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人生を明るく楽しく過ごすための模索と経験をアウトプットしてます。

久しぶりに読んだ漫画『重版出来!』はグサグサ刺さるものがありました。

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2016年放送の漫画編集者を題材にした『重版出来!(じゅうはんしゅったい)』というドラマが好きでした。しえるです。

 

黒木華(はる)ちゃんの元気いっぱいな小熊ちゃんやオダジョーさんの演じるカッコイイ五百旗頭(いおきべ)副編集長など、皆ハマり役で毎週楽しみにしていたものです。

 

ただ、漫画の方は3巻までしか読んでいなくて、続き読みたいな~と思いながらも放置してきていたのですが、今アプリ『サンデーうぇぶり』で明日15日まで1~4巻が無料で読めることにギリギリで気づいて、駆け込みで読んできました。

サンデーうぇぶり
サンデーうぇぶり
開発元:SHOGAKUKAN INC.
無料
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そしたら漫画内のセリフが随所で染みたり刺さったりしてしまいまして。

今読んだからこその響き具合なんだろうなぁ、当時じゃここまで響かなかっただろうなぁと感じつつ、読んで思ったことを書いてみます。

久しぶりに読んだ漫画『重版出来!』はグサグサ刺さるものがありました。

転職迷走時代の自分を思い出す

私は自分で地道に努力することを、成長することを、拒んだんだ――
黒沢さん、あんなに一生懸命やってくれてたのに…
先を急いで周りが見えなくなって…
私は――信じてくれている人の…離してはいけない人の手を、離してしまったんだ。

私が無茶苦茶な転職をぶっ込んだ理由って、まさにこれだなって思いました。

当時は環境的にはすごく恵まれた職場だったけど、ずっと好きになれない自分の自己啓発にハマり、その結果「このままじゃダメだ」って思いが日に日に増していくような状態でした。

それまで私は一歩ずつ自分で地道に努力を重ねていたのに、「このままの自分じゃダメ」という呪縛から早く逃れたい一心で、「なりたい自分」になるために「自分に足りないもの」を補うための転職をしていたのです。

 

結果としては、たった3年で自分の知らなかったことを山ほど知ることができ、ずいぶんとたくましくなったので、その経験は財産となりましたし、自分の不足を見ようとするから辛いのであって、「このままの自分でいいよ」って許可してあげるだけでいいんだと気がつくこともできました。

が、その真っ只中では心身ともにたいへん苦しくて、涙が勝手にボロボロ出てくるような日々だったので、社会の荒波に揉まれる東江さんの姿は、いろいろな苦さを思い出すものがあります。

いや…前からこうだったんだ。

私の目に入らなかったんだ…自分の都合のいいところしか目に入らなかったんだ。

ネットに悪い評判があったことに気づくものの、以前はよい評判しか目を通していなかったというのも、まったく同じ経験をしました。

今考えれば口コミだけでなく、明らかに怪しい部分はあちこちであったんですよね。

たとえば面接が4時間かかって、トイレには行けないし、お茶がなくなって喉はカラカラだしで、どう考えても度を超えているんですけど、当時は社会を知らなさすぎて「熱心な会社なんだな」の一言で済ませていました。

入社してから、会議が1日がかりだったり、ガチで数時間説教タイムが発生していたりなど、人の時間を奪うことに無頓着な体質なんだとわかりましたが、人って都合よく受け取ってしまうものですね。

混乱してはだめよ、絹。
あなたがキライなのは漫画じゃない、今描いてる作品…仕事のスタイルよ。

映画コミカライズの初仕事で芸能事務所の圧力から度重なる内容の変更があり、原作や自分の絵の味から遠ざかっていくことに悩む東江さんに対し、東江さんが所属する黒百合まんが部の部長による励ましの言葉は、見誤ってはならない大事な視点だと思いました。

 

私はなぜか飲食店を切り盛りすることになったりしましたが、私が好きなことはあくまで「おいしいものを食べて回ること」であり、提供する側ではありませんでした。

最初こそ、未知の世界を知る楽しさや我が子(店)を育てるような感覚はありましたが、元々は一切興味がないわけですから、無理は長くは続きません。

 

好きなものであっても、その言葉の内容はたいてい多岐にわたるものです。

その中で自分が具体的に「どんなジャンルや雰囲気のものが好き」で「どう付き合っていきたい」かというものを明確にして沿っていかないと、好きなものを扱っていても苦しむことになります。

 

今その店は順調に出世していってるらしく、ふと名前を目にすることもありますが、未練は一切残っていません。

ただただ、スタイルが合わなかったのだと思うばかりです。

環境の変化というもの

「FLOW」が廃刊するって聞いた時、悔しくて情けなくて。上への怒りが収まらなくて……
でも会社を辞めてわかったんです。ボクは努力が足りなかった。
あんなに単行本を売りたいと思っていたのに、一度だって営業や宣伝担当に相談に行かなかった。
ただ部内で文句を言ってただけだ。
「一生懸命」のポーズに酔ってたんです。

ボクは「FLOW」を守れなかった。

でも今度から全力で守ろうと決めたんです。

自分のできることは全部やる。自分の頭で考えて、動く。

やるなら必死で、産業構造を変えるくらいの気迫で。

自分が動かないと何も変わらないって気づいたんです。

フリーになった編集者さんの言葉には、自戒も込めて共感しかありませんでした。

 

私は転職を重ねるごとに勤め先がどんどん小規模になっていたのですが、規模が小さくなればなるほど、1人の負担というものは大きくなることを身をもって学びました。

それに伴って、文句を言う側から文句を言われる側の立場というのも経験するようになって、この気持ちすごくよくわかるなぁと思うようになったのです。

 

特に一人暮らし、家庭の築き、起業開業、フリーランスといったような、1から自力で何かしらの環境をつくりあげる経験というのはそれぞれ、人の視野を大きく変えるものだと思います。

できあがった仕組みの中でこなすこと、すでにあるものを変えること、何もないところから形作っていくことはそれぞれ意識がもはや別物ですし、そのエネルギーの重みを経験していないと、どこか浮ついたところがあったりします。

だからこそ、この編集者さんはフリーになって自分が「できあがった仕組みの中でこなすことに一生懸命だった」ことに気がつき、猛省したのでしょう。

 

イヤなものはイヤなので、文句は言ってもいいと思うけど、それと同時に+αの行動をすることこそが肝心だし、そうでないと環境というものは、自分の望みに向けて変えられないのだと痛感しています。

グチばっかり言ってなぐさめてほしくて…
でも、もしかしたら――グチは自慢の一種なのかもしれない。
ましてや持ってない人にとっては……

私が転職した頃、仕事の重みに耐えられなくてあちこちで愚痴を言っていました。

同じような状況で苦しむ友人と励まし合ったり、すでに乗り越えた人たちにアドバイスをもらったりする中で、一部の友人とは疎遠になっていきました。

 

しかしその中にはフリーターの子とかもいたので、それまでずっと世間知らずの雇われでゆるくやっていた私が、自分と違う世界に飛び込んでいることにそういった印象を与えた可能性も、もしかしたらあるのかもしれません。

 

結婚生活の愚痴が独身者からは自慢に聞こえてしまったり、逆に独身者のノビノビとした生活が既婚者には自慢に聞こえてしまったり。

自分がどう思っていようと、今いる環境が相手の望むものである可能性があることは忘れないようにしたいところです。

今日ね久しぶりに英君に会ったら、「バイブス」を訴えようって言われちゃった。

下請法ってゆうの?そんな話の前に労わってくれよってカンジだよ。
なんであんなリアクションなの?わかってないよ。

 

いい奴じゃん、お前が辛そうだから何かしてやりたかったんだよ。
お前にいいトコ見せたいんだよ。
焦ってんだよ、お前だけどんどん先に行くから。
お前こそわかってやれよ。

編集の無理難題に振り回される新人漫画家の東江さんに、見兼ねた彼氏の英君が「あきらかにおかしい、訴えようぜ」と提案します。

しかし、東江さんは「…英君は一度でも、自分の好きなことに真剣に向き合ったことあるの?本気になったことない人に、社会に出て苦しんだことのない人に、何も言われたくない!!」と言い返してしまいます。

家に帰ってからも英君に対して文句を垂れる東江さんに、お兄さんがこうフォローするのです。

 

これも、あれ…もしかして…?と思い当たることがありました。

相手は店を経営する個人事業主で、以前は「誰かを雇うつもりはない」と話していたし、店の経営維持の大変さを諭されたこともあったのですが、久しぶりに顔を見せた時、仕事を辞めた私に「うちで働く?」と声をかけてくれました。

その時は「在宅で生計を立てられるようになりたい」という、これからの自分のことで頭がいっぱいで「在宅フリーランスで考えているから」と受け流していましたが、今考えると、傍から見ればただの無職だし、相手と似た境遇の経験を経たうえで、相手の知らない世界の話をする年下の私を見て、何か思うところがあったのかもしれません。

そんな優しさにまるで気づいておらず、まさに自分に言われたかのような言葉にドキッとしてしまいました。

それは誰のもの?

これは先生の原稿、きっちりパース*1取って。
好き勝手は自分の原稿でやって。

大御所漫画家・三蔵山さんのもとでアシスタントをしながら連載を目指す伯くんは、自分の感覚で仕上げたコマについて同僚のアシスタントに「自分の原稿じゃないんだから」と指摘されます。

 

これ、校正やっていてめちゃくちゃ感じるんです。

 

校正のお仕事って、自分には想像のつかないトンデモ日本語がいっぱい出てくるので、「はぁ?」とはなりながらも「そんな使い方をしてくるのか!」というのが面白かったりします。

ただ、言葉の正誤以外のところで、あまりにもガイドラインや固有名詞の正しい表記をガン無視する人が多く、「なぜ?あなたはどういう立場で書いているか理解しているのか?」と感じることもしょっちゅう。

 

書いているのが自分のブログなどであれば、そりゃあ何でも好きなように書けばいいでしょう。実際に私もそうしていますし。

しかし、企業のメディアの名を冠したライターとして雇われているのであれば、やはり「誰のものなのか」は意識した方がいいと思うのです。

 

伯くんが描いているコマが三蔵山さんの作品の一部であるように、ライターが書いているその記事は、あくまで相手企業のものです。

 

たとえば、企業名や商品名などといった固有名詞を正しく書かないというのは、そのメディアと相手の企業同士の信用問題に関わってきます。

自分がそう思っていなかったとしても、ライター個人ではなく「この企業が自分の所の名前を間違えて書いている」という話になるのです。

 

またメディアというのは、どんな人がつくってもクオリティを統一できるように、表記のルールがマニュアル、ガイドライン、レギュレーションといった形で決められています。

具体的には、文字を漢字で書くか、ひらがなで書くか、カタカナで書くか、英字を使うか、半角か全角か、大文字か小文字か…、数字は区切るのか、万などの単位を使うのか、絵であれば色の指定や余白の大きさ、背景色や縁取りなどの細かな設定ですね。

これらはその企業が読みやすいだろうと判断したり、こだわりがあったりして、独自ルールとして定められているわけです。

 

その中では、「妻」「ママ」「主婦」「嫁」「奥さん」「女房」「家内」どの呼び方を使うかや、「しょうがい」という言葉を「障害」「障がい」「障碍」どの漢字を採用するかなど、時代に合わせて該当する方々へどう言葉の配慮をするかなども社内で検討されていたりします。

 

環境依存文字を使わないというのもそうですね。

日常的になんとなく使っている字でも、Windowsだけの文字、Macだけの文字というような機種限定の文字というものが存在します。

①②③の丸付き数字、♡ハート、㎝センチなど、Windowsで変換すると横に[環境依存]と書かれているものですね。

今でこそパソコンで絵文字すら表示できることも増えてきましたが、それでもいろんな環境からネットに繋げられているわけですから、メディアというのは通常であれば、誰にでも同じものが見られるようにという配慮をしています。

 

そしてこういったものは細かい差はあれど、ちゃんとしたメディアなら定められているはずの共通認識と言っても過言ではないかと思います。

 

いろいろ書きましたが結局のところ、このぼやきは校正が直す仕事と言われてしまえばそれまでです。

雇用した会社側がそれでよしとするのであれば、仕方ありません。

ただ、それがあまりにひどい人はこちらも受けたくないので、避けるようになるだけの話ではあります。

 

私自身はメディアで働いたことがあるので、この基本的な感覚が染みついています。

たとえ自分が気にしなくても、世の中には気にする人はいるもので、「あぁ、本当にクレームって来るんだ」と話を聞いて思ったものです。

しかしクラウドソーシングが浸透した昨今では、その感覚を知らないままいきなり個人契約を結ぶので、同僚が教えてくれるような環境はなく、こういった基礎がなおざりにされてしまうのかなぁと感じるこの頃です。

だから漫画は読みやすいのだ

お前以外は全員、初めて読むんだよ。
感性も感覚もそれぞれ違う不特定多数の読者に対して、わかってもらえる作品に調整するのが、お前の仕事。
そのネームがきっちりできたうえでの連載なんだ。
作品と作者に思い入れがあっても、そこは客観的に、厳しく指導する力をつけないと。

熱意だけじゃだめなんだ。
作者も作品も、不幸になるぞ。

連載を目指す伯くんの漫画は独特の世界観で目を引くものがあるが、独特すぎて置いてけぼりにしてしまう側面も持っている、といったニュアンスで評されています。

 

「親からたまに犬の首輪をつけられていた」をジョークとして言ってしまうくらい、特殊な出自で育った伯くんは、思考に偏ったクセがあり、同じアシスタント同士の間でも変わり者扱いされて引かれる場面が描かれています。

その感覚の差が漫画にも表れていて、五百旗頭副編集長から「エピソードの重複、クライシスシーンに入る流れの不自然さ。セリフのリズム感も厳しいかな。つながりの弱い人間関係。ドラマパートの客観性のなさ」といった指摘を受けるのもやはり、偏重思考によるものなのでしょう。

 

そんな引かれてしまうような伝わりづらい伯君の個性を、一般的な人が受け入れられるように調整するのが編集の仕事だという言葉に、なるほど!となりました。

漫画だと『ブルーピリオド(絵画)』『ヒカルの碁囲碁)』『アイシールド21(アメフト)』『ラジエーションハウス(放射線科)』『Shrink シュリンク-精神科医ヨワイ-(精神科)』など、身近なテーマでなくてもわかりやすく描かれていたり、なんとなく楽しめるものが多いですよね。

先日、読みやすい文章の記事で、説明が足りない文章の対比として漫画をわかりやすい例に出しましたが、そこには漫画家さんだけでなく、編集者さんの努力もあったんですね。

ciel-myworld.hatenablog.com

自分と向き合うのって怖いですよね

アイツは「本当のこと」しか口にしない。
自分のことも、他人のことも、絶対にごまかさない。
まっすぐですべてを振り切って、周りのことなどおかまいなしで。
残酷で自由で、漫画の神様に愛されるのはこういう奴かと打ちのめされて。

三蔵山さんのもとでアシスタントとして長年働く沼田さんは、連載に一心な伯くんのまっすぐな言葉で自分が見ないふりしてきたものを突き付けられ、エゴやプライドが反応して心が揺れます。

ただ――こんなに醜い自分の感情に耐えられない――

誰かに対して嫉妬や羨望、苛立ちなどを感じることってありますが、本当は相手のせいではないですし、どこか心の奥底でそれをわかってる自分がいたりするんですよね。

ただただ自分の中にある感情なのですが、そんなどす黒い感情が自分のものだと認められなくって、誰かのせいと押しつけてしまいたくなりますし、見て見ぬふりし続けるほどにそれは大きくなってしまい、時に抑えきれなくて爆発してしまうこともあります。

アイツに会って、ハッキリわかった。
俺はプロになるのが怖かったんだ――
厳しい競争をくぐり抜けなくたって、デビューしなくたって、三蔵山先生のところにさえいれば…漫研のみんなにはほめられて期待されて。
地元の友達にも羨ましがられて励まされて、
「夢があっていいよなぁ」「頑張れよ!」、
アシスタントさえしていれば――他の連中とは違う。
「夢を持った特別な人」でいられたんだ。
プロアシになる勇気もなく、地元に帰る勇気もなく、自分の気持ちを正面から見つめる勇気もなく…

その苦しさの中には現実の直視だったり、結果が出てしまうことへの恐怖や不安だったり、未知なる自分への足踏みといったものがない交ぜになっているように感じます。

 

そして、何かしらの結果を残す人というのはだいてい、こういった葛藤を乗り越えて取り組んでいたりするものですが、中にはその葛藤を知らずにすぐに物事と向き合い始めて結果を出す、いわゆる早熟な人というのもいたりします。

世間一般で「天才」と言われがちなのは、そういった早熟な人たちのことかと思いますが、ただ天然で「やらずにはいられない」人たちだったんだろうなぁと推察しますので、その人たちからしたら「やらない理由がわからない」という風になってしまうのでしょう。

俺の分も頑張ってくれ!

無理です。僕は僕です。
他人にはなれません。

沼田さんの声かけに、伯くんは淡々と「無理」と返す場面。

そりゃそうだと思いつつ、でもふわっとかけられがちな言葉であるとも感じます。

blog.tinect.jp

つまり、「察してもらう」ことで楽をしていた分のコミュニケーションコストって、丸々相手の心理的安全性を食いつぶす形でまかなっていた、ってことだったんですよね。

先日はこちらの記事を読んで、私もふだんから言葉で伝えていくのが大事と考えていたので共感していたのですが、「察してもらうというのは、相手の負担を削って自分が楽をするコミュニケーションだ」と感じたできごとを話されていたんですね。

 

先程の「俺の分も頑張ってくれ」も相手の負担に乗っかるコミュニケーションの一種と言える気がしますし、そういったものって思いのほか多いのではないかと感じます。

 

たとえば、誰かから応援してもらうのはとても嬉しいことですし、心強かったりします。

 

ただ、好きな気持ちは純粋であっても、それが時に相手を縛る言動をし始めることがあります。

「こんなん〇〇じゃない」とか「ああしたほうがいいよ」「こうしてほしい」とか。

子どもに自分の叶えられなかったことをやらせようとする親御さんもいたりしますよね。

私も応援していた選手が出られなくなっているのに、モンストしてるとつぶやいていて、モンストしている場合か?と思ったことがあります。今考えると、余計なお世話ですが。

 

今は、1番考えるべきは自分のことだと思っているし、そうしていると他人のことをそこまで気にしている時間はなくなりました。

合わなければ離れていけばいいだけの話です。

そうなってくると、相手のスキルをすごいと思うことはあっても、どんな人も対等だなと感じるように変わっていきました。

 

そんな自分が昔を思い返すと、自分を直視しないために、相手の言動に意識を割きまくってていたんだなぁと感じます。

 

結局、どうにかできるのは自分だけだし、他人がどうしようと関係ないことを学んだしえるでした。

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*1:遠近感を表すための図法

エシカル消費やフェアトレードの考え方は遠い国のための話だけではないと思ったことについて。【巡り巡って自分のために】

Untitled

気づけば書き始めて半年経過、重い腰を上げました。しえるです。

 

よく環境問題や人間関係のトラブルなどに対して「想像力を働かせよう」的な呼びかけを見かけますけど、私個人的には当事者の立場にならないと、本当の意味で当事者意識を持つことはむずかしいと感じています。

そう思うのはこれまで実際、私の何らかの意識がガツンと変わるときって、自分の身に降りかかったり、どうにかしないといけないと追い込まれて初めて行動に移すことが多かったからです。

 

そんな経験から「聞くより見る、見るよりやる」というように、自分の関わり具合が増えるほどに理解度は上がると思っています。

そしてそのためには何事もまず「聞く」、つまり「存在の認知」から始まる必要があるのではないでしょうか。

 

今回はアナウンサーの末吉里花さんによる「はじめてのエシカル」という本を読んで知ったことを通じて、自分ごととして感じたことをまとめてみました。

エシカル消費フェアトレードの考え方は遠い国のための話だけではないと思ったことについて。 【巡り巡って自分のために】

エシカルとは?

もともと「倫理的な」 「道徳的な」という意味で、最近では「人や社会、環境を傷つけないよう配慮する考え方や行動」として使われるのが主流となっています。

自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方

「はじめてのエシカル」の著者の末吉さんは、「日立 世界ふしぎ発見!」でミステリーハンターとして世界の秘境を旅したことがきっかけで、人々の暮らしや自然が脅かされている様子を目の当たりにし、生活のあり方を徐々に変えていったそうです。

彼女の「自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方をする」という考え方にとても共感します。

紛争鉱物「3TG」と「コンフリクト・フリー」

携帯電話やパソコン、タブレット端末などの電子機器は、今や必需品となりました。

しかし実は、その中に使われている鉱物に問題が隠れています。

主なものは、スズ(Tin)、タンタルタングステンの「3T」で、配線コードに使われるゴールドの「G」を合わせて、「3TG」と呼ばれます。

この3TGが産出されるのは、主にコンゴスーダンブルンジなど、アフリカ諸国。

多くの地域で内紛が続いています。

そこでは、武装勢力が鉱物の輸送ルートを襲って3TGを巻き上げ、自分たちで換金して武器の購入資金にしています。

武装勢力の資金源となれば、紛争を長期化させてしまうことになりかねません。

これは、私たちが携帯やパソコンを買うことで、間接的に紛争に加担してしまう可能性があるということです。

ブラッド・ダイヤモンド」のように宝石で武器や紛争などにお金が流れているという話があるのは知っていましたが、ほかの鉱物まで考えが及んだことはありませんでした。 

紛争に関わらない鉱物は「コンフリクト・フリー」と呼ばれ、ヨーロッパではそれを使ったスマートフォンが「フェア・フォン」という名前で発売されているのだそうです。 

サスティナブルとは?

地球温暖化」「資源の枯渇」といった環境問題が掲げられる昨今。

「持続可能」と訳されるサスティナブルは、そんな地球の自然環境に配慮し、維持に貢献する事業・開発・行動を指す言葉として使われるようになり、この数年で耳にする機会もだいぶ増えてきました。

最近では、2015年に国連で採択された世界全体の目標「SDGs:Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」という言葉を目にする機会も多いですね。

地球温暖化進行の加速度を知ってビックリ

たとえば「地球温暖化」は、地球全体の平均気温が上がり、氷河などが解け、生態系に影響を与えたり、災害が増えたりしていることが問題とされています。

これは二酸化炭素などの「温室効果ガス」によって引き起こされているもので、産業革命後に急増したというのはなんとなく学校で習った記憶があります。

 

本に書いてあって個人的に驚いたのが、100年以上かかって1度上がっていた世界の平均気温が、本が書かれた2016年前半には、たった半年で0.3度も上昇しているということ。

なんとなく年々暑くなっているなぁという体感はありましたが、数字で加速度合を見るとペースがエグイなぁと感じますし、近頃ではカナダなどでの熱波のニュースに驚かされています。

www.yomiuri.co.jp

ちなみに現在見ている映画「不都合な真実」は、アメリカの元副大統領アル・ゴア地球温暖化について訴えるドキュメンタリーで、わかりやすくて勉強になっています。

ラルクアンシエルの「SEVENTH HEAVEN」という曲は、hydeさんがこの「不都合な真実」を書籍で読んで書いた曲というのは認識していましたが、改めて考えるとよくできた歌詞だなぁ…と思いました。

溢れ出し 飲みつくす 快楽と対比する症状
転換し、この大地へと築き行こう

この瞬間にも進行 廻りまわり 色は変わり

誘惑に溺れ沈み 堂々巡り 塵も積もり

フェアトレードとは?

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このチョコレートの右下にあるマークは、直訳すると「公正公平な貿易・取り引き」となるフェアトレード

開発途上国でつくられた原料や製品を適正な価格で継続購入することで、立場の弱い生産者・労働者の生活改善し、自立を支援する取り組みのことを指しています。

環境と人権に配慮された商品を生産し、それを輸入すれば、現地の生産者に十分な利益を受け取ってもらえるというわけです。

www.fairtrade-jp.org

たとえばチョコの原料となるカカオ農園や服をつくるための綿花畑などでは、100万人以上もの児童労働や農薬使用にあたっての借金・健康被害など、過酷な労働環境によるさまざまな問題を抱えているそうです。

www.swissinfo.ch

オーガニックコットン

Untitled

以前書いた遺伝子組み換え作物同様、綿花でも農薬や枯れ葉剤問題があります。

第二次世界大戦ベトナム戦争で使われた毒性の高い薬剤が使われているにもかからず、生産者は農薬の害について知らされないので、素手で農薬を扱って手の皮膚がただれる人も少なくないそうです。

また、人間だけでなく環境にも深刻な影響を与え、土地もやせていってしまいます。

 

そしてそのように搾取される環境でつくられた綿の服などを着用するということは、明らかに健康被害を受ける化学薬品が付着したものということで、皮膚の弱い自分としては「肌荒れの原因となりかねないものは避けたい」という気持ちに変わっていきました。

ciel-myworld.hatenablog.com

農薬を3年以上使用していない畑で作ること、化学薬品を使用せず有機肥料を使って栽培することなどの基準が定められています。

もちろん、 収穫時も枯葉剤を使わず、多くは一つずつ丁寧に摘み取られます。

現在、オーガニックコットンの作付面積は全コットンの1.1%ですが、10%に増えれば、年間274万トンもの二酸化炭素を削減できます。

オーガニックコットンというのは、生産者にも、商品の利用者にも、環境にもやさしいと言えます。

(ちなみにオーガニックに基準はありますが、日本でJAS法の認証対象となるのは「農産物、加工食品、飼料及び畜産物」のみとなっており、綿花は対象外となっているので有機JASマークがつきません。)

www.wwdjapan.com

今はプラスチックについて学んだこともあり、新しく布類を買うときはオーガニックコットン100%のものを探すよう心がけるようになりました。

ciel-myworld.hatenablog.com

激安商品の背景にあるものは他人事じゃない

激安商品の背景には、どこかで正当な対価が支払われておらず、低賃金で長時間働かされている現実があります。 

私たちは今、とても安い価格で洋服を買うことができます。
リーズナブル(reasonable)のもとになっている「reason」は「理由」や「理性」を意味します。
それでは、安い洋服のreasonとは何でしょう。

ファストファッションの多くは、中国や東南アジアで作られていますが、その工場はスウェットショップ(「sweat」は「汗水たらして働く」とか「搾取する」という意味で、日本語では「搾取工場」と訳されます)と呼ばれています。


中国のある工場では、先ほどの男性が働いていたような厳しい暑さの中、一日平均11時間、働き通しだと言います。休みは、1ヵ月に1、2日だけです。

またバングラデシュでは、休日もなく、朝早くから夜11時まで働かされている例もありました。
化学薬品の管理がずさんなため、皮膚がただれたり頭痛や体調不良が起きるなど、健康被害も多く報告されています。
工場では、女性や子どもたちも長時間働いています。
出産直前に休暇を願い出ても許されず、中には深夜残業を強制されていたケースもあります。

そして過酷な状況で働いているにもかかわらず、賃金は、その国の中でも平均か平均以下がほとんどです。
出来高制の工場も多く、一日何時間もの時間外労働をしないと、その国の平均月収に届かないため、休日出勤や残業が日常化しています。


雇用が十分に確保されていない途上国では、いったん仕事を失うと、新たに職を得るのが大変です。

また新しい農村部から都会へ出稼ぎにきた人たちが職を失えば、残してきた家族まで路頭に迷うことになります。
欠勤すればたちまち、解雇されてしまうため、どんなに体調が悪くても無理をおして働かざるを得ない人が多いと聞きます。
パワハラやセクハラも日常的に起こり、工場長や管理者に暴力をふるわれたという報告も多数あります。


洋服につけられた安い値段のreason、少しおわかりいただけたでしょうか。
原価を抑えることでしか、安い値段をつけることができません。
安い原価は、工場で働く人々の人件費を抑えているからできたことにほかならなかったのです。

これってぶっちゃけ、今の日本に当てはまる部分も大いにあると思うんです。 

大規模な市場を求めて、大企業の希望を叶えるべくお金や納期について無理していたり、雇われ側の立場が弱かったり、ちょっと具合悪い程度じゃ休まない国民性だったり…。

以前の私は体調不良の休み時がよくわかりませんでしたし、実際に転職先で会社の先輩が胃痛や血尿を抱えながら、ギリギリの状態で商談に出かける姿を目にして怖くなったことも思い出します。

toyokeizai.net

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フェアトレードがもたらす福利

バングラデシュ西部、インドとの国境沿いの小さな村、タナパラ村です。

タナパラ村には、残酷な歴史があります。
1970年代に勃発したパキスタンからの独立戦争で、村の男性約200人全員が殺害されたのです。

終戦後、残された女性たちが自活できるよう、スウェーデンNGOが支援に入り、スワローズが設立されました。
それ以来、彼女たちが持つ刺繡の技術を生かして、衣料品を生産しています。


実際に訪れてみると、工房は風通しがよく光も十分に入り、居心地のいい空間でした。
その中で、女性たちが糸巻きや機織り、刺繍、縫製とさまざまなセクションに分かれて働いていました。

同じバングラデシュでも、一般的な工場で働こうとすると、都市部に出稼ぎに行かなければなりません。

しかし、タナパラ村では雇用があるため、親子一緒に生活できます。
おまけに、工房の横に保育園や小学校が併設されていて、小学校は村の子どもなら誰でも通学でき、すべて無料です。

フェアトレード団体というのは、このスワローズのように売上金によって、雇用と生活の保障、地元でのよい職場環境、子どもたちの教育といった手厚い福利厚生を整えているのだそうです。

五方よしの理念 

生産者が品質のよいものをつくり続けていくために、差別や強制労働のない安全な労働環境や生活水準を保証し、また自然環境にもやさしく配慮することで持続可能な取り引きサイクルをつくろうとするフェアトレード

近江商人の心得でもある「買い手によし、売り手によし、世間によし」の「三方よし」に「作り手によし、地球環境によし」も加えた「五方よし」をめざすフェアトレードは、より多くの人に幸せをもたらす理念と言えます。

digital.asahi.com

エシカル消費は巡り巡って自分のために繋がると思う話。

先述のエシカル消費フェアトレードの精神は、この先とても大事になってくるものだと感じます。

というのも、これって遠い国の話だけじゃなく、ゆくゆくは自分のために繋がる話だと思うんです。

支払うお金は上がるかもしれないけど… 

フェアトレード品は割高だという声も聞きます。
しかし価格には、生産者の賃金だけでなく、彼らが暮らす上で不可欠なインフラや教育のための資金も含まれています。
それは、生産者の学校や地域コミュニティ全体のメリットとなる活動への資金となります。

たしかにそういった商品の価格は上がるので、出費はかさみます。

しかしそれは、先ほど紹介したように働く人たちの生活を保障しているからなわけです。


つまり、生産する人々の生活が保障されるために必要な、本来の適正価格ということになります。


もちろん余裕がないのに無理して買う必要はありませんし、自分の財政状況に見合ったお買い物という考え方は大事だと思います。

 

ただ、自分が安いものを買いたいって思えば思うほど、人や環境を消耗させる会社が儲かるということです。

その適正価格を支払えるのに避けるというのは、適正な報酬を得られない社会に自分の力を分け与えているとも言えるのではないでしょうか。

何を基準に考えているかの違い

ここで自分ごととして考えてみます。

高いなぁと思うフェアトレード品などの価格は、自分の生活が保障されるのに必要な金額であり、激安価格というのは関わる人々の金銭面、健康面、精神面などいずれかの何かしらを削っているわけで、もしかしたら削られているのは自分かもしれないということです。

 

消費者は使えるお金が限られているから、安いものを買おうとします。
会社は高いと多くの人に買ってもらえないから、価格を抑えようと利益や原価を削ります。

原価というものには、自分を含めた働く人々の人件費も含まれます。

家庭を支えることも、事業を継続することも、どちらもお金がかかるものですし、入ってくるお金には限りがあります。
これはどちらも「高いものを買うこと」「値段を上げること」が怖くて踏み出せず、お互いを削り合っている状況といえるのではないでしょうか。

そしてこの両者の奥底にあるものは、お金に対する不安です。

「いつもと金額を変えてみたとき、次のお金が入ってこなかったらどうしよう…。」
現状維持が続く背景ではきっと、そんな漠然とした不安が基準になっているのではないかと思います。

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それに対し、先程のフェアトレード団体の取り組みを見てみると、ここで基準となるのはまず人々が安心して生活できるということ。

そしてその生産者の生活や事業に使う環境を維持するために必要なお金を原価として組み込んだ売価が設定されています。

  1. 働く人々や会社の生活の安定
  2. そのために必要な売価を設定する
  3. 考え方に賛同した人がお金を払って購入する

優先順位で最も高い位置にあるのが、働く自分たちの生活の安定なのです。

今は一部の取り組みなので高いと感じるかもしれませんが、もし社会全体が「働く人々や会社の生活の安定」基準となったらいいなぁって思いませんか?

 

それに売価を上げるということは、今後どちらにしろ必要になってくるはずだと思うんです。

現在の状況って人口と消費は減少傾向で、最低賃金や原料費は上昇していっていますよね。

ということは収入は減っているのに、支出が増えていっている状態です。

そして人口はまだまだ減るので、今後は薄利多売が通用しなくなるはず。

人数的に今ほどの多売ができなくなりますからね。

であれば社会の仕組みが変わらないかぎりは、同じ額を得るために価格を上げるというのは必要になってくる気がします。

1,000人(人が多い)×100円(安価)=100,000円
          ↓
100人(人の減少)×1,000円(高価)=100,000円

これはわかりやすくするための極端な例ですが、この考えにシフトはせざるを得ないのではないでしょうか。

自分が働く会社や取引先はどうか?

これは消費の視点だけでなく、自分が働く環境という視点でも同じだと思います。

 

私は実際にブラック企業や過酷な環境の工場で働きましたし、原料の値上がりで逼迫しているのに、値上げになかなか同意してもらえず苦労したこともありました。

真夏に冷房のない閉め切られた工場でふりかけを詰めていたときは意識がもうろうとしていましたし、飲食店では社長の一存でさらっと深夜手当をなかったことにもされました。

工場の現場は日雇いのバイトで当時の最低賃金でしたし、飲食店ではただの正社員だったのに業務の違う管理職を任され、最終的には不当な賃金ダウンを提示されました。(お陰で失業手当をもらえましたが。)

自分の生活を保障してくれるわけでもなく、むしろ健康面や精神面を削るような会社に自分の労働力を捧げるのはあまりに不健全ではないでしょうか。

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これはいくらで仕事を引き受けるかというのにも重要と言えます。

たとえばクラウドソーシングでよく見かける数字ですが、ライターで言ったら0.1円/文字とかめっちゃ安すぎると思うんです。

この記事で1.5万文字近くなのですが、本を読んで、これだけの量を書いて、ファクトチェックして…という作業が1,500円って、時給に換算したら相当安すぎると思うんですね。

相手の企業はその記事でお金を稼ぐのに自分はそれっきりだなんて、まったく労力に見合っていません。

 

また、私は校正のお仕事をさせてもらっていますが、仕事管理表には時給換算の額を記載し、文字量や必要な校正のレベルで金額に合わない内容の記事は請けないように心がけています。

 

買う人がいるからあこぎな商売が成り立ってしまうのと同様、引き受ける人がいるから劣悪な相場環境がまかり通ってしまう側面はあると感じますので、探すのが大変でも対等なお仕事ができる相手を見つけるというのは大切だし、そこに力を入れる価値はある気がします。

自分にできることを考えてみる

過剰生産とか、安いものを買いたいという節約安定志向の気持ちとか、そういった考え方になってしまうのは、社会の仕組みによるところが大きいと思います。

ぶっちゃけ私が生まれた時にはすでに、日本の著しい経済成長というのは止まってずっと不景気でしたし、社会が経済で成り立つような設計になっているものですから、そこはどんなに嘆いたところでどうにかなるものではありません。

 

それでも今の行動しだいで未来は変えられる可能性があるわけですから、今ある社会の中で、自分ができることをしていくしかないと思います。

【バイコット・ミーニングアウト】どこにお金をかけるのかを意識する

問題のある商品を買わないことで企業に働きかける運動を、不買(ボイコット)運動と言います。

でも、「バイコット」つまり、買って応援したり意思表示したりすることが、エシカルの神髄だと私は思っています。

私たちは日々、何らかの買い物をせざるを得ないのですから。

以前、本当に動物のことを考えるなら不買運動よりも、より動物のことを考えている農家さんにお金をかける方がよいのでは?という記事を書いたことがあります。

これはどうやらエシカル消費の考え方の基本だったようです。

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価格の背景にあるものを知ろうとしてみる 

生産者や作られた環境に思いを向けながら、「今私にできることで、最善の選択は何かな?」と考えてみることはできます。

環境倫理学で有名な加藤尚武さんは、「倫理的であるとは、与えられた条件の中で可能な行為の中から最善なものを選択する態度」であると言います。

自分に無理のない範囲で、等身大のエシカルライフを続ければいい、私もそう思います。

商品の価格というのは基本的に、原材料代や製造費・人件費など、つくるのにかかる費用をもとに算出されます。

価格設定に納得のいかない高いものにわざわざ自分のお金を使う必要ないと思っていて、たとえば私は、高級化粧品のように広告費やパッケージ費用が多くを占めている商品にお金をかけることはありません。

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ただ世の中にある商品の背景には、人の想いや製造上のこだわりなどの詰まった、誇りと情熱をもってつくられた商品というのも多く存在しており、高級品のすべてがお金持ちの道楽とか、表面的に着飾る見栄的なものと判断してしまうのは少し短絡的ではないかとも感じます。

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私はNHKで放送されていた「世界はほしいモノにあふれてる」という番組が、各国に飛び回って買いつけしているバイヤーさんの情熱やこだわり、商品や文化の魅力などを感じることができて好きでした。

大量生産大量消費のモノはつまらない。

ぬくもりがあるモノがもっとあってほしいな。

減ってほしいモノはごみとなるモノ。

ロッコに行って感じました。

ロッコの南の方に行くと、遊牧民とかミニマルな生活をしている人たちがいる。

彼らは貧しいわけではない。お金も家畜も持っている。

だけど、あのミニマルな生活が好きだからやっている。

必要なモノだけを大事に持って生きている。いいなあと思います。

ロッコ雑貨を扱う大原真樹さんのご意見に共感します。

おびただしいモノと情報があふれる中、何を選んで、どう組み合わせ日々を愉しむか。

 

北欧の国々は、元々それほど資源に恵まれているわけではありませんでした。

裕福ではないぶん、人々はふだんの暮らしや日常で使うモノを大事にしてきた。

機能面でも意匠面でも、モノがきちんとデザインされていれば、使い勝手がよくなるし、愛着も持てる。

長く使いつづけられるように、シンプルでメンテナンスしやすいものも多い。

そんな背景があります。

北欧家具を取り扱うイデーの大島忠智さんは、年月を経たからこそ味わいが増すとして、経年変化を「経年美化」と呼び、ただ単に「モノを売る」だけで終わらせないために「大切に愛着を持って使いつづけることの素晴らしさ」を伝えることを意識しているそうです。

産業革命で工業化が進み、粗悪で画一的な大量生産品に溢れていた19世紀のイギリスでは、伝統的職人の手仕事の復興や産業デザインの改良によって生活の質の向上を目指そうとする「アーツ・アンド・クラフツ運動」が興ったそうです。

以前紹介した「アーツ・アンド・クラフツ運動」と似た理念ですね。

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そして商品というのはどんなものであっても少なからず、商品企画立ち上げに奔走した会社や人々がおり、デザイナーがデザインしているわけですから、商品価格には実際の製造費以外に、その人件費やデザイン費用といったものも含まれているはずです。

その製品化の過程では、サンプルをつくっては修正し、改良を重ねたりといった試行錯誤もあったことでしょうし、そのサンプル製造だってタダではありません。

 

しかし流行りのものやデザインを模倣して、安価で売り出すビジネスというのは、人気なものを安く買えてうれしいかもしれないですが、そういった人々の努力をないがしろにし、誰かのデザインをふわっと横取りしたことで原価を抑えているとも捉えられます。 

(実際、百均商品の提案を打診されたとき、商品を扱ってもらうために、ただただメーカーが原価を抑える努力をするしかないのかな…と個人的に感じたこともあります。)

 

ハイブランドのパチモンは避けるのに、それ以外のブランドのパチモンになると「安く買えて嬉しい!」に変わってしまうのは、ちょっと違うのではないかと思うのです。

togetter.com

健全な競合というものは、その商品から着想を得て別の機能を付加してみたり、より収納がしやすいように折りたたむなど構造を変えてみたりと、その企業ならではのオリジナリティ要素で勝負するものではないでしょうか。

 

最初に書いた「自分にできる範囲で、自分自身が本当に健全だと感じる生き方」という軸に沿って、わかる範囲でなるべく、価値を感じたオリジナル元や工夫のアイデアにお金を落とすようにするという選択をしたいと考えています。

他者の思惑に振り回されない

現在、世の中が資本主義(ビジネス)で形成されているということは、自分が「したいなぁ、欲しいなぁ」と思うことの裏には多かれ少なかれ、そう思わせようとする何かしらの意図があるということになります。

「自分のここがダメかもしれない」
「これを持っていないと自分の価値を証明できない」
「まだ持っていないの?」

承認欲求やコンプレックスを刺激されて、「今のままの自分じゃダメだ」といろいろ買ってきましたが、そうやって買ったものの多くは買っただけで満足してしまい、ちょっと試したら放置を繰り返し、結局はいらない物でしかなく、だいたい処分してしまいました。

「必要なのは物じゃないんだ」という学びは得られましたけどね。

日本人は1年間に10kgの衣類を買い、9kg処分しているという統計もあるのだそうです。 

たとえばファッション業界では、服が大量生産・大量廃棄されているという問題も有しています。

流行のファッションや自慢できる憧れのブランド品、何かある度に記念発売されるライブ・スポーツのアパレルノベルティや後を絶たない有名人のアパレルブランドなど、幅広い層で必要以上に服が売られ、そして買いやすい状況があると思うんです。

実際に自分もセールですぐにへたったり飽きたりするような服を買ってしまったり、レプリカユニフォームやタオルマフラーだらけになっていたこともありました。 

買ったけど着ない服がクローゼットに眠っているのはよくある話ですし、何かしらの大会の度に優勝する裏側では、日の目を浴びずに終わる準優勝チームの幻のTシャツが大量に処分されたりもあったことでしょう。

ファストファッション人気やファッションの多様化で廃棄サイクルは大変なことになっているだろうし、これは買う側・生産側ともに抱えている問題と言えますね。

letsxchange.jp

個人的に思うのは、現在の資本主義というビジネスで成り立っている世界では、企業は利潤を得ようとあの手この手で追求するものですから、余計なものを作るなというのは限界がある気もします。

「脱プラ」がこれだけ謳われながら、その隣ではアクリルスタンドをガンガン売り出すの意味わからないなとか思いながら見ていますけど、買う人がそれだけいるわけですし、どうしようもありません。

 

過剰な生産を防ぐには消費者が買わないことで、「それはいらないよ」という姿勢を見せることが最も効果が高いはず。

しかも他者の思惑に振り回されなくなると、自然と財布のヒモは適切に締められるようになるので一石二鳥です。

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本当に価値を感じたらお金を使う

お財布のヒモを締めるというのは、すべてに対してという話ではありません。

必要な所にはお金をかけて、いらない所には使わないということです。

そして、「安いから買う」「流行っているから買う」ではなく、「自分が必要だと思うからお金を使う」「相手の理念を支援する」の意志が重要です。

 

たとえば、私は今年「パルシステムでんき」に切り替えました。

再生可能エネルギーへ転換していこうという理念や実行力に賛同したからです。

これまでの電気代と変わらず、支援できるならよいかなって思いました。

 

また、現時点ではお金を使う仕組みが構築しきれていないという側面もあります。

皆がクラウドファンディングとか新しい仕組みを自在に使えるわけじゃないですし、今はオタク文化が浸透しているので、推しへの支援という考え方は大きくなっていますが、それと同じくらい無料でなんでも使えるという感覚も強いと感じます。

このブログも含め、世の中では無料で楽しめるものが多いかもしれませんが、それらもお金や時間をかけてつくられています。

 

ライブ配信業界では投げ銭が日常茶飯事ですが、その他の分野はまだまだ発展途上という感覚があります。

コンテンツへの対価を極力避けたい人が多数派を占めるのには違いないものの、支払いを嫌う人ばかりではないのも事実。

むしろコンテンツの対価問題は、支払いのためのハードルをいかに下げていくか、それこそ言葉通り投げ銭やおひねり、チップ感覚で出来るようにするか、仕組み側の整備の問題なのかもしれない。

こちらは2014年の記事ですが、まさにこのことですね。

news.yahoo.co.jp

たとえばnoteは「サポート」という投げ銭機能でライターを支援する文化があります。

自分はnoteが使いにくかったのでこのはてなブログを中心に活動していますが、はてなブログ自体には投げ銭機能がありません。

OFUSE™(オフセ)はクリエイターへの「ありがとう」の気持ちを
1文字2円で送れるファンレターサービスです。

しかし、アフィリエイトリンクを経由して購入するのも1つの支援の形ですし、OFUSEのようにクリエイターにファンレターという形で投げ銭できるサービスも存在します。 
(こっそりサイドに貼ってそのうち記事に書こうと考えながら時間だけが過ぎていっていますが…いつか書きます。苦笑)

OFUSEする

www.youtube.com(9:25ごろ~)

東海オンエアの虫眼鏡くんの動画の中での議題はAVですが、こちらでも「好きなものには金を使おう」というお話をしていて共感しかありません。

世界が便利になりすぎて無料で楽しめるものが増えてしまった弊害だよね

推しへの支援と同じくらい、無料で使うのが当たり前となってしまい、何がなんでも無料にこだわる人もいるかもしれません。

これは飲食店の砂糖をごっそり持ち帰ったりするのと似たようなレベルではないでしょうか。

僕だったら、変態やんって言われたら、でもお前犯罪者やんって言うもんな

金払わずに見てるんだもんね

東海オンエアにはファンザなどエロ動画サイト事情もずいぶん教えてもらいましたが、たしかになーって思っちゃいました。

違法かどうかはさておき、無料サイトもメーカーがなかったら存在できませんからね。

ないと困るものにはお金を使っていかないと、いなくなって困るのは自分になっちゃいそうです。 

お金の使い方にメリハリを 

 何かを買う時に、一息おいて、「ちょっと待って」と自分に問いかけてみることもとても大切です。

「なぜこれを買うの?」「本当に必要かな?」「この商品は、どんな環境で作られたんだろう?」と。

それが、「エシカル」の第一歩です。

社会の変化のスピードが速いとはいえ、現状というものはすぐには変わらないですし、今の所持金というのも決まっています。

となれば全部にこだわってお金を出していたらお金が足りなくなってしまうでしょう。

だから図書館などの公共施設や無料アプリを利用したりもしますし、自分の物欲や所持品、どこにお金をかけるかについて適宜見直したりします。

昔は捨てられない人で物に囲まれていた私ですが、所有物を減らしていくうちに物を買う基準がどんどん変わっていきました。

手放す時や管理の手間を考えると、必然的に「買う」という行為に対してのハードルが上がるし、オタクグッズとかもほとんど買わなくなりますね。

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今の私は「自分の快適につながるもの」にお金をかけることを意識しています。


たとえば昔は真っ先に食費を削ろうと考えていたものですが、私はおいしいものを食べることが好きだし、自分の健康を大事にしているので食費は惜しまないという方向にシフトしました。


その代わりに病院や薬のお世話になる機会が激減しています。

以前は逆流性食道炎自律神経失調症と思われる症状が多発していましたが、最近は発症した記憶がありません。

togetter.com

「自分の快楽」ではなく「自分の快適」のために何かを買うようになって、自分の体にいいものに意識がいくようになると、そういった商品はいい環境でつくられるものだという発見もありました。

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競争より協力した方がよいのでは? 

以前、乱立文化についてぼやいてみましたが、需要のパイがそれなりに決まっているものの価格を下げて、お客さんを取り合う文化というものは消耗戦にしかなりません。

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最低賃金引き上げに経営者悲鳴というニュースもありましたが、入ってくるお金は下がって雇用のお金が上がる一方だったら、それは遅かれ早かれ限界が来るよなって話だと思うんです。

www.yomiuri.co.jp

商品は健全に競合して、共通の悩みは皆で手を取り合って取り組んで解決した方が、全体の原価を抑えることができますし、横のつながり*1を強くして利便性を上げることで業界全体の価値を上げて、伸びしろをつくることができるのではないでしょうか。

ただ自分のためでいいんじゃないかと思いました

世のため人のための精神はたいへん素晴らしいものだとは思います。


しかし私は、そんな他人や環境のことを考えるほど、できた人じゃありません。

いつだって自分のことでいっぱいですし、手を伸ばしても身のまわりの人たちまでが限界です。

 

それでも実は、自分のために気を配るだけで十分なのではないかと思うこの頃。

 

自分が適正な報酬を得たいから、相手にも適正な金額を支払う。

自分の身体に害を与えたくないから、農薬や有害物質と無縁なものを選ぶ。

自分が搾取されたくないから、誰かを搾取する人や企業にお金や労力を渡さない。


この記事も突き詰めれば、自分が生きやすい世界になってほしいから、「こういった考え方が広まったほうがみんなが生きやすくなりませんか?」という意味も込めて、自分のために書いています。


こんな風にひたすら自分のためでも、結果的には他者や環境を大切にすることにつながっているのです。

 

そんな気づきを経て、「自分のために」という考え方が私にとっては、とてもしっくり来るなぁと思うようになりました。

 

むしろ世のため人のために気を配りすぎて、自分や周りの人たちが壊れてしまっては本末転倒というものです。

「サスティナブル疲れ」なんて言葉を見かけたりもしますが、疲れてしまうのは全然サスティナブルじゃありません。

ギルトフリーも1つの「自分のため」 

最近は「罪悪感のない」という意味を持つ「ギルトフリー」って言葉が使われることが増えてきています。

「太りたくない、でも食べたい」という望みが高まっており、砂糖不使用や糖質オフなどで「食べても罪悪感が軽減される」という商品が人気のようですが、この「ギルトフリー」はもう1つ、動物性の素材を使わないという意味も持っています。

つまりは動物の命をいただくという罪悪感を軽減するためにビーガンになるというような思想のことですね。

 

個人的に動物のため、環境のため、祖先はどうこうと言ってビーガンを推奨する考え方には矛盾を感じるので疑問を持っていますが、「罪悪感を感じたくない」という自分のためであれば理解できるなぁと思うし、むしろそれでいいんじゃないかなって思っちゃいました。

参考文献

今週のお題「読書の秋」

*1:交通系ICが全国どこでも使えて便利なように、たとえばライブのチケットがどの会社発行でも自分の使いやすいアプリ1つで済んだらいいなぁとよく夢想します。

【脱線なしVer.】2冊の本を読みながら自分の理解力や思考パターンと相性のいい「読みやすい文章」について考えてみました。

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脱線しすぎた。しえるです。

 

昨晩の記事について、個人的には書きたいこと書き殴って満足しているのですが、「読みやすい文章」について書いた文章が脱線しまくって読みにくいかもしれないと反省しました。

今回はイレギュラーですが、自分の矛盾が気になってしまったので、1番書きたかった部分のみに絞って5,000字ほど削った脱線なしVer.を用意してみました。

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私は本を読むことに抵抗はありませんが、スーッと入ってくる文章とそうでない文章というものがあります。

 

今回は最近読んだ、立憲民主党の党首である枝野代表の著書『枝野ビジョン』と、台湾の大臣であるオードリー・タンさんの『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』という2冊を通じて、自分が何を基準に読みやすさを判断しているか考えてみました。

【脱線なしVer.】2冊の本を読みながら自分の理解力や思考パターンと相性のいい「読みやすい文章」について考えてみました。

子供の頃から国語は得意ではありましたが…

私は子供の頃から国語の成績は良い方で、勉強についていけなくなった高校でも現国だけは成績をキープしていました。

おそらくそれは学生時代に漢字が好きで、本を読みまくっていたから乗り越えられたのではないかと思っています。

 

というのも、だいたい国語のテストというのは文章読み解きと漢字の2つがメイン。

ドラえもんの四字熟語の本にハマったのもあり、漢検2級を取得するくらいには漢字を覚えるのが楽しくて、文を読むために必要な基礎単語を覚えていたのは大きいと思います。

(才色兼備のしずかちゃん、八方美人のスネ夫、大変わかりやすかったです。)

 

しかしそれでも私はずっと、文章を読むのが得意だと思ってはいませんでした。

私にとって、スッと入ってくる文章とそうでない文章があり、入ってこない文章はいくら読んでもループしてしまって頭に入ってこず、途中で諦めてしまう傾向があるのです。

 

『シャーロックホームズ』を読んではいたけど、多分ほとんど理解できていなかったし、『指輪物語』は早々に挫折、ライトノベルにハマっていたりしました。

だから今も尚、読む本は偏っているし、本を読み始めちゃえば楽しめるんですけど、手をつけるまでが億劫で時間がかかってしまいます。

むしろイメージ的な想像力がないのも相まって、文字だけの本を読むよりマンガの方が圧倒的に食指が動きます。

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私にとっての読みやすい文章とはなんだろう?自分がわかりにくい部分について考えてみた

先程『シャーロックホームズ』はあまり理解できなかったと書きましたが、浅田次郎さんの『壬生義士伝』は南部弁でだいぶクセが強いにもかかわらず、吉村貫一郎の「おもさげながんす」に泣きながら夜通しで読んでいました。

読み始めはなんじゃこりゃって思ったのに、スラスラと内容が入ってくるのがとても不思議でしたが、当時は特にそれ以上気にすることもありませんでした。

最近ではネットの記事や本を読むのに、冒頭数行で自分にとって読みにくいと感じたら中断するようになりました。

 

自分の理解力をすぐに上げるというのは難しいし、読みにくいものに時間をかけるのがもったいないので、何かを知りたくなったら、私にとって読みやすい文章で書かれているものを探すことに注力するよう変えたのです。

今では個人も企業も発信に注力していて、いろんな方が同じ物事について話されていたりするので、自分の理解できるレベルに分解してくれているものを探しやすくなったという環境変化の恩恵は大きいですね。

 

でもその「読みやすい」「読みにくい」と私が判断するのは、何の差なのだろう?と改めて考えるようになりました。

校正の仕事はしていますが文法に精通しているわけではありません

まず前提となる現在の私の読解力についてですが、基本的に生活で困らない程度にはあると思っています。

適正審査を通過したうえでウェブ記事の校正や編集のお仕事をいただいており、個人的に追加で別の依頼ももらえているので、客観的にも国語力の評価を得られるレベルなのだと思います。

 

ただ読解力がというよりは、ニュースメディアで働いていたことがあるので、単語の意味や文法など少しでも自信がなかったらすぐ調べるのが定着しすぎていて、正確性を重視した慎重さが特に評価されているのかな?という気もします。

 

私自身の感覚としては、ただそれなりに文字を読む機会をこなしてきただけで、どういうニュアンスかを感覚でしか掴めてなく、文法的に説明することは難しいと感じます。

品詞とか自動詞他動詞などといった文法を正確にはよくわかっておらず、いつも「なんか変!」と違和感があったら「こちらの方が自然ではないですか?」と提示しているだけにすぎません。

 

たとえば「ドアが開く」と「ドアを開ける」の状況の違いはわかるけど、友人が「ここに自動詞が続くのはおかしいよね」と自然に話すのを聞いて自分は感覚的だなぁと思ったし、自分の国語力にいつまでも自信が持てない要因だとも感じました。

歴史の流れや現代との相違点など知識がないと読めないのは苦手

明治文学や古典にはその自分の感覚が通用せず、一気に何もできなくなるので、古典のテストはいつも散々でした。

 

学校の授業であれば、内容を教えてくれるので明治文学でも理解できましたが、個人で読むとなると本当に苦戦してしまいます。特に宮沢賢治

これは明治時代だけでなく、シェイクスピアなど外国作品も含めた近代文学全般に言えることで、まず現代文とやや違う文体に戸惑ってしまって、なかなか頭に入ってきません。

さらには時代背景を知っていないと理解しきれず、上っ面しか入ってこないので全然読めた気がしないです。

 

今は「現代文を理解できるのが1番強いや」と思っているので別に気にしなくなりましたが、昔は本好き芸人が近代文学を紹介しているのを見たりすると、コンプレックスに感じていました。

 

そう考えると『シャーロックホームズ』は時代や国の文化がわからなくて入ってこなかった部分はあるとも言えますね。

今でこそ漫画『黒執事』のおかげでイギリス文化も随分覚えましたが、当時は「マントルピースって何だろう?」とかちょくちょく止まって調べながら読んでいたのを思い出しました。

「これ何だろう?」と立ち止まる回数が重なるとやはりストレスに感じるものです。

また、たとえば新しい考え方を得たいと思って読んだ本が、概念や思考ベースで書かれている文章であれば意味を理解することはできるかと思います。

 

しかし、知識ベースの難しい言葉が並ぶ「19世紀にマルクス資本論プロレタリアート…」みたいなマルクスを知らないと理解できないような文章は一気にキャパオーバーになってしまいます。

簡単にでいいから「マルクス資本論がどういうものなのか要約を書いて!」と感じるのです。

そのスタイルで読めるのは、自分がすでに知っている分野でないと成り立ちませんが、長文は学びのために読むことが多いのでつらいものがあります。

歴史を体感していると知識の重みが違うと感じます

親など年上世代の話を聞きながら常々感じてきたのですが、歴史を体感しているのって1つの強みだなぁと思います。

後から昔の歴史を勉強することはできますが、リアルタイムで時間の経過を共にし、実際に目にして自分が何を感じたのかという経験の重みには届かないし、ただの史実ではなく自分ごととして捉えている記憶定着の差を感じることもあります。

自分の中の何かと結びつけると覚えやすいと感じますが、実体験に勝るものはないですね。

 

たとえば私は、自由党日本民主党があわさって自民党になったのだとか、日本社会党社民党になったとか、そういった土台となる政治の歴史をほとんど知りません。

 

認識した時にはもう自民党民主党って感じだったし、『枝野ビジョン』で「55年体制」というワードが当たり前のように出てくると、前提知識が違うと感じます。

ちなみに「55年体制」は戦後、1955年から38年続いた自由民主党日本社会党の二大政党政治のことなのだそうですが、30代以下にとっては昔の話でしかなく、実感ってあまりないと思うんです。

もしかしたら自分が知らないと思っているだけで、これまでにどこかで聞いたことはあるのかもしれませんけど、実感がないし興味も薄いから右から左に抜けていってしまうんですよね。

先に概念を理解したい

ただ『枝野ビジョン』では、私がいまいちよくわからないなと思っていたものがどういうものなのかわかりやすく書かれていて、スッと入ってくる部分もありました。

 

たとえば「保守」「リベラル」「フェミ」といった思想イデオロギーを表す言葉。

私はあまり興味がなかったし、人によって話の内容が全然違うのでずっとよくわからずにいて、これまでスルーしてきていました。

 

しかし今回、なんで自分がイデオロギーについてわかりにくいと思ったのか少しわかった気がします。

 

というのも本を読んでいる中で、自分が物事を認識していく順序というものに気がついたのです。

 

私は最初に「概念」を理解することで、自分の中の認識が具体的にできあがり、そして人々の考え方の違いを捉えられるようになるのではないかと感じています。

そしてその名前を知るというのは、私の中で最も重要度が低かったのです。

枝野党首視点の「保守」

『枝野ビジョン』の中で、立憲民主党は「保守であり、リベラルである」と主張しています。

『「保守」と「リベラル」は対立概念とされてきているが、その常識に異を唱えるのが立憲民主党であり、「自民党保守政党、立憲民主は左派で反権的」とされているが実態は違う』という考えのうえで、「保守」とは何か?という話に繋がっていきます。

一般に「保守」主義とは、歴史や伝統などを大事にして、急激な改革を否定するという精神や運動であるとされる。

この意味での「保守」という考え方は、フランス革命を契機に生まれた。フランス革命は、ブルボン王朝の旧体制を倒して共和制を敷いたが、その後の急進的で過激な改革が、恐怖政治を生み出したことへの批判から、近代「保守」という政治思想が生まれたと言われる。

私にとって、これがまず「概念」の説明にあたります。

これは政治における「保守」が何を指し、何をきっかけに生まれたのかが端的に表されていて、とてもわかりやすかったです。

通常、多くの記事では「保守」がどういうものなのか、説明は省略されてしまいます。

政治における「保守」とは何なのか?とネットで調べようとすると、付随する要素も羅列されるから知らない単語がいっぱいで引いてしまうし、詳しく紹介しようとしてボリュームが増えるから結局「それが何なのか」を理解するのに手間がかかると感じて、これまでは諦めてしまっていました。

このような「保守」思想の土台になっているのは、「人間は誰もが不完全なものだ」という謙虚な人間観である。

世の中には100%の聖人君子はいないし、完璧な洞察力を持った人間もいない。
すべての人間が何らかの欠陥を抱え、不完全な部分を持っている。

従って、その人間が作り上げている社会も、常に不完全なものだ。
「理想の社会」は過去にも現在にも、そして未来にもあり得ない。

あり得ない「理想の社会」を目指すのでなく、先人たちが試行錯誤しながら積み重ねてきた歴史を大事に生かしながら、そこから得てきた経験知を踏まえ、世の中を少しずつ良くしていく。
過去にも「理想の社会」はなかったのだから、安易に「昔は良かった」などと回顧主義に走ることもない。

これが本来の「保守」の考え方である。

そして続くのは枝野さんが考える「保守観」になるかと思いますが、この時点で「保守」という言葉に対する価値観の差が生まれていそうだなと客観的に感じます。

枝野さんの弁は、考え方としてはフラットで現実的あり、私にとって違和感はありませんでした。

しかし世の中には、完璧を求める人や自分の考えが正しいと思う人、昔はよかったと思う人や変わることを嫌う人など、さまざまな考え方があることを知っているし、それらが皆、自分を「保守」だという可能性があるのも想像がつきます。

こうやって「概念」と1つの「保守観」がわかったことで、人々の「保守」に対する認識の差というものが見えてきました。

 

また、枝野さんは「保守すべき歴史や伝統とは何か」が問題だと説きます。

日本において、歴史が文字で記され残っているのは、5世紀からとされている。

聖徳太子の十七条憲法が7世紀初頭の604年だから、日本の歴史は、およそ1500年に及んでいる。

本来「保守」すべき「日本の歴史や伝統」とは、少なくともこの1500年に及ぶ歴史を踏まえたものであるはずだ。

しかし安倍晋三前総理や自民党議員の多くをはじめ、現在「保守」と称する勢力の中は、「保守」すべき日本の歴史と伝統を、「明治維新に始まる150年間」と考えている人が少なくないように見える。
2018年に安倍政権を挙げて展開された「明治150年」祝賀行事に、それが端的に現れている。

言うまでもなく、明治維新によって近代化がスタートしてからわずか150年ほどの期間が、日本の歴史全てではない。

人によって何を「保守」するべきか、考えが異なるのも理解できます。

上記はあくまで枝野さんの推測にすぎず、実際誰がどう思っているかは知るよしがありませんが、正直なところ、私も明治150年を押し出しすぎている様子には違和感がありました。

外務省が明治150年:日本の基本的価値観の源流という動画を作っていたりしますが、「源流(物事の起こり)」という言葉のチョイスには疑問しかなく、価値観がそれだけで形成されるわけないし、文化が変わっていく中で見聞きしたり体験したりすることでアップデートされた一環にすぎないと思っています。

福岡市博物館で「日本の歴史すごい!」と感じていのたで、枝野さんが「日本の長い歴史全体のわずか1割程度に過ぎない」と指摘するのもごもっともだと感じます。

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オードリー・タンさん視点の「保守」

オードリー・タンさんの本でもまた、「保守」について触れられていました。

こちらではご自身が日本のメディアに「保守的な無政府主義者」と表現されることについて、次のように話しています。

英語のアナーキスト(anarchist)を直訳して「無政府主義者」としているのかもしれませんが、私は無政府主義者ではありません。

 

無政府主義アナーキズムは、同じではありません。
私が考える「アナーキスト」とは、決して政府の存在そのものに反対しているのではないのです。
政府が脅迫や暴力といった方法を用いて人々を命令に従わせようとする仕組みに反対する。
つまり、「権力に縛られない」という立場です。 

日本語だけでも多種多様な捉え方をされてしまうのに、英語など他国語が混ざってくるとさらに、翻訳次第でいくらでも意味が変わってしまいます。

常に翻訳した人が発言者の真意を理解しているとは限らず、ニュアンスを汲み取れずに「似て非なる言葉」で伝えられていることは、おそらくこれだけじゃなく多々起こることだと考えられるでしょう。

 

そしてここでは、「保守」という言葉に当てはまる部分と当てはまらない部分という話になっていきます。

一方、「保守的」ということについて言えば、私の立場は、日本語の「保守」というより中国語の「持守」に近いと思います。
「持守」には「自分の意志を堅持する、貫く」といった意味があります。

たとえば、ベジタリアンになると宣言した人が、山海の珍味を目にしても見向きもしないのであれば、その人は自分のこだわりを貫き通したということです。
また、修行者であれば戒律を守り、やってはいけないことは意志を貫き通してやらないというのが「持守」です。
私もそういう「持守」という態度を大事にしています。

 

「保守」という言葉にはいろいろな解釈があります。
「堅持するのに値する何かを守る」と解釈するのであれば、私を保守派と呼ぶのは正しいと言えます。

しかし、「保守」は時に攻撃的な意味を持ちます。
その意味で「他の人が新しい物事を試すことを許さない」と解釈するのであれば、私は保守派ではありません。

私が「持守」という言葉を使うのは、そこに攻撃的な意味合いが含まれていないからです。
たとえばベジタリアンは、肉を食べている人を見ても「許せない」などとは思いません。
ましてや「私は戒律を守っているのだから、みんなも肉を食べてはいけない」と、上から目線で命令するわけではありません。 

「保守」は、旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとするのにどうするかまでは意味が含まれておらず、だからこそ人によって解釈が異なってしまうことが伝わってきます。

 

オードリー・タンさんの考え方は、「意志を貫く」と言っても決して「強硬(自分の立場・主張を強い態度であくまでも押し通そうとする)」ではありません。
「気骨(自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気)」もちょっと違う気がします。
「志操堅固(志や考え・主義などを堅く守り、何があっても変えないさま)」はもしかしたら近いのかもしれませんが、言葉の認知度がちょっと落ちそうです。

 

なのでまさに「持守」が最も近く、日本にはそれを表すメジャーな単語が見当たらないと言えます。

言葉で表す目的は自分の考えや物事を伝えるため

あくまで言葉というのは、どんなものであるかを表現する一手段にすぎません。

複数の意味を持っていて別の当てはまらない意味も有していたり、自分が表したいものにピッタリな単語がわからなかったり、そもそも自分の国には存在しなかったりすることがあります。

でもだからといって言葉で表現したい対象の内容(ここで言えばオードリー・タンさんの思想)は、ピッタリな単語があるかどうかによって左右されるものではありません。

であればただ、今ある単語を使って自分の思想を表現していくしかないですね。

目的と手段を見失わないということ

だからこそ私は、相手が何を言わんとしているのか「概念」を先に理解すること(目的)へ力を注ぎたいと考えますし、言葉はそれを手助けるもの(手段)でしかないと考えます。

 

ですが、世の中には「○○はこういうものだ」という、言葉のイメージが先行した考え方や文章というのは多いように感じます。

 

枝野さんやオードリー・タンさんの文章は概念ベースで書かれているので、どういう考えを持っているのかという1人の思考経路が見えてきます。

しかし「保守派だから〇〇」というように言葉が先行してしまうと、考え方を組み立てる順序が逆になり、中身が言葉に引っ張られて後付けで埋められた内容になってしまうのではないでしょうか。

これは結論ありきで都合のよい実験結果のエビデンスを添えていくのに似ていると感じます。

そして自分の中の言葉の解釈を前提に話が進むので、私はよくわからないまま置いてけぼりになってしまうのだと思いました。

 

これは無意識に陥りやすい思考パターンなのではないかと考えています。

先日、長年好きなものは「今現在の好きの熱量」を正しく見るのが難しいという内容を書きましたが、ずっと「自分は〇〇ファン」と思っていると、やがて「自分は〇〇ファンだからこう思う」にシフトしてしまって、今をフラットに考えられなくなる危険性を自分自身で感じました。

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稲田朋美さんの例

www.fnn.jp

自民党の稲田議員はいわゆる「保守派(右翼)」と認識されていながら、LGBT問題に積極的に取り組んでいることが「リベラル(左翼)だ」とされ、違和感と捉えられているようです。

これはまさに言葉が先行している例だと感じます。

日本では「LGBTは伝統的家族を壊す」と、右か左かというイデオロギーの話になります。

しかし私は、LGBT問題は基本的人権の問題だとずっと捉えてきたので、こうしたことに違和感を覚えていました。
当事者も思想的には右から左まで様々なわけで、思想や歴史感は全く関係ないです。

だから右か左かというのは物事の本質からずれているし、この問題に取り組んだら左翼だ、リベラルだというのは違うと思いますね。

そもそも稲田さんは、話の土俵が思想イデオロギーだと考えていません。
自分の息子にLGBTの友人がいたことから、1人の身近な人間の人権問題として取り組まれているようです。

私も自分で思いますが、まず安全保障や歴史観憲法改正はすごく右ですよね。

ところが女性やLGBT問題については人権重視、人権派です。財政については財政再建派ですね。

自分では統一が取れていて説明がつくのですが、他人から見ると「分裂している」「変節した」と思われるのです(笑)。

この稲田さんの考え方はとても自然な流れだと感じました。

私は物事1つ1つに対して自分の考え方があると思っているし、その考え方も環境や起こった出来事によって日々変わっていくものだと感じています。

むしろそうでない方が無思考の条件反射な反応で怖いとすら思います。

 

でも言葉先行で考える人からすると、その単語の認識から外れた途端に、異端となってしまうのでしょう。

ラベリングが難解すぎる

言葉の先行で特にごちゃついてわかりにくいと感じるのが「ジャンル」「カテゴリ」「科目」「ポジション」などといったラベリングです。

先程例に挙げた思想イデオロギーもそうですが、ラベリングというのは、まずその分野をよく知らないと認識が難しいし、認識の範囲が人によって異なりやすいと感じます。

 

たとえば、学生の頃から「英語」「算数」「国語」「理科」「社会」といった科目まではわかるけど、高校生以降のそれ以上に細分化された科目は「いきなりリーダー・グラマー・オーラルコミュニケーションとか、数A・数Iとか増えたけど何それ?」って思っていました。

ちなみに最近の英語はさらに「コンポジション」が増えているそうですが、「reader=読本」「grammar=文法」「oral communication=口頭伝達」「composition=作文」と単語を覚えれば、英語の科目の意味はまだわかります。

でも「数I」「数A」とかは、一応「解析I+幾何」など歴史があるそうですが、マジで意味がわからなさすぎます。

 

音楽でも「ロック」「ジャズ」「クラシック」など大まかなものであればまだイメージができますが、「ハウス」「ラウンジ」「パンク」「グランジ」「メロコア」って何?と思ったし、ゲームの『ポップンミュージック』をプレイしながら違いがよくわかんないな~となっていました。

この音楽については、昔から大好きな植松伸夫さんやラルクが幅広い曲をつくるのもあり、ジャンルに当てはめる必要性を感じなかったのも大きかったかもしれません。

「人によって解釈が分かれている時点でもはや無理じゃん、なんで論争したがるの?」とよく思ったものです。

 

ほかにも本屋や図書館のジャンル別分類とかも探すのが苦手なので検索機必須ですし、芸術の「抽象派」「印象派」「未来派」「写実主義」「自然主義」みたいなのもなかなか覚えられずにいます。

 

何においてもこういった分類があるものですが、大まかな大分類から細分化された中分類・小分類が相当数あることが多く、歴史背景を知らないとどう派生していったかがわかりません。

各分野ごとにそれらを覚えることに労力をかけるくらいなら他のことに割きたいと思ってしまいます。

いろいろ実例を知ったあとに単語を知って「あれのことか」と結びつける方が覚えやすいですしね。

知れば知るほど森羅万象は連鎖して繋がっていると痛感する

分類をあまり気にしないというのは、気乗りしないからただなんとなくそうしてきただけですが、結果それでよかったかなと今では思っています。

いろんな物事を知れば知るほど、別分野との繋がりが多数あって複雑に絡み合っていることに気がつきます。

であれば私がわからないのも当然で、自分が概念ベースや体感ベースで物事を捉えるようになったのも必然だったのではないかと感じます。

 

オードリー・タンさんが理系分野について述べていたのもまた、それぞれの分野の相互関係を表すものだと思います。

性質が完全に異なるといえば、化学における反応は物理における基礎で、化学における分子式もまた物理の法則に基づいています。
仮に物理と化学がまったく関係ないのであれば、物理の法則を化学者が使うことはできず、化学者の発明したものを物理学者が研究すべきではないということになってしまいます。
しかし、理論物理学は実験物理学から派生したものであり、実験物理学は化学的な方式を用いて物理の理論の検証を行うものです。

つまり、生命科学の分野でも、薬やワクチン、マスクそれぞれに物理や化学の知識が必要なのです。
それらの知識があってはじめて、どの方式を使って開発するかということが考えられるのです。
このように、物理と化学は性質こそ異なっていますが、相互に関係し合っているのです。

正直何言ってるかなんてこれっぽっちもわかっていないけど、要は分野が違うからといって関係がないなんてことはなく、ある一分野に特化していたとしても、ほかの分野の知識を使うことだってあるし、複数の分野の集合知でものをつくりあげているというのはわかります。

ピッタリの例が思い浮かばないのでちょっとズレるかもしれませんが、たとえば和食料理人がメレンゲを使うことだってあるし、フランス料理であればソース担当、前菜担当、魚担当、肉担当、切り分け担当、お菓子担当などたくさんのシェフによって1つのコース料理がつくられているようなものかなと想像します。

別に和食料理人がプリン作ったっていいし、アメリカでカリフォルニアロールが作られて逆輸入なんてこともありますね。

それでいてレストランを立ち上げるとなると、不動産を借りて、インフラや調度品を整えて、値決めや原価管理など管理会計をして、お店を知ってもらうための広報活動をする…と料理以外の分野にも取り組んでいかないとなりません。

 

こうやって何かを知れば知るほど、知らない何かが芋づる式で大量に出てきて、隣り合う分野にも同じような途方もない未知の世界が広がっていて、それらがたった1分野にしかすぎない…と自分の無知さがえげつないことに気づいていくものなのではないでしょうか。

だから道を究めたり、いろいろな業界を渡り歩いている人ほど他者へのリスペクトがあるし、謙虚な方が多いのかなって思います。

「実れば頭垂れる稲穂かな」とはよく言ったものですね。

圏論」という考え方

オードリー・タンさんが紹介していた「圏論(けんろん)」という数学の理論は初めて聞くものでしたが、感覚としてはどこかなじみのあるものでした。

圏論」という、とくに私が興味を持っている数学の理論があります。
これは、一見違うように見えても同じように相互作用しているものについての学問です。

「あるものの相互作用の仕方を、他の相互作用の仕方に自然と変換するにはどうしたらいいのか」を考えるのが、「圏論」の特徴です。

繰り返しになってしまいますが、多くの物事は要素同士が密接して連鎖しており、「風が吹けば桶屋が儲かる」というようにどこかで影響し合っているもので、何にも影響を及ぼさないことって実はなかったりすると思います。

たとえば、「社会的企業」という名称は、これまで「社会的」が形容詞であり、「企業」は「社会」という単語によって修飾される名詞であると考えられてきました。

しかし、「その考え方は違う」と主張する人たちがいます。
社会的企業とは、社会問題を解決することが本来の姿であり、社会こそが主体なのだ」という論理です。

そこで私は、社会と企業の間に「・」を入れて「社会・企業」という名称を考えました。
この「・」は、「社会は社会に帰属し、企業は企業に帰属する」という意味で加えたものです。

今、私たちが行っている仕事は、まさにこの中間点が表す「連結(・)」です。
社会が企業とつながるこの「・」こそが、イノベーションであるというわけです。 

簡潔にまとめれば「社会と企業のどちらが主体なのか」を「・」によって解決したという話です。

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私は以前、言葉は何でもよいけど「共通のゴールを見据えて協力する」方向へシフトした方がいいのでは?と思った話を書きました。

これも大枠で見れば「圏論」の一環なのでは?と本を読んでいて思ったのです。

 

社会が主体だろうと、企業が主体だろうと、「社会問題を解決する」という目的は共通しています。

名前先行で考えた結果の主張だと思いますが、概念自体は同じものです。

「みんなどこも同じ問題抱えているんだから、手を取りあう必要があるのでは?」までは書きましたが、「・」で解決するという考え方は発想がありませんでした。

 

私はずっと「概念>名前」の感覚で来てしまったので、概念の名前なんて些末なものという気持ちが自分の中に少なからずありました。

文を読むのに必要な単語は覚えるけど、概念に対する名前になった途端に扱いが雑になるのです。

だからラベリングをスルーしまくってきたし、自分のブログのカテゴリ分けも下手だなぁと思いながらやっています。

そのせいで自分が「物を知らない」と思う場面はよくありましたが、でもよくよく聞いていると、このように「名前を知らないだけ」だったりするのです。

今回これを書きながら、概念を理解する方がよっぽど大事だなぁと感じたので、ラベリング無知にますます拍車がかかってしまいそうです。

私にとって読みやすい文章と感じる3つのポイント

どんな文章を書くかは個人の自由ですし、どんな文章を読むかもまた個人の自由。

であればあくまで個人的な好みですが、私は次のような文章を読みたいのだと気がつきました。

  • 違和感のない自然な日本語で書かれている
  • 概念ベース・思考ベースで書かれている
  • 知識がなくても読めるよう工夫されている

違和感のない自然な日本語で書かれている

大前提としてやはり、違和感なくスラスラ入ってくるキレイな文章を読みたいものです。

校正をやっていると正直、日本語がめちゃくちゃなライターが一定数いるものだと感じます。

誤字脱字というレベルを超えていて、基本の「てにをは」を理解しておらず、本来言いたい内容とは別の内容になっているであろう文章が出てきて「うわぁマジか…」と直しています。

たとえば「紐をフックにかける」はランドセルにつける巾着袋などになりますが、「フックを紐にかける」だとそれはもう屋台のヨーヨーつりですよね。まぁ違いますよね…。

 

そういった文章を見た後はドッと疲れてしまうので、プライベートでは避けたいところです。

概念ベース・思考ベースで書かれている

著者の思考の概念ベースであり、言葉先行になっていないのも重要です。

 

言葉には複数の意味を持つものがたくさん存在しています。

概念ベースであれば、思考の過程がわかることによって、その言葉をどう捉えているのかを把握し、自分や他者の考えとどこが違うのかという差異にも気がつきやすくなります。

 

これは解釈のブレを減らすことにも繋がります。

 

パソコンでドラッグと言えば、マウスの左ボタンやタッチパッドを押したままアイコンなどを引きずって動かすことを指します。

私はこれ以外が思い浮かばないし、あとは知っているかどうかの差です。

これなら知っている人に向けては、「ドラッグ」の一言を使えばいいだけの話になります。

 

しかし、先述で例に挙げた「保守」は人によって解釈が異なる可能性が高く、自分の「保守観」を書くことで、認識の食い違いによる論点のズレを減らし、どこに差があって、どちらがより良いと思うのかという比較の材料にすることができます。

 

掃除の仕方であっても「上から下へホコリを落としていって床に溜めてから片づける」と書かなければ、最初に掃除機をかけてから棚の上のホコリを払う人がいるかもしれません。

 

自分の当たり前は、他人の当たり前ではないのですから、いろいろ解釈ができてしまうものはやはり、概念の説明が必要だと思うのです。

 

そして私はその概念ベースの考え方が身についていたおかげで、ラベリングに縛られずフラットに見ることができるようになったとも捉えています。

 

ラベリングや名前っていうのは、概念となる事象が先にあって、皆がわかりやすいようにカテゴリを分けたり、共通認識できるよう名づけられたりしているはず。

しかし、名前が先行してしまうと、ラベリングに当てはめようとしたり、内実が違っていてもラベリングを見て判断してしまったりということが起こっているように見えます。

やはり言葉先行の考え方は危険だと感じます。

知識がなくても読めるよう工夫されている

これを書いていて「歴史」という言葉を何回も使ったなぁと感じたのですが、つまるところは読み手の知識の負担があるかどうかということなのではないかと思い至りました。

 

いつどこで生まれたか、何に興味を持って勉強してきたか、どんな仕事をしてきたかによって、人の持つ知識というものは異なってきます。

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読みやすい文章を書く人というのは、自分が知らないものであっても何かしらの形でわかるように工夫がされていると感じるし、概念をベースに書くのもそのひとつと言えます。

 

漫画だと『ブルーピリオド(絵画)』『ヒカルの碁囲碁)』『アイシールド21(アメフト)』『ラジエーションハウス(放射線科)』『Shrink シュリンク-精神科医ヨワイ-(精神科)』など、身近なテーマでなくてもわかりやすく描かれていたり、なんとなく楽しめるものが多いですよね。

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でも文章や会話になった途端、説明が疎かになることって本当によくあることだと感じます。

自分の感覚を前提とし、自分が知っていることは書き飛ばしてしまうので、一気に「あれだよ、あれ」レベルになってしまうんですよね。

たまに校正を手伝う広報紙で本の紹介コーナーがあるのですが、「その本を読んだことないから何言ってるのかマジでわからん」と思うことはしょっちゅうです。

気づかず自分がやってる可能性はありますし、たまに過去の記事を振り返ってはちまちま直すこともしています。

自分が「普通」だと思ってることは案外「その人らしさ」だったりするのよ
でも自分にとっての「普通」はみんなにとっても「普通」だと思っちゃうから一人でソレに気づけないのよ

『ブルーピリオド』

そう考えると、先に書いた『壬生義士伝』は改めて本当にすごいですね。

主人公の吉村貫一郎が、自分がまったく知らない東北・岩手の南部弁で話しているのに、気づけば物語の内容が入ってきて感情移入しちゃうのです。

「おもさげながんす」は「申し訳ないことでございます」という意味なのですが、それだけ書かれていたら、まぁわからないと思います。笑

でもこのレベルの訛り言葉が自然と入ってきて、泣くほど物語にのめり込ませてしまうのがプロの作家さんの力というものなのでしょう。

 

個人的な所感ですが、この3拍子がそろった文章を書く人というのは、自分の考えをしっかり持って思考の整理もされているので、論点がズレたり、変な情報に踊らされたりしている確率がグッと下がる気がします。

 

私自身もこんな文章を書けるように努めていきたいものです。

参考文献

「読みやすい文章とは?」2冊の本を読みながら考えた自分の理解力や思考パターンとの相性についての話。【長文への抵抗感払拭へ】

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頭良くなりたいって考えちゃうことはまぁありますよね。しえるです。

最近、立憲民主党の党首である枝野代表の著書『枝野ビジョン』と、台湾の大臣であるオードリー・タンさんの『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』という本を読みました。

この2冊は私にとってたいへん読みやすく、自分の中でバラバラだった考えが繋がって、自分の思考をアップデートできたように感じます。

 

今回の本は読みやすいと感じましたが、私にはスーッと入ってくる文章とそうでない文章というものがあります。

最初は自分の読解力の問題なのだと思っていたのですが、最近は自分の感覚などによる相性があるのかな?と思うようになりました。

本でもネット記事でもなんとなく、開始数行で読み続けるかどうか判断できるようになってきたんですよね。

それを無視して読もうとしても全然ページが進まないので、判断の精度は結構高い気がしています。

 

「いったい何で判断してんだろう?」とよくわかっていなかったんですけど、今回はこの2冊の本を通して得た感覚をもとに、自分の理解力や思考パターンと相性のいい「読みやすい文章」について考えてみました。

「読みやすい文章とは?」2冊の本を読みながら考えた自分の理解力や思考パターンとの相性についての話。【長文への抵抗感払拭へ】

子供の頃から国語は得意ではありましたが…

私は子供の頃から国語の成績は良い方で、勉強についていけなくなった高校でも現国だけは成績をキープしていました。

おそらくそれは学生時代に漢字が好きで、本を読みまくっていたから乗り越えられたのではないかと思っています。

 

というのも、だいたい国語のテストというのは文章読み解きと漢字の2つがメイン。

ドラえもんの四字熟語の本にハマったのもあり、漢検2級を取得するくらいには漢字を覚えるのが楽しくて、文を読むために必要な基礎単語を覚えていたのは大きいと思います。

(才色兼備のしずかちゃん、八方美人のスネ夫、大変わかりやすかったです。)

 

しかしそれでも私はずっと、文章を読むのが得意だと思ってはいませんでした。

私にとって、スッと入ってくる文章とそうでない文章があり、入ってこない文章はいくら読んでもループしてしまって頭に入ってこず、途中で諦めてしまう傾向があるのです。

 

『シャーロックホームズ』を読んではいたけど、多分ほとんど理解できていなかったし、『指輪物語』は早々に挫折、ライトノベルにハマっていたりしました。

だから今も尚、読む本は偏っているし、本を読み始めちゃえば楽しめるんですけど、手をつけるまでが億劫で時間がかかってしまいます。

むしろイメージ的な想像力がないのも相まって、文字だけの本を読むよりマンガの方が圧倒的に食指が動きます。

ciel-myworld.hatenablog.com

ちなみに余談ですが、文字を聞き取るのが苦手なのでアニメや電話は苦手で、文字を読んだ方が安心できるからLINEやメール派だし、洋画は字幕派です。

これまでずっと聴力問題なしって診断され続けてきたけど、聴力が正常でも話が聞き取りにくい「APD(聴覚情報処理障害)」という症状があるらしいので、私はこれなんじゃないかと思っています。

www3.nhk.or.jp

原因も治療法もわかっていないとのことですが、私の場合、なったタイミングは結構覚えています。

元々は国語の聞き取りテストをメモなしで満点とっていたくらいなので問題なかったはずなのですが、多分嫌な言葉を聞いてしまったか何かで「他人の言葉なんて聞こえなければいいのに」って思っていたら本当に聞こえづらくなって、後々困ってしまうことになったのです。

言霊や思考の実現っていうのは本当にあるんだなぁと思った出来事でもあります。

 

ついでに言うと、聞き取りテストはメモを取る力をつけるいい機会だったんだなぁ…と大人になってメモの取り方がわからなくて後悔しました。

キャパオーバーな情報量が入ってくると、覚えきれない、優先順位や要点がわからない、何をメモすればいいかわからない…という悪循環で混乱しちゃいました。

私にとっての読みやすい文章とはなんだろう?

先程『シャーロックホームズ』はあまり理解できなかったと書きましたが、浅田次郎さんの『壬生義士伝』は南部弁でだいぶクセが強いにもかかわらず、吉村貫一郎の「おもさげながんす」に泣きながら夜通しで読んでいました。

読み始めはなんじゃこりゃって思ったのに、スラスラと内容が入ってくるのがとても不思議でしたが、当時は特にそれ以上気にすることもありませんでした。

最近ではネットの記事や本を読むのに、冒頭数行で自分にとって読みにくいと感じたら中断するようになりました。

 

自分の理解力をすぐに上げるというのは難しいし、読みにくいものに時間をかけるのがもったいないので、何かを知りたくなったら、私にとって読みやすい文章で書かれているものを探すことに注力するよう変えたのです。

今では個人も企業も発信に注力していて、いろんな方が同じ物事について話されていたりするので、自分の理解できるレベルに分解してくれているものを探しやすくなったという環境変化の恩恵は大きいですね。

 

でもその「読みやすい」「読みにくい」と私が判断するのは、何の差なのだろう?と改めて考えるようになりました。

校正の仕事はしていますが文法に精通しているわけではありません

まず前提となる現在の私の読解力についてですが、基本的に生活で困らない程度にはあると思っています。

適正審査を通過したうえでウェブ記事の校正や編集のお仕事をいただいており、個人的に追加で別の依頼ももらえているので、客観的にも国語力の評価を得られるレベルなのだと思います。

 

ただ読解力がというよりは、ニュースメディアで働いていたことがあるので、単語の意味や文法など少しでも自信がなかったらすぐ調べるのが定着しすぎていて、正確性を重視した慎重さが特に評価されているのかな?という気もします。

 

私自身の感覚としては、ありとあらゆるラベリングされた分類や文法など法則的なものを覚えるのがとても苦手だと思っています。

 

ただそれなりに文字を読む機会をこなしてきただけで、どういうニュアンスかを感覚でしか掴めてなく、法則的に説明することが難しいと感じます。

品詞とか自動詞他動詞などといった文法を正確にはよくわかっておらず、いつも「なんか変!」と違和感があったら「こちらの方が自然ではないですか?」と提示しているだけにすぎません。

 

たとえば「ドアが開く」と「ドアを開ける」の状況の違いはわかるけど、友人が「ここに自動詞が続くのはおかしいよね」と自然に話すのを聞いて自分は感覚的だなぁと思ったし、いつまでも自信が持てない要因だとも感じました。

歴史の流れや現代との相違点を理解できないと入ってこない

明治文学や古典にはその自分の感覚が通用せず、一気に何もできなくなるので、古典のテストはいつも散々でした。

 

学校の授業であれば、内容を教えてくれるので明治文学でも理解できましたが、個人で読むとなると本当に苦戦してしまいます。特に宮沢賢治

これは明治時代だけでなく、シェイクスピアなど外国作品も含めた近代文学全般に言えることで、まず現代文とやや違う文体に戸惑ってしまって、なかなか頭に入ってきません。

さらには時代背景を知っていないと理解しきれず、上っ面しか入ってこないので全然読めた気がしないです。

 

今は「現代文を理解できるのが1番強いや」と思っているので別に気にしなくなりましたが、昔は本好き芸人が近代文学を紹介しているのを見たりすると、コンプレックスに感じていました。

 

そう考えると『シャーロックホームズ』は時代や国の文化がわからなくて入ってこなかった部分はあるとも言えますね。

今でこそ漫画『黒執事』のおかげでイギリス文化も随分覚えましたが、当時は「マントルピースって何だろう?」とかちょくちょく止まって調べながら読んでいたのを思い出しました。

「これ何だろう?」と立ち止まる回数が重なるとやはりストレスに感じるものです。

 

また、たとえば新しい考え方を得たいと思って読んだ本が、概念や思考ベースで書かれている文章であれば意味を理解することはできるかと思います。

 

しかし、知識ベースの難しい言葉が並ぶ「19世紀にマルクス資本論プロレタリアート…」みたいなマルクスを知らないと理解できないような文章は一気にキャパオーバーになってしまいます。

簡単にでいいから「マルクス資本論がどういうものなのか要約を書いて!」と感じるのです。

そのスタイルで読めるのは、自分がすでに知っている分野でないと成り立ちません。

 

パソコンの電源の入れ方やドラッグ&ドロップがわかるかどうかで、読むべき本が変わってくるようなもので、自分の知識レベルに見合った本を選ぶというのはかなり重要と言えます。

自分がパソコンの操作をすでに知っているのであれば、そこの説明がいちいちあるのは逆に邪魔になってしまうでしょう。

歴史を体感していると知識の重みが違うと感じます

親など年上世代の話を聞きながら常々感じてきたのですが、歴史を体感しているのって1つの強みだなぁと思います。

後から昔の歴史を勉強することはできますが、リアルタイムで時間の経過を共にし、実際に目にして自分が何を感じたのかという経験の重みには届かないし、ただの史実ではなく自分ごととして捉えている記憶定着の差を感じることもあります。

自分の中の何かと結びつけると覚えやすいと感じますが、実体験に勝るものはないですね。

 

たとえば私は、自由党日本民主党があわさって自民党になったのだとか、日本社会党社民党になったとか、そういった土台となる政治の歴史をほとんど知りません。

 

認識した時にはもう自民党民主党って感じだったし、『枝野ビジョン』で「55年体制」というワードが当たり前のように出てくると、前提知識が違うと感じます。

ちなみに「55年体制」は戦後、1955年から38年続いた自由民主党日本社会党の二大政党政治のことなのだそうですが、30代以下にとっては昔の話でしかなく、実感ってあまりないと思うんです。

もしかしたら自分が知らないと思っているだけで、これまでにどこかで聞いたことはあるのかもしれませんけど、実感がないし興味も薄いから右から左に抜けていってしまうんですよね。

先に概念を理解したい

ただ『枝野ビジョン』では、私がいまいちよくわからないなと思っていたものがどういうものなのかわかりやすく書かれていて、スッと入ってくる部分もありました。

 

たとえば「保守」「リベラル」「フェミ」といった思想イデオロギーを表す言葉。

私はあまり興味がなかったし、人によって話の内容が全然違うのでずっとよくわからずにいて、これまでスルーしてきていました。

 

しかし今回、なんで自分がイデオロギーについてわかりにくいと思ったのか少しわかった気がします。

 

というのも本を読んでいる中で、自分が物事を認識していく順序というものに気がついたのです。

 

私は最初に「概念」を理解することで、自分の中の認識が具体的にできあがり、そして人々の考え方の違いを捉えられるようになるのではないかと感じています。

そしてその名前を知るというのは、私の中で最も重要度が低かったのです。

枝野党首視点の「保守」

『枝野ビジョン』の中で、立憲民主党は「保守であり、リベラルである」と主張しています。

『「保守」と「リベラル」は対立概念とされてきているが、その常識に異を唱えるのが立憲民主党であり、「自民党保守政党、立憲民主は左派で反権的」とされているが実態は違う』という考えのうえで、「保守」とは何か?という話に繋がっていきます。

一般に「保守」主義とは、歴史や伝統などを大事にして、急激な改革を否定するという精神や運動であるとされる。

この意味での「保守」という考え方は、フランス革命を契機に生まれた。フランス革命は、ブルボン王朝の旧体制を倒して共和制を敷いたが、その後の急進的で過激な改革が、恐怖政治を生み出したことへの批判から、近代「保守」という政治思想が生まれたと言われる。

私にとって、これがまず「概念」の説明にあたります。

これは政治における「保守」が何を指し、何をきっかけに生まれたのかが端的に表されていて、とてもわかりやすかったです。

通常、多くの記事では「保守」がどういうものなのか、説明は省略されてしまいます。

政治における「保守」とは何なのか?とネットで調べようとすると、付随する要素も羅列されるから知らない単語がいっぱいで引いてしまうし、詳しく紹介しようとしてボリュームが増えるから結局「それが何なのか」を理解するのに手間がかかると感じて、これまでは諦めてしまっていました。

このような「保守」思想の土台になっているのは、「人間は誰もが不完全なものだ」という謙虚な人間観である。

世の中には100%の聖人君子はいないし、完璧な洞察力を持った人間もいない。
すべての人間が何らかの欠陥を抱え、不完全な部分を持っている。

従って、その人間が作り上げている社会も、常に不完全なものだ。
「理想の社会」は過去にも現在にも、そして未来にもあり得ない。

あり得ない「理想の社会」を目指すのでなく、先人たちが試行錯誤しながら積み重ねてきた歴史を大事に生かしながら、そこから得てきた経験知を踏まえ、世の中を少しずつ良くしていく。
過去にも「理想の社会」はなかったのだから、安易に「昔は良かった」などと回顧主義に走ることもない。

これが本来の「保守」の考え方である。

そして続くのは枝野さんが考える「保守観」になるかと思いますが、この時点で「保守」という言葉に対する価値観の差が生まれていそうだなと客観的に感じます。

枝野さんの弁は、考え方としてはフラットで現実的あり、私にとって違和感はありませんでした。

しかし世の中には、完璧を求める人や自分の考えが正しいと思う人、昔はよかったと思う人や変わることを嫌う人など、さまざまな考え方があることを知っているし、それらが皆、自分を「保守」だという可能性があるのも想像がつきます。

こうやって「概念」と1つの「保守観」がわかったことで、人々の「保守」に対する認識の差というものが見えてきました。

 

また、枝野さんは「保守すべき歴史や伝統とは何か」が問題だと説きます。

日本において、歴史が文字で記され残っているのは、5世紀からとされている。

聖徳太子の十七条憲法が7世紀初頭の604年だから、日本の歴史は、およそ1500年に及んでいる。

本来「保守」すべき「日本の歴史や伝統」とは、少なくともこの1500年に及ぶ歴史を踏まえたものであるはずだ。

しかし安倍晋三前総理や自民党議員の多くをはじめ、現在「保守」と称する勢力の中は、「保守」すべき日本の歴史と伝統を、「明治維新に始まる150年間」と考えている人が少なくないように見える。
2018年に安倍政権を挙げて展開された「明治150年」祝賀行事に、それが端的に現れている。

言うまでもなく、明治維新によって近代化がスタートしてからわずか150年ほどの期間が、日本の歴史全てではない。

人によって何を「保守」するべきか、考えが異なるのも理解できます。

上記はあくまで枝野さんの推測にすぎず、実際誰がどう思っているかは知るよしがありませんが、正直なところ、私も明治150年を押し出しすぎている様子には違和感がありました。

外務省が明治150年:日本の基本的価値観の源流という動画を作っていたりしますが、「源流(物事の起こり)」という言葉のチョイスには疑問しかなく、価値観がそれだけで形成されるわけないし、文化が変わっていく中で見聞きしたり体験したりすることでアップデートされた一環にすぎないと思っています。

福岡市博物館で「日本の歴史すごい!」と感じていのたで、枝野さんが「日本の長い歴史全体のわずか1割程度に過ぎない」と指摘するのもごもっともだと感じます。

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オードリー・タンさん視点の「保守」

オードリー・タンさんの本でもまた、「保守」について触れられていました。

こちらではご自身が日本のメディアに「保守的な無政府主義者」と表現されることについて、次のように話しています。

英語のアナーキスト(anarchist)を直訳して「無政府主義者」としているのかもしれませんが、私は無政府主義者ではありません。

 

無政府主義アナーキズムは、同じではありません。
私が考える「アナーキスト」とは、決して政府の存在そのものに反対しているのではないのです。
政府が脅迫や暴力といった方法を用いて人々を命令に従わせようとする仕組みに反対する。
つまり、「権力に縛られない」という立場です。 

日本語だけでも多種多様な捉え方をされてしまうのに、英語など他国語が混ざってくるとさらに、翻訳次第でいくらでも意味が変わってしまいます。

常に翻訳した人が発言者の真意を理解しているとは限らず、ニュアンスを汲み取れずに「似て非なる言葉」で伝えられていることは、おそらくこれだけじゃなく多々起こることだと考えられるでしょう。

 

そしてここでは、「保守」という言葉に当てはまる部分と当てはまらない部分という話になっていきます。

一方、「保守的」ということについて言えば、私の立場は、日本語の「保守」というより中国語の「持守」に近いと思います。
「持守」には「自分の意志を堅持する、貫く」といった意味があります。

たとえば、ベジタリアンになると宣言した人が、山海の珍味を目にしても見向きもしないのであれば、その人は自分のこだわりを貫き通したということです。
また、修行者であれば戒律を守り、やってはいけないことは意志を貫き通してやらないというのが「持守」です。
私もそういう「持守」という態度を大事にしています。

 

「保守」という言葉にはいろいろな解釈があります。
「堅持するのに値する何かを守る」と解釈するのであれば、私を保守派と呼ぶのは正しいと言えます。

しかし、「保守」は時に攻撃的な意味を持ちます。
その意味で「他の人が新しい物事を試すことを許さない」と解釈するのであれば、私は保守派ではありません。

私が「持守」という言葉を使うのは、そこに攻撃的な意味合いが含まれていないからです。
たとえばベジタリアンは、肉を食べている人を見ても「許せない」などとは思いません。
ましてや「私は戒律を守っているのだから、みんなも肉を食べてはいけない」と、上から目線で命令するわけではありません。 

「保守」は、旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとするのにどうするかまでは意味が含まれておらず、だからこそ人によって解釈が異なってしまうことが伝わってきます。

 

オードリー・タンさんの考え方は、「意志を貫く」と言っても決して「強硬(自分の立場・主張を強い態度であくまでも押し通そうとする)」ではありません。
「気骨(自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気)」もちょっと違う気がします。
「志操堅固(志や考え・主義などを堅く守り、何があっても変えないさま)」はもしかしたら近いのかもしれませんが、言葉の認知度がちょっと落ちそうです。

 

なのでまさに「持守」が最も近く、日本にはそれを表すメジャーな単語が見当たらないと言えます。

言葉で表す目的は自分の考えや物事を伝えるため

あくまで言葉というのは、どんなものであるかを表現する一手段にすぎません。

複数の意味を持っていて別の当てはまらない意味も有していたり、自分が表したいものにピッタリな単語がわからなかったり、そもそも自分の国には存在しなかったりすることがあります。

でもだからといって言葉で表現したい対象の内容(ここで言えばオードリー・タンさんの思想)は、ピッタリな単語があるかどうかによって左右されるものではありません。

であればただ、今ある単語を使って自分の思想を表現していくしかないですね。

目的と手段を見失わないということ

だからこそ私は、相手が何を言わんとしているのか「概念」を先に理解すること(目的)へ力を注ぎたいと考えますし、言葉はそれを手助けるもの(手段)でしかないと考えます。

 

ですが、世の中には「○○はこういうものだ」という、言葉のイメージが先行した考え方や文章というのは多いように感じます。

 

枝野さんやオードリー・タンさんの文章は概念ベースで書かれているので、どういう考えを持っているのかという1人の思考経路が見えてきます。

しかし「保守派だから〇〇」というように言葉が先行してしまうと、考え方を組み立てる順序が逆になり、中身が言葉に引っ張られて後付けで埋められた内容になってしまうのではないでしょうか。

これは結論ありきで都合のよい実験結果のエビデンスを添えていくのに似ていると感じます。

そして自分の中の言葉の解釈を前提に話が進むので、私はよくわからないまま置いてけぼりになってしまうのだと思いました。

 

これは無意識に陥りやすい思考パターンなのではないかと考えています。

先日、長年好きなものは「今現在の好きの熱量」を正しく見るのが難しいという内容を書きましたが、ずっと「自分は〇〇ファン」と思っていると、やがて「自分は〇〇ファンだからこう思う」にシフトしてしまって、今をフラットに考えられなくなる危険性を自分自身で感じました。

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稲田朋美さんの例

www.fnn.jp

自民党の稲田議員はいわゆる「保守派(右翼)」と認識されていながら、LGBT問題に積極的に取り組んでいることが「リベラル(左翼)だ」とされ、違和感と捉えられているようです。

これはまさに言葉が先行している例だと感じます。

日本では「LGBTは伝統的家族を壊す」と、右か左かというイデオロギーの話になります。

しかし私は、LGBT問題は基本的人権の問題だとずっと捉えてきたので、こうしたことに違和感を覚えていました。
当事者も思想的には右から左まで様々なわけで、思想や歴史感は全く関係ないです。

だから右か左かというのは物事の本質からずれているし、この問題に取り組んだら左翼だ、リベラルだというのは違うと思いますね。

そもそも稲田さんは、話の土俵が思想イデオロギーだと考えていません。
自分の息子にLGBTの友人がいたことから、1人の身近な人間の人権問題として取り組まれているようです。

私も自分で思いますが、まず安全保障や歴史観憲法改正はすごく右ですよね。

ところが女性やLGBT問題については人権重視、人権派です。財政については財政再建派ですね。

自分では統一が取れていて説明がつくのですが、他人から見ると「分裂している」「変節した」と思われるのです(笑)。

この稲田さんの考え方はとても自然な流れだと感じました。

私は物事1つ1つに対して自分の考え方があると思っているし、その考え方も環境や起こった出来事によって日々変わっていくものだと感じています。

むしろそうでない方が無思考の条件反射な反応で怖いとすら思います。

 

でも言葉先行で考える人からすると、その単語の認識から外れた途端に、異端となってしまうのでしょう。

映画音楽は何のためにあるのか

先日は『すばらしき映画音楽たち』という映画音楽の歴史をたどるドキュメンタリー作品を見たのですが、音楽の発展の変わり目にはいつも型破りがありました。

この作曲家たちがおおもとに掲げるのは「より良い映画にするために監督の思いを汲み取り、映像にピッタリな曲を作ること」。

オーケストラの導入、ジャズ音楽家やロックバンドミュージシャンによる作曲などの異要素が入ってきて、「こんな映画音楽もアリなんだ!」とほかの作曲家が刺激を受けて「じゃあ自分はこうしてみよう!」と発展していく流れの繰り返しなのだと感じました。

 

多種多様な映画があれば、映画音楽もまた多種多様になるのは自然の流れかと思いますが、誰もが「映画音楽とはこういうもの」という風に引っ張られてしまっていたら、音の数も楽器の種類も増えることはなく、シアターオルガン一辺倒のままだったでしょう。

あくまで目的のために、音楽という手段を使っているということであり、言葉だけでなく、音楽も同じということですね。

ラベリングが難解すぎる

言葉の先行で特にごちゃついてわかりにくいと感じるのが「ジャンル」「カテゴリ」「科目」「ポジション」などといったラベリングです。

先程例に挙げた思想イデオロギーもそうですが、ラベリングというのは、まずその分野をよく知らないと認識が難しいし、認識の範囲が人によって異なりやすいと感じます。

 

たとえば、学生の頃から「英語」「算数」「国語」「理科」「社会」といった科目まではわかるけど、高校生以降のそれ以上に細分化された科目は「いきなりリーダー・グラマー・オーラルコミュニケーションとか、数A・数Iとか増えたけど何それ?」って思っていました。

ちなみに最近の英語はさらに「コンポジション」が増えているそうですが、「reader=読本」「grammar=文法」「oral communication=口頭伝達」「composition=作文」と単語を覚えれば、英語の科目の意味はまだわかります。

でも「数I」「数A」とかは、一応「解析I+幾何」など歴史があるそうですが、マジで意味がわからなさすぎます。

 

音楽でも「ロック」「ジャズ」「クラシック」など大まかなものであればまだイメージができますが、「ハウス」「ラウンジ」「パンク」「グランジ」「メロコア」って何?と思ったし、ゲームの『ポップンミュージック』をプレイしながら違いがよくわかんないな~となっていました。

この音楽については、昔から大好きな植松伸夫さんやラルクが幅広い曲をつくるのもあり、ジャンルに当てはめる必要性を感じなかったのも大きかったかもしれません。

「人によって解釈が分かれている時点でもはや無理じゃん、なんで論争したがるの?」とよく思ったものです。

 

会社での肩書きも、全体の組織図を把握していないと立ち位置を正しく理解できません。

組織が大きければ大きいほど、自分と無縁の知らない部署があったりしませんか?

 

ほかにも本屋や図書館のジャンル別分類とかも探すのが苦手なので検索機必須ですし、芸術の「抽象派」「印象派」「未来派」「写実主義」「自然主義」みたいなのもなかなか覚えられずにいます。

 

何においてもこういった分類があるものですが、大まかな大分類から細分化された中分類・小分類が相当数あることが多く、歴史背景を知らないとどう派生していったかがわかりません。

各分野ごとにそれらを覚えることに労力をかけるくらいなら他のことに割きたいと思ってしまいます。

いろいろ実例を知ったあとに単語を知って「あれのことか」と結びつける方が覚えやすいですしね。

知れば知るほど森羅万象は連鎖して繋がっていると痛感する

分類をあまり気にしないというのは、気乗りしないからただなんとなくそうしてきただけですが、結果それでよかったかなと今では思っています。

いろんな物事を知れば知るほど、別分野との繋がりが多数あって複雑に絡み合っていることに気がつきます。

であれば私がわからないのも当然で、自分が概念ベースや体感ベースで物事を捉えるようになったのも必然だったのではないかと感じます。

 

オードリー・タンさんが理系分野について述べていたのもまた、それぞれの分野の相互関係を表すものだと思います。

性質が完全に異なるといえば、化学における反応は物理における基礎で、化学における分子式もまた物理の法則に基づいています。
仮に物理と化学がまったく関係ないのであれば、物理の法則を化学者が使うことはできず、化学者の発明したものを物理学者が研究すべきではないということになってしまいます。
しかし、理論物理学は実験物理学から派生したものであり、実験物理学は化学的な方式を用いて物理の理論の検証を行うものです。

つまり、生命科学の分野でも、薬やワクチン、マスクそれぞれに物理や化学の知識が必要なのです。
それらの知識があってはじめて、どの方式を使って開発するかということが考えられるのです。
このように、物理と化学は性質こそ異なっていますが、相互に関係し合っているのです。

正直何言ってるかなんてこれっぽっちもわかっていないけど、要は分野が違うからといって関係がないなんてことはなく、ある一分野に特化していたとしても、ほかの分野の知識を使うことだってあるし、複数の分野の集合知でものをつくりあげているというのはわかります。

ピッタリの例が思い浮かばないのでちょっとズレるかもしれませんが、たとえば和食料理人がメレンゲを使うことだってあるし、フランス料理であればソース担当、前菜担当、魚担当、肉担当、切り分け担当、お菓子担当などたくさんのシェフによって1つのコース料理がつくられているようなものかなと想像します。

別に和食料理人がプリン作ったっていいし、アメリカでカリフォルニアロールが作られて逆輸入なんてこともありますね。

それでいてレストランを立ち上げるとなると、不動産を借りて、インフラや調度品を整えて、値決めや原価管理など管理会計をして、お店を知ってもらうための広報活動をする…と料理以外の分野にも取り組んでいかないとなりません。

 

漫画『ブルーピリオド』を読んでいて出てきた色の話でも似たようなことを感じます。

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デザインを習っていない人にとっての色って、色鉛筆や絵の具セットの12色、「赤」「青」「緑」「黄」「オレンジ」みたいな感覚だと思うんです。

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でも色ってそんなパキパキ割れたものではなく、「赤」「青」「黄」の組み合わせで皆が繋がっています。

そこに「白」や「黒」を加えたりすれば、色の明るさや鮮やかさも変わっていきます。

サッカーでいえば鹿島、浦和、名古屋、札幌、福島、金沢、熊本、神戸、琉球の赤はバラバラですし、野球でいえば西武、日ハム、オリックス、ヤクルト、DeNA、中日の青は別物です。

 

頭の中のパキパキ分かれた12色のパレットを想像しながらデザインを発注されることはよくあることですが、その脳内パレットの色味は人それぞれですし、色の組み合わせ方や質感によっても見え方の印象は変わってきます。

さらに色盲色弱など色覚の差でも見える色が変わってくるので、皆に色の違いが伝わるよう配慮されたカラーユニバーサルデザインというものもあります。

デザイナー、印刷業、塗装業、美容系、イラストレーターのような方たちは、ふわっとしたイメージを落とし込んで形にするプロでありますが、色見本帳や参考イメージなどを使いながら、色覚に配慮しつつ、共通認識をすり合わせないとなりません。

「イメージと違う…」となることってあるとは思いますが、それだけ色の認識の共有は難しく繊細な世界であり、いつもイメージどおりに仕上げてくれる方がいるとしたら、その方はめちゃくちゃ高度なやり取りをされているのだろうと想像してしまいます。

私は色の知識において入り口しか知りませんが、本当に奥深い世界だなぁと思いますね。

 

こうやって何かを知れば知るほど、知らない何かが芋づる式で大量に出てきて、隣り合う分野にも同じような途方もない未知の世界が広がっていて、それらがたった1分野にしかすぎない…と自分の無知さがえげつないことに気づいていくものなのではないでしょうか。

だから道を究めたり、いろいろな業界を渡り歩いている人ほど他者へのリスペクトがあるし、謙虚な方が多いのかなって思います。

「実れば頭垂れる稲穂かな」とはよく言ったものですね。

圏論」という考え方

オードリー・タンさんが紹介していた「圏論(けんろん)」という数学の理論は初めて聞くものでしたが、感覚としてはどこかなじみのあるものでした。

圏論」という、とくに私が興味を持っている数学の理論があります。
これは、一見違うように見えても同じように相互作用しているものについての学問です。

「あるものの相互作用の仕方を、他の相互作用の仕方に自然と変換するにはどうしたらいいのか」を考えるのが、「圏論」の特徴です。

繰り返しになってしまいますが、多くの物事は要素同士が密接して連鎖しており、「風が吹けば桶屋が儲かる」というようにどこかで影響し合っているもので、何にも影響を及ぼさないことって実はなかったりすると思います。

たとえば、「社会的企業」という名称は、これまで「社会的」が形容詞であり、「企業」は「社会」という単語によって修飾される名詞であると考えられてきました。

しかし、「その考え方は違う」と主張する人たちがいます。
社会的企業とは、社会問題を解決することが本来の姿であり、社会こそが主体なのだ」という論理です。

そこで私は、社会と企業の間に「・」を入れて「社会・企業」という名称を考えました。
この「・」は、「社会は社会に帰属し、企業は企業に帰属する」という意味で加えたものです。

今、私たちが行っている仕事は、まさにこの中間点が表す「連結(・)」です。
社会が企業とつながるこの「・」こそが、イノベーションであるというわけです。 

簡潔にまとめれば「社会と企業のどちらが主体なのか」を「・」によって解決したという話です。

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私は以前、言葉は何でもよいけど「共通のゴールを見据えて協力する」方向へシフトした方がいいのでは?と思った話を書きました。

これも大枠で見れば「圏論」の一環なのでは?と本を読んでいて思ったのです。

 

社会が主体だろうと、企業が主体だろうと、「社会問題を解決する」という目的は共通しています。

名前先行で考えた結果の主張だと思いますが、概念自体は同じものです。

「みんなどこも同じ問題抱えているんだから、手を取りあう必要があるのでは?」までは書きましたが、「・」で解決するという考え方は発想がありませんでした。

 

私はずっと「概念>名前」の感覚で来てしまったので、概念の名前なんて些末なものという気持ちが自分の中に少なからずありました。

文を読むのに必要な単語は覚えるけど、概念に対する名前になった途端に扱いが雑になるのです。

だからラベリングをスルーしまくってきたし、自分のブログのカテゴリ分けも下手だなぁと思いながらやっています。

そのせいで自分が「物を知らない」と思う場面はよくありましたが、でもよくよく聞いていると、このように「名前を知らないだけ」だったりするのです。

今回これを書きながら、概念を理解する方がよっぽど大事だなぁと感じたので、ラベリング無知にますます拍車がかかってしまいそうです。

私にとって読みやすい文章と感じる3つのポイント

どんな文章を書くかは個人の自由ですし、どんな文章を読むかもまた個人の自由。

であればあくまで個人的な好みですが、私は次のような文章を読みたいのだと気がつきました。

  • 違和感のない自然な日本語で書かれている
  • 概念ベース・思考ベースで書かれている
  • 知識がなくても読めるよう工夫されている

これもまた個人的な所感ですが、この3拍子がそろった文章を書く人というのは、自分の考えをしっかり持って思考の整理もされているので、論点がズレたり、変な情報に踊らされたりしている確率がグッと下がる気がします。

違和感のない自然な日本語で書かれている

大前提としてやはり、違和感なくスラスラ入ってくるキレイな文章を読みたいものです。

校正をやっていると正直、日本語がめちゃくちゃなライターが一定数いるものだと感じます。

誤字脱字というレベルを超えていて、基本の「てにをは」を理解しておらず、本来言いたい内容とは別の内容になっているであろう文章が出てきて「うわぁマジか…」と直しています。

たとえば「紐をフックにかける」はランドセルにつける巾着袋などになりますが、「フックを紐にかける」だとそれはもう屋台のヨーヨーつりですよね。まぁ違いますよね。

 

そういった文章を見た後はドッと疲れてしまうので、プライベートでは避けたいところです。

概念ベース・思考ベースで書かれている

著者の思考の概念ベースであり、言葉先行になっていないのも重要です。

 

言葉には複数の意味を持つものがたくさん存在しています。

概念ベースであれば、思考の過程がわかることによって、その言葉をどう捉えているのかを把握し、自分や他者の考えとどこが違うのかという差異にも気がつきやすくなります。

 

これは解釈のブレを減らすことにも繋がります。

 

パソコンでドラッグと言えば、マウスの左ボタンやタッチパッドを押したままアイコンなどを引きずって動かすことを指します。

私はこれ以外が思い浮かばないし、あとは知っているかどうかの差です。

これなら知っている人に向けては、「ドラッグ」の一言を使えばいいだけの話になります。

 

しかし、先述で例に挙げた「保守」は人によって解釈が異なる可能性が高く、自分の「保守観」を書くことで、認識の食い違いによる論点のズレを減らし、どこに差があって、どちらがより良いと思うのかという比較の材料にすることができます。

 

掃除の仕方であっても「上から下へホコリを落としていって床に溜めてから片づける」と書かなければ、最初に掃除機をかけてから棚の上のホコリを払う人がいるかもしれません。

 

自分の当たり前は、他人の当たり前ではないのですから、いろいろ解釈ができてしまうものはやはり、概念の説明が必要だと思うのです。

 

そして私はその概念ベースの考え方が身についていたおかげで、ラベリングに縛られずフラットに見ることができるようになったとも捉えています。

 

ラベリングや名前っていうのは、概念となる事象が先にあって、皆がわかりやすいようにカテゴリを分けたり、共通認識できるよう名づけられたりしているはず。

しかし、名前が先行してしまうと、ラベリングに当てはめようとしたり、内実が違っていてもラベリングを見て判断してしまったりということが起こっているように見えます。

やはり言葉先行の考え方は危険だと思います。

知識がなくても読めるよう工夫されている

これを書いていて「歴史の背景」という言葉を何回も使ったなぁと感じたのですが、つまるところは読み手の知識の負担があるかどうかということなのではないかと思い至りました。

 

いつどこで生まれたか、何に興味を持って勉強してきたか、どんな仕事をしてきたかによって、人の持つ知識というものは異なってきます。

読みやすい文章を書く人というのは、自分が知らないものであっても何かしらの形で伝わるように工夫がされていると感じるし、概念をベースに書くのもそのひとつと言えます。

 

漫画だと『ブルーピリオド(絵画)』『ヒカルの碁囲碁)』『アイシールド21(アメフト)』『ラジエーションハウス(放射線科)』『Shrink シュリンク-精神科医ヨワイ-(精神科)』など、身近なテーマでなくてもわかりやすく描かれていたり、なんとなく楽しめるものが多いですよね。

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でも文章や会話になった途端、説明が疎かになることって本当によくあることだと感じます。

自分の感覚を前提とし、自分が知っていることは書き飛ばしてしまうので、一気に「あれだよ、あれ」レベルになってしまうんですよね。

たまに校正を手伝う広報紙で本の紹介コーナーがあるのですが、「その本を読んだことないから何言ってるのかマジでわからん」と思うことはしょっちゅうです。

気づかず自分がやってる可能性はありますし、たまに過去の記事を振り返ってはちまちま直すこともしています。

 

そう考えると、先に書いた『壬生義士伝』は改めて本当にすごいですね。

主人公の吉村貫一郎が、自分がまったく知らない東北・岩手の南部弁で話しているのに、気づけば物語の内容が入ってきて感情移入しちゃうのです。

「おもさげながんす」は「申し訳ないことでございます」という意味なのですが、それだけ書かれていたら、まぁわからないと思います。笑

でもこのレベルの訛り言葉が自然と入ってきて、泣くほど物語にのめり込ませてしまうのがプロの作家さんの力というものなのでしょう。

 

私自身もこんな文章を書けるように努めていきたいものです。

苦手なものへの抵抗感と諦めの境地

www.youtube.com(17分ごろ)

フィッシャーズのシルクくんが動画で「会議の最初に資料を配付したこと」を失敗談として話していました。

グループ内会議で配られた書類を見た皆が「内容わかんねぇな」って顔をしたのを見て、文字面で見ちゃうと「これ、何言ってんだ?」となって一瞬やる気が失せちゃうから、内容を話した後に文面を見せるべきだったと反省したのだそうです。

 

これすごいわかるなぁと思うんですけど、問題集やマニュアルのような長文って最初に「うわっ」となるんですよね。

そのウンザリ度が大きければ大きいほどめんどくさくなってしまうし、重要度が低ければ回れ右してスルーしてしまいます。

基本的に世の中にある7~8割の文章は読む気にならないんですよね。

だから何でもメールマガジン送りつけるなって思うし、お便り多すぎってあちこちで思います。

 

本を読むのが嫌いなわけではない自分でこのレベルなのであれば、人というのはこのような文章に対して面倒くささを感じる機会というのが、多かれ少なかれあるものなのではないでしょうか。

そしてその許容値は対象への興味の度合い、知識や読解力、文章への抵抗感などといった要素によっても左右されるのでしょう。

 

私自身「もっと頭が良かったらなぁ…」と思うことは数えきれないほどありますし、「わからんものはわからん」と開き直ることも多々あります。

 

しかし知りたいことについては、なるべくは自分の理解力に合った文章を探しはしますが、参考文献が限られていてそれがどんなに難しく感じても「自分が理解できるレベルにまでかみ砕いて覚えるしかない」という諦めもまた感じています。

それが興味がないものだったら苦痛でしかないですが、興味を持ったものならどうやったら自分が理解できるか、できるかぎりはトライしようと思います。

 

ただ知識コンプレックスや文章への抵抗感が強くなるほど、諦めるスピードが早くなり、シャットアウトしてしまうものが多くなるのではないかと感じます。

 

削ぎに削ぎ落として必要最低限の内容に抑えて、Twitterレベルの文字量のLINEを送っただけで「長い」と言われた時はお手上げでしたし、ストリーマーの釈迦さんがゲーム配信中に「フレッシュなんて難しい単語使わないで」と言っていたのは「マジか、それも難しいのか…」とは感じました。


自分が最も簡単な文章にしたつもりのものに「難しい」とはなから言われてしまうと、コミュニケーションの壁を感じてしまうし、自分はもう力不足でしかなく途方に暮れてしまいます…。

 

でも、自分も理数系の話が苦手でよくわからなくて、スッと諦めてしまいますので、それもしょうがないのかな…という気もします。

その気持ちを想像してみても、国語を面白いと感じてしまう自分が本当の意味で理解できることはないのでしょう。

togetter.com

たくさんの知らないことをただ地道に覚えていっているだけ

ただ「頭がいい」「頭が悪い」でシャットアウトされるのはちょっと違うとも感じます。

自分にとってちょっと理解しやすいことがあるだけでしかなく、やっていることはひとつひとつ覚えていっただけにすぎません。

 

私は会社に入社した頃、周りの同僚が「選挙」を読めなかったり、123を英語で言えないことにビックリしたことがありました。

「なんでニュースメディアの部署に来ちゃったんだろう?」と思いはしたものの、そういった経験を重ねて「自分の知っている当たり前は、当たり前ではない」と学んでいき、今となっては知らないことに驚きはしても「知らないことがあって当たり前」前提が安パイとまで思うようになりました。

それからは徐々に「自分が知らないことは別に恥ずかしいことではないし、知らないなら覚えていけばいい」と気持ちを切り替えられるようになったと思います。

ciel-myworld.hatenablog.com

なので、すべてにおいて「こんなことも知らないの?」マウントの言い方をする人は避けたいって思うし、テレビを見なくなった理由のひとつに、そういう姿勢が多くて嫌になったのもありました。
そういうことを言ってこられた時には言葉は受け取らず、ただ「たまたまあなたが先に知っていただけだし、わざわざ言わずにいられないのは知識コンプレックスでもある人なのかな?」とでも思いながら捨て置けばいいのではないかと思っています。

 

私は常日頃、知らない言葉って本当にいっぱいあるなぁと感じています。

そりゃ広辞苑があんな厚さになるはずだよなぁって思いますし、全部を把握するのは無理だ!って諦めもつきました。

Untitled

それでもなるべく、知らないと思った単語は1度調べたらメモするようにしています。

そうすると初めて聞いたと思っていた言葉が初めてじゃないことに気がついたり、何度も調べているからいい加減覚えようとしたりするようになるので、「しえるの知力が1上がった」みたいな感覚でいつも過ごしています。

 

たしかに多少の国語が得意という感覚は小さい頃からあったかもしれませんが、結局はこうやって「自分は何も知らないなぁ」と笑いながら、地道に反復作業を続けているだけにすぎません。

今でこそこんな長い文章書いてますけど、学生時代は作文を1文字も書けませんでしたしね。

多分話を聞いているかぎり、他の得意なことがある人も、ただ好きでやってただけなんじゃないかなぁ?と感じます。

 

ちなみにメモ内にある「可惜身命(あたらしんみょう)」は漢検準1級に出てくる四字熟語のひとつなのですが、高校生だった自分はあまりに知らない言葉だらけすぎて心が折れるきっかけとなりました。笑

完全に個人的感想ですが、漢検準1級は明らかにレベルが違っており、古典が関わってくるし、当て字も知らなきゃいけないし、ふだん見慣れない字が続出で漢字ガチ勢の趣味の世界という印象があります。

正直漢検2級あれば、何かを読むのに困るということはあまりないので十分だなぁと感じていますので、もし漢検に興味がある方がいらっしゃったら参考までに。

言葉の理解は自分の幅が大きく広がる

『FOOT×BRAIN』というサッカー番組では先日、「言葉力」がテーマに取り上げられていました。

選手や監督の間で状況を伝えたり、意思疎通を図ったり、コミュニケーションの基本となるのが「言葉」。

「自分がそう判断したのはなぜ?」と自分の中の根拠や考えを追究していくトレーニングが紹介されていて興味深い内容でしたし、自分はブログを書くことでその力を養っているなぁと感じました。

この記事自体も「自分にとって読みやすい文章と読みにくい文章の差は何?」と深掘りしていった内容ですしね。

おかげで今まで感じていた自分の理解力不足の意識などを払拭することができました。

 

自分が文系脳であり、漢字や本が好きで現代文理解できてよかった!と改めて恩恵を強く感じているので、言葉の力の大切さには本当に賛同します。

他者とのコミュニケーションもそうですし、多くの物事って言葉で説明されているから、蓄積してきた語彙力や文章を読み取る力というのは生活全般何にでも応用ができて最強では?。笑

toyokeizai.net

参考文献

法律や権利って大事な割に知らないことが多すぎると感じる身近な権利侵害の話。【個人の感想です】

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先日、YouTubeで見かけた動画にビックリ。しえるです。

 

私は長らく法律に疎く過ごしてきましたが、仕事で痛い目を見てからは多少勉強するようになりました。

 

このブログを書くにあたり、元々からとりあえず「自分で言葉を紡ぐ、自分で写真を撮る、ブログで利用可能なフリー素材を使う、なるべく公式を引用する」といった点は強く意識してきましたが、それ以外はぶっちゃけなおざりな部分もあります。

 

今日は浅い知識ではありますが、身近な権利侵害にまつわるお話です。

法律や権利って大事な割に知らないことが多すぎると感じる身近な権利侵害の話。【個人の感想です】

盗作への対応が素晴らしすぎる件

www.youtube.com

こちらの作曲家・ドラマー・ボカロPとして活躍するマイキさんの動画は、昔つくった曲を盗作されたという内容となっています。

「歌ってみた」などカバー文化も主流となった昨今で、テンポや歌詞を少し変えた程度で後はモロパクリし、作詞作曲は別人に変え、スタッフの中に無断で本人の名前を入れ、挙句の果てにサブスク配信というなかなかの暴れっぷりです。

 

それに対するマイキさんの対応がなんと、その盗作した方に「無償で1曲提供します」というもの。

僕が作曲家として一番大事かなって思ってる事が、僕の曲を求めてる方に僕が曲を届ける事だと僕思うんですよね。

まぁやり方は間違ってたんですけど、この人は。

僕の曲を自分のものにしたいって思うほど、僕の曲の事を好いてくれてたんだなと思いまして。

この人にとって一番正しかったやり方っていうのは、僕が正式に楽曲提供をこの人にしてあげるって事がこの人本来のやりたかった事だと思いますし、本来のやり方はそうだと思うんですよね。

これには、なんて寛容なんだろう!!と驚きしかありませんでした。

www.youtube.com

これには続きが出ていて、盗作した方から連絡が返ってきて、動画の削除、サブスク配信停止、謝罪があったうえで、改めて楽曲提供が決定したそうです。

連絡するのは相当な勇気が必要だったでしょうね…。

 

中には「悪い事をした人が得をしてしまうのはおかしい」という意見もあったそうですが、「盗作をした人が不幸になれば皆は幸せになれるのか?って疑問に思うんですよね。誰でも一度は間違いを犯しますし、幸せは相対的なものだとか、人の不幸の上に幸せは成り立つとか、他人が幸せになったら自分は損をしてるんじゃないかとか、そういう考え方はあんまり僕には合わない。」「逆に僕がいつも応援してくださっているファンの方に何もしないというのもおかしな話…」と言って、盗作者以外にもファン10名に曲を提供するという話に発展していました。

 

いやもうどんだけ器が大きいんだって話です。

許すだけでもすごいと思うのに、相手の感情の本質を見抜き、自分の時間や労力を削って応えようとするなんて…かっこよすぎます。

 

私自身もこどもの頃に友達の作品を勝手にアップしてしまったり、検索で出た写真を見ながら描いた絵を企画に応募して受賞してしまったりと、それなりにやらかしてきています。(時効とさせてくださいごめんなさい…汗)

だからこそなんとなく想像ができるのですが、他人の著作物を利用してしまう時、そこにはまず嫉妬や羨望、焦りやコンプレックスなどといった比較から来る感情があって、その奥にはその対象を「良い」「好き」と感じる心があるのではないかと思います。

(多分盗作者を攻撃してしまった人もまた、似たような感情を抱えている気がします。)

 

そしてそんな奥底の感情まで理解したうえで、すべてを包み込むマイキさんの寛大さのすごいこと…。

久々に「私もこういう人間になりたいなぁ…」と衝撃を受けた出来事でした。

法律や権利をよく知らないまま社会に出るのは、なかなかハードモードな件

先に書いた件は無知から来るのか、ダメだと知りながらなのかはわかりませんし、そこを追及しても詮方ないことです。

 

そもそも法律や権利ってお仕事に就くためなどで勉強していないかぎり、たいがいは社会の授業でふわっと習ったくらいの存在で、にもかかわらず切っても切れない関係ですよね。

 

それこそ、ただインターネットなどを利用しているだけでも、著作権、商標権、肖像権、人格権といろいろな権利が関係してきます。

 

昔ホームページをつくったことでフリー素材の利用規約に目を通すようになりましたし、お店のチラシやロゴをつくるときには「フリーフォントの商用利用について気にしなきゃいけないのか!」と今まで何気なく使っていたフォントの配布先を見直してまわったりしました。

 

今もブログを書いている途中で、「この場所の写真は個人利用でしか認められてないじゃん!」と気づき慌てて内容を差し替えることもあったりするので、改めて権利の本を読んでお勉強している最中なのですが、いまだに知らないこともちょくちょく出てきたりして、「え?あれってあかんくね?やべっ…」と後から気がつくこともしょっちゅう。

全部を網羅するのはたいへん骨が折れるものです。

前に友人の振る舞ってくれた料理をSNSにアップしたことがあるのですが、その後、その振る舞ってくれた友人が私の写真を使ってSNSにあげていて、あれ?とモヤモヤしました。

私は「友人がこんな素敵な料理を振る舞ってくれた」という内容で書いたんですけど、その友人の投稿には写真を誰が撮ったかについては触れられていなかったのです。

まぁそもそも勝手にSNSにあげたのは私だしなぁとは思うし、その写真を気に入ってくれてるのもわかるのですが、それでも自分が撮ったかのように見えてしまうその投稿はやはりモヤっとするものがあるので、せめて一言があるかどうかで印象はかなり変わってくるものだなぁと思いました。

 

昔の自分は友人と写真をシェアすることが多かったのですが、後から見てどれが自分の撮った写真かわかりにくいときがあり、勝手に他人の写真を使ってしまうリスクをめんどくさく感じたので、今では自分で撮った写真しか保管しなくなりました。

それこそ当時はまわりの撮影技術やカメラ性能と比較して羨んでいたなぁとも思うのですが、今の私は自分が撮る写真が大好きなので、他の人の写真をもらう必要性を感じなくなりましたし、最近は自分以外が撮った写真というのはほぼ、自分を撮ってもらったときの写真ぐらいしかありません。

 

本を読んでいると、昔の職場で同僚が受けていたあの指示はアウトだったっぽいなぁとか、自分自身も無意識に侵害してしまうような内容もあったりして、法律家って最強じゃね?と思ってしまいますね。苦笑

顔出しに対する意識や肖像権の認識の差で思うこと

今はネットを使う層も広まり、実名顔出しへの抵抗がゆるくなっている印象を受けますが、私はどうしても抵抗を感じてしまいます。

なのでプライバシー保護の観点からずっと、自分や身内が明らかに写っている写真を全体公開でアップすることはまずありません。

 

そんな私ですが昔、友達の写っている写真をFacebookを使って関係者限定公開で共有していたことがあります。

たいていは「写真ありがとう」という反応だったので、当初はシェアしやすい便利な機能だと思っていました。

 

しかし、とある友達グループにそれを全体公開と勘違いされてLINE500件超のプチ炎上をしてしまいました。

結局全公開は誤解だと理解してはもらえましたが、人一倍気を遣ってきたつもりでしたから、モラルだのデリカシーだのあることないこと散々責められたのは、なかなかのダメージを受けました。

 

その私を責めてきた中の1人には、勝手に飲み会の写真をTwitterにアップされたことがあります。

すぐに取り下げてもらえたし、その子は鍵つきアカウントではありましたが、鍵をかけたり外したりを繰り返す人で、それはもはや鍵をかけていないようなものと感じていましたので、どちらの方がモラルがないんだ?って思ったりしたものです。

 

ほかにも街中でのテレビ局等の取材で、勝手にカメラを向けていきなり話かけられることがたまにありました。

私は一切映りたくないのに、カメラ向けたもん勝ちのような有無を言わせない感じが嫌で仕方ありませんでしたし、私が偶然そうであっただけかもしれませんが、「〇〇局の△△という番組ですが、撮らせていただいてもいいですか?」とお声がけいただいたのは1回限りだったと記憶しています。

もしそれが観覧だったらまだ仕方ないとは思えますが…。(有象無象の観客Aだと思っていたら、どアップで客席の自分が抜かれていてビックリしたことがありました。)

今思うと、1番礼儀正しくお声がけいただいた方を丁重にお断りするという悲しい図式になってしまっていますね…。

 

そんななのでテレビやオーロラビジョンに映りたがる人の気持ちもまったく理解ができないでいます。

 

また別件で昔、帰り道に車が故障してしまったことがあるのですが、JAFを待つために発炎筒や三角表示板などを置いて待機している間、通りすがりの車からスマホを向けられ続けたことがあります。

ただでさえ、初めての車のトラブルで困り果てているところに好奇の目を向けられ、もしかしたらSNSなどに勝手にアップされているのかもしれないと思うと、腹立たしさとか悔しさ悲しさとかいろんな感情が渦巻き、大変もどかしかったです。

 

このような経験から、人によってメディア露出の感覚は千差万別ですし、友人知人もすれ違う見知らぬ人も決してフリー素材じゃないし、他人の写真を勝手にアップする人は「他人の肖像権やプライバシーの権利を侵害している」という認識をもう少しもってほしいなとはずっと思い続けています。

 

もちろん私自身、完璧に守れているかというとそうではないと思いますが、それでも頭の片隅にこの意識があるかどうかの違いは、それなりに大きいものがあるのではないかと思うこの頃です。

togetter.com

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