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幸せについて本気出して考えてみた釈迦さんの話を見て共感したことと、論点のズレの多くはそれぞれの定義のズレだと感じたこと。

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巷で起こりがち問題。しえるです。

ストリーマーの釈迦さんが「幸せを感じる条件の定義」について話している配信があったようで、ちょっとこれはチャットに参加したかったなぁと感じちゃいました。笑

「比較対象がないと幸も不幸も生まれない」という話から始まり、幸せは相対的であるか否かを視聴者と4時間談義し続けていたのですが、こういう話を居酒屋で知らないおじちゃんと話すのが好きという釈迦さんの感覚は、私もコロナ前にそれで通っていた時期があったからわかるし、だからこそ釈迦さんの配信が好きなんだろうなと思います。

幸せについて本気出して考えてみた釈迦さんの話を見て共感したことと、論点のズレの多くはそれぞれの定義のズレだと感じたこと。

「定義」が違うと話がかみ合わない

ciel-myworld.hatenablog.com

言葉が先行してしまうと、考え方を組み立てる順序が逆になり、中身が言葉に引っ張られて後付けで埋められた内容になってしまうのではないでしょうか。

前に概念を話してくれる人はわかりやすいと書きましたが、それは言葉が先行すると、人によって言葉の意味やニュアンスにズレがあるから、同じ言葉を使って違う話になり始めるという点を嫌っていたわけで、つまりは「定義」の話でした。

そして釈迦さんたちの会話では、「定義」「相対的」「比較」という言葉の定義がズレてるから、論点がズレて話のループが多発しているように感じました。

定義って「ある概念を共通のもの」として認識するために、全部に共通するのはこれだよねって内容をまとめたものなはずです。
だから例えば「人それぞれの幸せの定義は違うけどA→Bという幸せの道筋が同じってことだよね」というコメントは、釈迦さんの言いたいことを理解しているとは思うけど、そもそも人それぞれ違うものはもはや定義じゃないわけで、「定義」の定義が違うから話がズレている人達がいるのだと伝わってきます。

人それぞれ違うのは定義ではなく価値観や見解、解釈です。

「道筋が同じ=共通認識=定義」であるから、結局は釈迦さんと同じ「A→B=幸せの定義」という話をしていることになります。

にもかかわらず、話がかみ合わなってなかったのはそもそもの「言葉の定義」が違うまま話しているからで、そういうすれ違いは世の中にたくさんあふれていると感じます。

定義って本来はズレないものなはずだと思うんですけど、言葉を誤用すれば話はかみ合いませんし、1つでいろんな意味を持つ言葉もあるからこそ、「自分はこの話題において、この言葉をこういう意味で話してますよ」と概念(内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な意味)を話すと、言葉の定義のすり合わせができてわかりやすくなると思います。

ただ、釈迦さんはそういった概念も含めてわかりやすく説明してくれていると思うのですが、自分の中の言葉の解釈に囚われている人は言葉先行でしか話さないので、どうしてもすり合わせが決裂してしまいます。

幸せは相対的なものだと私も思います

私自身は釈迦さんの話はもっともだと思っていて、「幸せは相対的なもの」という定義には賛同します。

幸せを感じる発生条件で「満たされない状態(A)があるから満たされたとき(B)に幸せを感じる」という方程式(A→B=幸せ)は絶対的だけど、同じ工程に対して幸せを感じるかどうかは絶対的ではないので、絶対的幸福があるわけではないのだと思います。

例えば、「太った状態から痩せた時に幸せを感じる」のは、太った状態と痩せた状態を比較して生まれた相対的な感情ですが、痩せている状態に幸せを感じるかどうかは人それぞれです。
釈迦さんも太れない体質だと思いますが、世の中にはガリガリで悩んでいる人も存在しますからね。

私の知人にも外から骨の形がわかるくらいの人がいて、少しでも食べ過ぎちゃうと戻してしまうし、筋トレしても変わらなくてつらいなどと話していました。

こうやって不幸せに感じるのもまた比較するからで、もう少し肉がついていてほしい気持ちがあって、理想と比較して痩せたままの自分だからこそ、ガッカリしてしまっています。

例えば先日の釣り配信で話していた、釈迦さんたちがお寿司を食べに行った時に「こっちのお客さんは食事を楽しんでいるけど、あっちのお客さんはおしゃべりを楽しんでいる」みたいなことを大将に言われて気まずかったという話。
こちらも食事とおしゃべりのどちらの幸福度が高いかは人それぞれですが、「おなかを空かせた状態で食べるから幸せ、もしくはふだん食べない高級寿司を食べる幸せ」「会わない時間があるからこそおしゃべりできる時間が幸せ」というように、どちらも満たされていない時間があるこその幸せというのは共通していると思います。

いろいろ言っていたけど結局「相対がなければそれがプラスなのかマイナスなのかも自分で認知ができない。だから幸せを感じることもない。それが自分にとっての普通になる。比較しなければ幸せに気付くことすら出来ない」のコメントがすべてかなと思いました。

子どもにまつわる幸せは子どもがいない状態があったから生まれるし、マイナスが幸せな人はプラスが幸せじゃないというもので、釈迦さんが「自覚の有無にかかわらず」と話しているように「それがない状態を想像できるかどうか」がカギなんだろうなって気がしました。
満たされていることに気づかないと幸せは感じられませんからね。

そして幸福度が高い人というのは他人と比較はせず、「できなかったことができるようになった」「おなかペコペコだったけど、おいしいものを食べて満足」というように、過去の自分と比較していることが多いんじゃないかと感じます。

今週のお題「メモ」

【2021年ありがとうございました】今年もブログや生活について振り返ってみました。

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2021年もいよいよ残りわずか。しえるです。

今年もたくさんの方にブログを見ていただき、誠にありがとうございました。

【2021年ありがとうございました】今年もブログや生活について振り返ってみました。

ブログのこと

以前より足しげく通ってくださる方も、最近新しくご登録くださった方も、皆さまいつも本当にありがとうございます。

はてなブログ アクセス数 PV 訪問者

お陰様で合計35万アクセスを超え、約260人(直前に1人減ってしまいました^^;)もの方に読者登録いただき、だいたい600~800PV/日は安定して見ていただけるようになりました。

年初の読者数は191人だったので、この1年で約70人の方々にご登録いただいたということで着実に伸びており、1日のPV数も昨年の最高値がいつの間にか平均値になっていました。

 

昨年は数字に一喜一憂していたのですが、今は前ほど意識しすぎず、書くことや自分のことなどに集中できるようになった気がしています。

(数字を気にしなくなってもスターをいただくのはやはり嬉しいものです。いつもありがとうございます!)

 

ただ、4月に365日毎日更新を終えて更新ペースが半減しましたが、「自分のペースで更新をする」って難しいなと感じる1年でした。

1つのことに没頭してしまいやすい性格なので、ブログばっかり書いてしまったり、家のことばっかりになったり、ひたすら読書したり映像を見ていたり…「無理をしない」「ちゃんと休む」という当初の目標を忘れがちになってしまうのです。

現代人頑張りすぎ問題の名残か、ついつい寝食を忘れてしまうので、バランスよくできるようになりたいところです。

YouTubeのこと

今年はiPhoneでの動画編集を覚え、最初はブログに載せるためにやっていただけだったYouTubeの更新も楽しくなっていました。

特に意味のない動画がほとんどなので、低評価があってもまぁ仕方ないねって感じなのですが、出先などで「この空間気持ちいいなぁ~」って思った時に撮ったものに1人でも高評価をいただけると、その気持ちを共有できた気分でとても嬉しかったりします。

YouTube グラフ アナリティクス ユーチューブ

そんなYouTubeもチャンネル登録者数が気づけば100人を突破し、ビックリしています。

www.youtube.com

最近はPremiere Rushが使えるようになったっぽいので、来年はそちらもチャレンジしてみようと考えています。

日々の生活や自分のこと

今年のテーマは「リセット」だったように感じています。

 

特に今その感覚が最高潮に達しているのですが、ここにきて今まで蓄積してきたものをいったん全捨てしようという気持ちになったのです。

 

「捨てる」と言っても実際に捨てるというよりは、今の自分の「当たり前の感覚を見直す」といったほうが正確かもしれません。

本当に捨てるときもあれば、残す場合もありますが、ひとまず自分の凝り固まってきた基準とか感覚をフラットにしたいなと思うのです。

定期的に行ってきたリセット

これまでもたまにやってはいたんです。

たとえば、「食わず嫌いに挑戦してみる」とか。

大人になって「これまで嫌いだと思っていたものも1回食べてみよう、もしかしたら食べられるようになっているかもしれない」と敬遠していたものも、機会がある度にチャレンジしていたことがありました。

その中で、やっぱり無理なものもありましたが、「おいしい…むしろ好きかも?」とハマっていったものもあります。

なので今も未挑戦のものがあれば、なるべく1度は試してみるようにしています。

 

自分の最大の推しであるラルクについて見直していたのも、その一環でした。

結局は「やっぱり大好き」ということを再確認できましたが、「昔と同じ熱量である必要はない」「知識や目に見える形などで度合いを量る必要はない」ということも確認できました。

 

それまでリアル知人の間では「ラルク=しえる」「レッズ=しえる」みたいな感じで認知されることが多く、そこに何の疑問を感じることもなかったのですが、今となっては、他者が自分のアイデンティティの代名詞となっていることに違和感を抱くようになってきています。

そういったファンという側面はあっても、推しはあくまで楽しみの1つであって、私の存在意義ではありません。

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今回はそういった見直しを全体的な自分の価値観にかけていきたいなと感じました。

判断基準となる価値観のリセット

これまでの経験から、いろいろな物事に対して自分の中で「採用」「不採用」とか「良い」「悪い」といった判断を下しながら生きてきたわけですが、その判断の大元って育った環境だったり、企業とか政治とか他者の思惑が入り乱れていたりと、社会をよく知らないときに刷り込まれた部分って大きいと思うんですね。

人やものへの接し方は周りの人を見て育つ部分が大きいですし、成長の過程で間違えて覚えてしまったことの1つや2つはあるでしょうし、そもそも当時受けた教育がすべて正しいとは限りません。

学習指導要領はその時代の思想や社会情勢が反映されますし、教えてくれる学校の先生も学校から出たことがない方は多いでしょう。

学生の時ってとても大きなことを習っている割に、実際にはそんな1つの小さな世界しか知らないことが多かったから、閉鎖的な空間で思い詰めやすくなってしまうのも頷けます。

 

でも子どもの頃に染みついたものって結構頑固といいますか、意識しないとアップデートって難しいと感じますし、なんならその前提知識が古いことに気づかないこともよくあります。

 

たとえばわかりやすいところで言えば、今はもう「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」じゃないとされているし、江戸時代の身分を表す言葉として「士農工商」は使われなくなっていたり、冥王星準惑星になったりなど、解明が進んだことで昔習ったことが変わっていることがあります。

『クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?』というテレビ番組を見たときにも、私が習ってきた内容とずいぶん変わっているんだなと感じました。

アルコールランプがカセットコンロに変わった話は聞いていましたが、pH試験紙を使った実験などは初耳でした。

 

また同じ対象でも、当時の自分と今の自分では見え方が変わってくることもあります。

たとえば子どもの頃に見ていたアニメとか特撮とか、大人になって見ると「こんな話だったの!?」と驚くことも少なくありません。

知識や経験値が増えていくごとに、自分の中の価値観ってどんどん変わっていくものだと感じているのですが、昔見聞きして覚えた情報をわざわざ今の価値観に置き換えて見直すことって、仕事や趣味など日常的に触れる分野以外ではまぁなかなかないと思うんですよね。

 

否が応でも時代は進んでいくもので、若くなればなるほど「デジタルネイティブ」と言われるようにデジタル製品が当たり前であったり、環境の持続だったりハラスメント防止だったりに力を入れるようになっていたりと、文化や考え方の大前提も変わってきています。

特に最近は進化が加速しており、そういった時代の流れの中では、デジタル格差がどんどん開いていったりすることも問題とされていますね。

 

別にFAXでも現金でも何でも使いたいものを使えばいい話ですが、今はカードやスマホをかざせば支払いができるし、スイッチ1つでお風呂を入れたり、調理したり、掃除機をかけたりできる時代で、1度それを経験してしまうとなかなか元に戻れません。

スマホとか最新のツールに触れることは、昔の不便さだったり、不快だったりを知っているからこそ、便利さのありがたみがよりわかるというもので、ここに労力をかけなくていいんだと気づけ、自分が楽になるという恩恵を受けることができるようになります。

 

でも別の視点で、便利だけど環境や自分の健康への影響が大きいという問題も出てくるかもしれません。

最初の支払いは高いけどランニングコストで見れば余りある恩恵があるということもあれば、便利ではあるけど結局はスペースを取るだけでなくても平気だったってこともあるでしょう。

そのバランスは多角的に見て天秤にかけ、自分の中で何をとるか判断していくことになります。

 

なにぶん土台の話ですから範囲が広くてもう少し時間がかかりそうですが、そうやって今の自分を形成してきた「当たり前」となっている基礎を見直し、物も考え方も整理して、程よく肩の荷を下ろしていこうと努めています。

感覚のリセット

元々私は、理想とか希望とか夢とか将来のなりたい姿を考えることが苦手でした。

やりたいことはたくさんあるけど、こんな職業に就きたいとか、結婚したいとか子どもを産みたいとか、どういう家に住みたいとか、売れたいとか、そういった欲望はまるでなかったのです。

 

でもいろいろ経験してきた中で「これはイヤだ」と思うことがたくさん出てきました。

時間やノルマなどに追われたくない。

他人の都合に振り回されたくない。

他者の過剰な干渉を受けたくない。

苦手なことはなるべくやりたくないなど…。

 

そして昨年は自分を大事にすることの大切さに気がつきました。

少しずつ、少しずつ、自分がどうやったら快適に過ごせるのかを考えてきました。

 

でもお金のこととか、自分の能力とか、これまでに培ってきたものとか、今の自分の価値観の中だけで考えようとしてしまう私がいます。

つい自分の狭い了見に留めてしまうのです。

 

でもこれまた最近、あることに気がつきました。

 

これはブログを書いていてしょっちゅうぶち当たる問題なんですけど、「過去の自分が好きだったものを、今の自分も好きと思うのか?」という自問がよく頭をよぎります。

結局は当時の自分は良いと感じたということで、それはそれでよしと捉えていますが、音楽を聴く聴覚も、芸術を見る視覚も、おいしいものを食べる味覚も、経験値が上がれば肥えていくもので、先ほども書いたように昔と今の自分では価値観ががらりと変わっており、すべてを今の自分も良いと感じるとは限りません。

ラルクのようにやっぱりいいなぁと思うこともあれば、過去好きだったものでも今の自分には合わないなと感じることもあります。

 

そう考えると将来の自分もまた、今の自分が別物と感じ、価値観が変わっている可能性は高いのでは?と思い至ったのです。

 

であればと、すべての感覚をいったんリセットし、自分の中の凝り固まってしまっている「常識」という制限をいったん度外視して、「何をやっても許されるし、なんでもうまくいくとしたらどうしたい?」と自分にとことん問いかけていっています。

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そしたら先日、東海オンエアのてっちゃんが友人・出っ歯くんのお悩み相談会で「じゃあ何やっても、再生数100万確定ですって言われたらさ、何やる?1番自分が見せたい自分でいれるってことよ。あなたはそのジャンルで人気になれますってなったら。理想。」って聞いていて、今の自分が考えていることと一緒だ!と感じました。

 

去年はテトリスに例えて、ブロックが溜まってパニックになっていたのを、落ち着いて列を消せるようになったという話をしていましたが、今年はマインクラフトで整地をしているような感覚でした。

木が生えているのを伐採し、でこぼこな土地を更地にして、まっさらな土台ができてきたので、来年はいよいよ建築していこうという気持ちでいます。

何を建てようかな?素材は何を使おうかな?大きさはどれくらいにしようかな?

まだ決めていないことだらけですけど、わくわくしちゃいますね。

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1年前の自分の言葉を見ると、この1年での自身の変化を実感できる気がします。

ふだんはその変化に気づきにくいし、振り返ることで自分の考えを整理できるので、ブログはいいですね。

 

最後に改めて、この1年ブログに足を運んでくださり、誠にありがとうございました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。


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