホロコーストと新型コロナウイルスも同じ状況と言えるのではないでしょうか。
体や行動に自由は効いても、精神的には似たようなレベルの過酷な状況ということかもしれません。
個をなくす行動
収容所で人間の命や人格の尊厳がないように扱われ、自らも自我が無価値に思えてしまい、そこを自ら抵抗して自尊心を奮い立たせないかぎり、自分は主体性を持った存在ということを忘れてしまうとあります。
保身を計るために、群衆の中に紛れ込むことで親衛隊員に目をつけられないようにと、身を守るための手段をとりたがるのだそうです。
恐ろしいことに、これって現代社会でコロナ前から起きている状況ではないでしょうか?
出る杭を打たれないために個性を消して、集団の中の1人となろうとするのです。
誰かからの心ない言動で尊厳を削られ、自身を無価値に感じるというのは、実際に私が感じて悩まされ続けてきたことでもあります。
でもそれって自分の力で回復できるものでもあります。
私たちは内面の自由や独自の価値を備えていて、取り戻せるんです。
ここは強制収容所ではないのです。
やたらと正しさを求められる社会ではありますが、いい人であることを手放すと見える世界が一変します。
人生を諦めた時に見せる行動
収容所内では労働の報酬としてタバコが支給され、それが物々交換の元手となって食事のスープに換わり、餓死の危険から逃れることに繋がったのだそうです。
本来は食事のためにタバコを差し出すのですが、仲間が食料交換に使わず、自分で吸い始めた時は生き延びることを断念して捨て鉢となっており、事実そういう人の中に生き続ける人はいなかったのだそうです。
これについては今回の内容に関連性が薄いので多くは述べませんが、あぁ…なるほどと思いました。
芸術やエンターテインメントの重要性
先日行われた氣志團万博の中で、翔やんが「自分の活動が不要不急のものとされた」ことについてショックを受けた話をしていました。
私個人としては自分にとっての不要不急を判断して動けばいいという理解だったのですが、それでお金をいただいているアーティスト側からすれば、そんな簡単に割り切れる話ではないのだと理解しました。特に人情派の翔やんなら尚更のことでしょう。
大震災や台風などの災害によるライブ自粛が続いた時にも思いましたが、アーティスト活動は自身の生活資金を生み出す行為であり、さらに生活でストレスを抱えている人々の心の負担を和らげる素晴らしい活動なのに、不要不急で不謹慎扱いされて心を痛めてしまう。そんな悲しいことってあるでしょうか。
なぜ救われている人の声を無視して、声を荒げるのでしょうか。
収容所内では、労働看視者などが即席の演芸会を開き、歌や詩などの芸術やユーモアが披露されていたのだそうです。中には被収容者が食事を抜いてでも訪れていたとか。
すべてはなにかを忘れるために。
そして素晴らしい歌を披露したものには、食事が奮発されたのだそうです。
これって生きるのに欠かせないものであり、賞賛されて然るべきものってことではないでしょうか?
いつ終わるかわからない状況が与えるストレス
(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。
ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。
そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。
内的なよりどころがないと、これがいつ終わるのか?という期限に意識がいくのだそうです。
ある被収容者の男性は、夢のお告げで「私にとって戦争が終わるのがいつか?」という問いに「3月30日」と答えを受けます。
しかし、Xデーが近づいても戦争が終わる気配が見えないことに絶望していき、3月30日に病気(発疹チフス)を悪化させて死んでしまいます。
まさに彼にとっての戦争=収容所生活が終わったのです。
解放までの期限がわからないことが重くのしかかり、いつまで頑張ればいいのかわからないことが「未来を失った」という心境に変化していくということなのだそうです。
本の中では失業や病気でも似たような心理的状況が起こりうるとありました。
おそらく定年退職やこのコロナ禍も同様のものではないでしょうか。
他にも、クリスマスから新年にかけての週に、かつてないほどの大量の死者を出したという話も興味深い…というより恐怖を感じました。
医長の見解によると、労働条件・食糧事情・季節の変化・伝染性疾患といった理由では説明がつかず、むしろこの大量死の原因は「多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる」というのです。
これって2021年になっても変わらずコロナ禍が続くとなった時に、落胆と失望にうちひしがれて、人々が死に無抵抗になる可能性を意味するのではないか?と思ったのです。
現在、2種類の考え方の人に分かれているように感じています。
「新型コロナウイルスのある日常を過ごす人」と「今、新型コロナウイルスがある世界を過ごしているだけの人」です。
この2つは、似て非なるものです。
前者はこれまでどおりの日常に、新型コロナウイルスが追加されただけです。
だからやることは今までと変わりがありません。
後者の場合の新型コロナウイルスは、考え方が期間限定なのです。
とあるインスタライブでも「コロナが終わったら何をしたいですか?」と質問を投げかけている方がいました。
新型コロナウイルスは「終わるもの」だと思っているのです。
感染症によるパンデミックは続くものである
よくお世話になっているあっちゃん先生が、感染症の歴史についても解説してくれています。
世界三大感染症のHIV、マラリア、結核を始め、数多く感染症が存在する中で、完全に抑えられるようになったのは天然痘のみだそうです。
それ以外は今もなお感染者が存在し、対抗策が限られているという現在進行形の問題なのです。
肌荒れや体調不良が起きた時、何が原因か特定するのって難しいですよね?
たくさんの病気や原因が考えられる中、専門のお医者さんでさえも診断を誤ってしまう時はあり、セカンドオピニオンの重要性が説かれているほどです。
それが原因不明の未確認な存在となれば尚更、原因の特定や対策を講じるのは困難を極めます。
ネットで軽くこれまでの感染症の発生や流行時期について調べてみましたが、どれも何百年単位の存在であることがわかります。
これは来年には解決するような問題ではなく、認識を改めて受け入れた方が楽そうです。
500年代~…ペスト確認、天然痘流行
1300年代~…ペスト流行
1400年代~…発疹チフス
1500年代~…梅毒流行
1600年代~…天然痘・発疹チフス流行、黄熱病発生、コレラ菌・結核菌・ペスト菌・破傷風菌発見
(参照:人類を脅かす感染症のパンデミック(世界的大流行)|これからの衛生管理 | 大幸薬品株式会社、文部科学省:感染症について知ろう)
解決策となる「生きる意味」を持つことの重要性
わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと強制収容所の心理学。
今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される……このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
この本では問題にぶつかる度に「未来の目的を見つめること」「人生や誰かが自分を待っていると思えること」がカギとして話されています。
著者自身もまさに、この収容体験を心理学的に講演することを目的として生き延びています。
(この気持ちは私も身に覚えがあり、同じような感覚でブログを書いています。)
内的なよりどころ、つまり「生きる意味」を持つということです。
収容所生活を生き延びるためも、解放されたあとの向き合い方でも。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
生きる目的を見いだせないと、生きていてもなにもならないと考え、存在することの意味をなくしてしまうのだそうです。
生きる意味を持つための土台づくりを
収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。
わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。
にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。
ともあります。
誰かに目的を求めた場合、その誰かがいなかったらすべてが崩れてしまいます。
そうなると、生きる目的を見失ってしまい、それを乗り越えることは容易ではないと。
しかし誰かのためだと、その誰かをなくした時に何もなくなってしまいますが、自分という存在であれば一蓮托生です。
だからこそ自分の中に「生きる意味」を見いだす必要があります。
私はこの自分の芯となる「生きる目的」を見いだすために、「おひとり様」で向き合うことから得られるものが有効かもと感じて、この記事を先に書いてみました。
そして、本の中では必要なものが「生きる目的」についてまでで止まっていました。
克服するのは容易なことではないが、精神医として使命感を感じると。
しかし、先ほどの文から推測するに、生きる目的の次に必要なものも書かれています。
「不幸せへの心構えができていなかった」ということは、つまり幸せを求めているということです。
乗り越えるのに必要だったのは、幸せではなく「生きる目的」でした。
だとしたら、乗り越えた先に必要なのは「生きる目的+幸せ」だということではないでしょうか?
生きる目的を知るには、自分の理解が必要です。
何に幸せを感じるかも、自分が何を快適に思うかの理解が必要です。
超面倒だし、日々のことに追われてやる余裕も時間もない気持ちもよくわかります。
自分と向き合うというのはいろんな感情が押し寄せてきます。
社会で良しとされない部分もいっぱい出てきます。
辛い経験とか恥ずかしさとか、無意識に押し殺していた感情とか出てきて、うわぁぁぁってなります。
私自身、何度も後回しにしまくりました。
でも後にすればするほど、重ねた年月分大きい壁となって越えるのが大変になります。
一度自分の足場を固めるという作業の重要性を今ひしひしと感じています。
ここを固める作業と向き合う時間ってなかなか作りにくいものです。
「受験しなきゃ」「就職しなきゃ」と10代のうちから波に飲まれるからです。
本来はここでじっくり考える時間って必要なんじゃないかとさえ思います。
その方が正しい方向へ力を注ぐ時間が増えるのではないかと。
自分が好きで得意なところが1番力を発揮できるということに気づいて行動に移している人は増えてきています。
そのために何かしらの形で一度立ち止まっている人も多いと感じます。
フィッシャーズは10周年目前に、自ら動画投稿休止期間を設けていました。
ヒカルは大炎上して、自粛期間がありました。
カジサックも失踪事件を起こし、心身症として休養していました。
ホリエモンは逮捕され、刑務所に収容されていました。
メンタリストDaiGoですら、多忙なスケジュールに追われメンタルを崩して自分の生活を見つめ直しています。
今活躍している方たちはどこかで立ち止まって、自分を見つめ直したり、体勢を立て直したりしています。
竹内結子さんの悲しい事件について話します【自分を追い詰めない方法】
またあっちゃんの動画の中では、ペスト・コレラ・黄熱病・天然痘は歴史を変えた感染症と言えるとも紹介されています。
パンデミックが起こる度に、世界の歴史も大きく変わっているのです。
ということは、今も転換点真っただ中なのではないでしょうか。
事務所をやめたり、仕事をなくしたり、新しい人生をスタートさせる方も多くなっています。
私自身も仕事をなくしましたが、自分を見つめ直す大切な時間をいただいたと思って過ごしています。
そこで得られたものはたいへん大きな重要なものだと感じています。