最近は本を読んでばかり。しえるです。
今年は時間がたくさんあるお陰で、漫画・小説等の活字、あわせて400冊くらいの本を読むことができています。
考える時間、自分と向き合う時間をつくり、こうやってアウトプットをする場所もあるので、点と点が繋がり、線となって面となって得られる気づきがいっぱいで面白いです。
若干、頭がショートする時もありますけどね。。。
今日は本を読んでいて、自分の中でまとまってきた考えについて書いてみようと思います。
2冊の本に感じた驚きと不快から結びついた、心の傷からの解放。
ようやく見つけた自分が抱えた傷を癒す糸口
自己啓発などでよく見られる「インナーチャイルドを癒す」という考え方があります。
あくまで心理学ではなく、アメリカのセラピスト発祥の話のようですね。
言い方を変えていても同じようなことを説いていたりして、よく見かける内容なんだけど、私はずっと「結局よくわからないな」って思っていました。
でもこの度、ようやく糸口を見つけて、こういうことか!と咀嚼(そしゃく)することができました。
インナーチャイルドとアダルトチルドレンについて
「インナーチャイルド」とは、「内なる子ども」の意味。
この世に生まれてから自分の興味が湧くまま思うように遊んでいた子どもの頃、純粋に感じていた感情など、本来のありのままの自分を指します。
家族や学校などで徐々に自我を築き上げていく中で性格が固められていきますが、その際に塞いでしまった本当の気持ち、そこに不安や恐怖、心配に寂しさを感じると心に傷を負います。
「褒められなかった」「無視された」「話を聞いてもらえなかった」
そういった子どもの頃に抱えた心の傷が癒されることがないまま大人になると、自己卑下・自己嫌悪・不安・イライラ・他人への恐怖感などの心的負担を抱え、生きづらさを感じてしまいます。
こうして心の傷を抱えたまま成長して大人になって、精神的な影響を受け続けている状態の人のことが「アダルトチルドレン」と呼ばれています。
何にも疎外されることなく、ありのままの自分で自由に過ごせると自分の中にしっかりした土台が作られ、足元が固められて精神的に安定した大人になるというのですが、現代では何の憂いも傷もなく育つことはおそらく稀有なのではないかと思います。
それは育てる親がどうこうという話ではなく、親自身も、そのまた親も、何世代も前から皆が心に傷を抱えたまま生きているからです。
人は今現在抱えている目の前にあるストレスだけでなく、これまでの幼少の頃からのストレスが繰り越されて累積されているわけですから、そりゃキャパオーバーにもなりますよね。
こういった大人になって抱えたままの内面の自分の心の傷を取り除くこと、つまり「インナーチャイルドを癒す」ことによって、本来の自分を取り戻せるというのが、療法の1つとされています。
何かを不快に思うということ
気づかぬうちに自分が抱え込んだ内面の傷。
それが1番わかりやすいのが「他人を見て、なんか嫌だなと思った時」なのかなと思います。
そこには大きくわけて次の2つの理由が存在すると感じています。
- 自分にできないことをやっている嫉妬や羨望(我慢、本当は好きでやりたい)
- 過去の黒歴史を見ているかのように感じる羞恥心や恐怖(掘り起こされるトラウマ)
ここら辺から自分の実体験としての推論なのですが、心の傷を癒すにはこの2段階の不快の手放しが必要なのではないでしょうか?
まずは最初に、本来の自分を見つけてあげること。
幼い頃、心の奥にしまった本当の気持ち、誰かのために言うのをやめた思い。
そうやって自分の気持ちにフタをするのに慣れてしまって「自分がどうしたいのか」がわからなくなっているので、「自分が何に惹かれて何が合うのか」を確認していくと、自分への理解が進んでいきます。
そしてその次が、すべての自分を受け入れること。
この数か月、ずっと自分の内面を掘り返しては受け入れるのを繰り返していました。
そしてようやくどんな情けない自分も受け入れられるようになってきたこの頃。
そんな最近でしたが、立て続けに他人に対して嫌な思いをすることが起こりました。
その中で私は相手の意見を受け取り、自分の意思を表明したうえで分かり合えないと判断して、ある人から離れるという選択をしました。
後悔は全くしていないですし、今までできなかった選択を取れるようになった自分が感慨深さを覚えすらしました。
それと同時に私は自分の中で「できない」に対しての許容は広いけど、「できること」や「強要されること」に対して、どこか厳しい自分がいると感じていました。
次の私が向き合うのはこれか!と思えたのが、大きな気づきでした。
きっかけは最近読んだ2冊の本
最近、漫画の『やわ男とカタ子』と小説の『BUTTER』という本を読みました。
他にもいくつかヒントを得たものはあるのですが、大枠はこの2冊から湧いた感情をまとめてみたら、今日のこの記事内容にたどりつきました。
『やわ男とカタ子』で引き起こされた黒歴史の感情
『やわ男とカタ子』は<喪女(もじょ)>の主人公・藤子がオネエと出会って少しずつ意識が変化し始めていくストーリー。
初めて読んだとき、藤子の徹底的な自虐にビックリして正直引いてしまいました。
でもだんだん、あることに気づいたんです。
「あ、過去の自分だ」って。
10代の頃は化粧なんて全然わからなかったし、
オシャレとか自分には無縁と思っていたし、
私には場違いだって感覚も知っています。
男性に声をかけられても、女性から褒められても信じられない。
「自分は底辺」が前提だったし、「私なんて」「私なんか」は口癖でした。
こういった過去の自分を連想させるものって、今の自分が脱ぎ去って置いてきたはずのもので、でもそれを改めて客観的に目の前につきつけられるとウワッ!!となるんですよね。
小さいお花のネックレスとか、ふんわりしたスカートとか、ザ・女性って感じのものに憧れたけど、自分に合わなくてガッカリして。
誰かと上手くいかなくなるたびに、私は必要ない存在なんだって思って。
でも「好き」と「自分に合う」は別物だということに気づいて。
自己防衛は、自分も他人も傷つけるものだと知って。
今傷ついてるのは勝ち組のはずのあたしのほうでしょ
…自分が常に傷つけられる側にいるだなんて思ってんじゃないわよ
なかなか強烈な言葉です。
…愛さんの言ってること当たってました
相手を見た目で判断してたのは私のほうです
今も気を抜くとやってしまうなって思います。
自分の心の何かが刺激されて防衛しちゃうんですよね。
この防衛心が生まれた時に、なんでそう思ったんだろう?と考えてみると、自分の中の消化しきれていない感覚に気づきます。
YouTuberのエミリンが人気なのって、こういった藤子のような女性が頑張って進んでいる姿に共感するんだと思います。
この「オシャレすぎないけどダサく思われない服」って感覚も最初は驚いたんだけど、『やわ男とカタ子』を読んで、そうだこの感覚だって思い出して。
私ね 許しえてもらえた気がするの
がんばった自分を認めていいんだって
愛されたいって願っていいんだって…
そうして見えてきたものは拒絶ではなくて
切実に生きる人同士の思っていたよりやさしい世界
今の自分は「そんな他人の声や目を気にしなくていいよ」が軸にあるのが当たり前になっていましたが、初心に帰った気持ちになって、この気持ち忘れちゃだめだなって思いましたし、過去の自分に寄り添える自分でありたいってなりました。
『BUTTER』で客観的に見た不快への攻撃性に反応する自分
こちらの小説は、実際の婚活を利用した連続不審死事件をモチーフにした被疑者に対し、記者の主人公・里佳が取材を重ねて背景を探っていくストーリー。
週刊誌で働く30代女性記者の里佳、取材対象の連続不審死事件の被疑者・梶井、主人公の友人でバリキャリから妊活のために専業主婦となった伶子、被害者や被疑者の親族など、さまざまな登場人物の思惑が飛び交う内容となっています。
自分の見たいように世界を見て、欲望のままの言動を見せる梶井に対して、驚くくらい噛みついて、感情や行動を振り回される登場人物たちにビックリしながら読みました。
正直、それぞれの思いが濃厚に詰まっていて、読後感はたいへん重くて疲れました。
梶井が美しい女性だったら納得したのだろうか?
映画『ライフイズビューティフル』のように、親が子供のためにつき続ける幸せな世界は美談とされ感動して泣くのに、一人のふくよかな女性の描く幸せな世界は蔑まれるのはなぜだろう?
やっていることはたいして差がないのに。
私がこの本から感じたのは、登場人物たちそれぞれの、幼少の頃に形成された性格やものの考え方と、自分に自信がなくて、何かの常識に縛られていて、自分自身の本当の意見がわからなくて、何かを許せないという気持ちたちでした。
頭で考えすぎていた。言葉にしようとしすぎていた。
必死で飼い慣らしてきた自分の子供っぽさがどんどん外に流れ出していく心地よさがたまらない。
どうして、ごく自然な欲望にさえ、向き合う勇気がないのだろう。
罵れば罵るほど、がんじがらめに縛られて苦しむのは自分。
自身の繰り出す言葉が、自分が不快に思う相手と同じ類のものだと気付かぬ矛盾。
客観的に見ればわかるけど、渦中にいたり、自分のこととなるとわからないものです。
自分の中で解決したことって気にならないんですよね。
でも気になった、引っかかったということは、まだ何かが自分の中に残っているということで。
自分とまったく違う考え方や行動をする人に対して、相手の何を見て不快な気分になったのか?何が許せないのか?
客観的に見ることのできる他人を心から許せて初めて、自分のすべてを受け入れられたと言えると思います。
そしてこれによって、私は「できることを強要されること」への抵抗感が根強く、まだまだ許せないのだと気づきました。
「なんでこんなこともできないの?」
「あなたは人間として欠陥があります」
「お前は社会をわかっていない」
「空気読めない自分勝手なやつ」
「普通、大人だったら当然でしょ」
「○○のためを思って言っているんだよ」
どうしてこの人は、こんなにも死がちらついてしまうような、人を傷つける言葉をぶつけてくるんだろう?
どうして自分ができていないことを、自分はできているかのように上から言ってくるのだろう?
本当に自分は社会を、人間を理解しているの?普通ってなに?
内容に心当たりがあればムッとしても聞き入れる用意はあるけど、これは耳が痛いを通り越して、ただの人格の否定ではないか。
自分のことを棚に上げて、上手くいかなかったらすべてを私のせいにしてくる人たちに散々苦しめられたトラウマから全く抜け出せていませんでした。
「見たい世界しか見ない」と指摘される梶井を見て、そんな人たちと関わりをなくして見ないようにしている自分が図星と感じたんだと思います。
自分という存在を保って肯定していくために必要なことだったのは間違いないです。
けど、それをまだ責められているように感じてしまうし、反射的に防衛反応が出てしまいます。
私はこのドロドロした気持ちの浄化が必要なんだと思いました。
私なりの「インナーチャイルドを癒す」の答え
以前『鏡の法則』を読んでいて、「人生は、自分の心を映し出す鏡である」という言葉のお陰で、自己卑下から脱出できたとも思っています。
でも「相手は自分の鏡」だから不快に思うものは自分の中に抱えている問題ということを知ってはいたけど、理解できていませんでした。
それを知るには、自分の中に浮かんだ不快で心の奥がざわつく感情について「なんでそう思うんだろう?」と探っていくこと。
そしてこういった「過去の自分を思い出すもの」を受け入れられて、ざわざわした感情が浮かばなくなった時、それが「インナーチャイルドが癒された」ってことなんじゃないかなって思いました。
正直「強要されること」に対する抵抗感はかなり根強いです。
どうやったら折り合いをつけて感情を手放せるのか今のところ全然わかりません。
しかし、それに気づけたことは大きいと思いますし、とことん味わうしかないのでしょう。
生まれたてホヤホヤでモヤモヤのアウトプットとなっており、まとまっていない部分もありますが、最後までお付き合いくださりありがとうございます。
『BUTTER』に関しては、結構いろんな感情が浮かんできたので、もしかしたらまた触れることがあるかもしれません。